八重桜(松月)z001さん撮影、クリックすると拡大します。

1937年
秋冬コレクション

検索サイトからいらっしゃった方へ、まず日記Namazu検索(左)をしてください!


"Don't kill, don't be killed"
«前の日記(2008-12-31) 最新 次の日記(2009-01-02)» 編集

2009-01-01 (占領20日目)

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] ハラハラ元旦

平和が訪れますように
一月一日 土曜日
 元旦! 一九三八年の最初の日だ。「新年おめでとう」ということばは、喉元から出かかっても消えてしまう。「平和が訪れますように」とだけ挨拶する。七時三〇分からのスタッフの礼拝集会には九人が参加した。いまではつとめて毎日、この礼拝集会をおこなうようにしている。いまなお外界から完全に遮断されていて、友人たちがどのような状況にあるのかわからないので、想像をめぐらしながら祈っている。
このような悲惨と落胆の日々にあって、「新年おめでとう」ということばほどむなしいものはないのであろう。ヴォートリン女史は本当に自分の心を偽れない人のようだ。 1938年1月元旦のヴォートリンの日記はつづく
  • 悲嘆に暮れている程先生
  • 元旦早々2つの事件
  • 軍事視察員3人がやってきた
  • キャンパスでの男性の登録をやめさせることができるか
  • 火災と略奪
  • 重大な不行跡のかどにより兵士7名逮捕
  • 自治委員会発足の集会への動員
元旦早々の事件とは?
 午後、わたしが交替して執務室に詰めていると、四時までに二つの事件があった。三時ごろ使用人の一人が慌ただしく入ってきて、キャンパスに避難している少女一人を兵士が連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。急いで出て行き、図書館のすぐ北の竹林に少女といっしょに兵士がいるところを見つけた。兵士はわたしの声を聞きつけると、慌てて逃げ出した。このあと、ときを同じくしてキャンパスにやってきた兵士二人を追い返した。
やはり恐れていた正月となってしまった。正月お屠蘇気分の日本兵がやはりやってきた。安全区にも難民収容所にも近づかない、という日本軍の規範はどこに行ったのだろうか。
 今夜は北里門橋の方角で大きな火災が発生している。掠奪が続いているのだ。二、三日前に聖経師資培訓学校内で女性二七人が強姦されたが、それでも、強姦事件は減少してきていると思う。
ヴォートリンは、日本軍の規範遵守を諦めてはいないのだが・・・
 きょう憲兵−たしかに優秀なようだ−が、重大な不行跡のかどにより一般兵士若干名(七名)を逮捕したそうだ。彼らは銃殺されたと、人びとは憶測している。
さあて、日本軍の記録に残っているだろうか?
コメント

自治委員会発足の集会への動員。
ヴォートリンにとっても「自治委員会」のことは気にかかる。
 午後、鼓楼広場で大きな集会があり、そこで市の新しい役人が任命された。わたしたちの地区は、一〇〇〇人の代表を送るよう求められた。五色旗と日本国旗が盛大に並んでいた。細かな事情は聞いていないが、心痛のあまり食事も喉を通らなかった代表を知っている。あなたがたは、この新体制を自発的に、そして熱烈に歓迎している〔かのごとき〕写真をきっと目にすることでしょう。
ハイ、そのとおりでしたね。「南京自治委員会の成立を祝福する市民の旗行列
なお、このリンク先記事の筆者である田中正明氏は、1月3日の出来事だと間違った理解からラーベたちを批判しています。1月1日のことであることは、南京自治委員会をお膳立てし指導した、日本軍の特務機関の文書(参考サイト)でも確認されています。ラーベやヴォートリンの方が正しいのです。

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] ラーベ1938年元旦

ラーベの元旦の日記は、
  • 疲労困憊の大晦日パーティー
  • 張のかみさんを鼓楼病院へ
  • ラーベの庭での新年祝賀
  • シュペアリングとリッグズに葉巻を進呈
  • 日本兵の“恥”初め
大晦日の夜
一九三八年一月一日
昨日の夜九時半、七人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時間ほどおしやべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れはてて眠りこんでしまったので、はやめにお開きになった。(後略)
張のかみさんの容態が悪化して
朝七時ごろ、張がきた。かみさんの容態が悪化したという。私は大急ぎで服を着て、鼓楼病院へ連れて行った。三回目だ。
畝本正巳氏は、鼓楼病院へいったのだから、「自治委員会発足祝賀旗行列」を見たはずなのに記載していないとラーベを非難しているが、はたして、朝九時過ぎに旗行列は始まっていたのだろうか?

避難民達のラーベに対する感謝の挨拶。ラーベと避難民との人間関係がよく分かるので、少し詳しく引用したい。
家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百姓(ラオバイシン)」(中国語で名もなき民の意)はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴らした。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから六百人全員で私を取り囲み、白い包装紙に朱液で書かれた年賀状を手渡し、いっせいに三度お辞儀をした。ありがとう、とうなずいて私が年賀状を折り畳み、ポケットにつっこむと、まわりから歓声があがった。残念ながら、大きすぎてとてもこの日記帳にはおさめられない。中国人の友人が訳してくれたところによると、
  ラーベさん
 どうか良い年でありますよう
  一億があなたのそばにいます!
      収容所の難民たち
        一九三八年
(中略)
火花の雨のあとは、使用人とジーメンスの従業員が総出で行列をつくり、おごそかに慣例の新年の叩頭の礼をした。
着の身着のままで集まった難民達が、最大限の礼をつくして新年の挨拶をラーベに送った。しかし、人間と人間との心の通い、心温まるこの日によりによって、
夜の九時に日本兵がトラツクに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へむかった。ここはたえず日本兵におそわれている。私は庭の見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。こうしておけば、いつお越し下さってもすぐに馳せ参じられる。だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。
日本人としては情けない、“恥”の掻き初めであった。
[]

Namazu検索の方法
記事の権利と責任はすべて下記にあります。クレームなどは直接メールでどうぞ。
Copyright © 2003-2004 late-mhk[hamasa7491@hotmail.com]. All rights reserved.
2009年
1月
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31


目次




Search

     



訂正・追記
中国地名・都市間距離
安全区の地図
ラーベの家と周辺
南京市街図1937・9・1(大阪毎日)
南京附近1937・12・1
現南京MAPBAR
現南京城内街路
現南京地図
ゆがめられたラーべの人物像
ラーベ『南京の真実』の誤訳



アンテナ
WEBアンテナ
tDiaryアンテナ


リンク
ja2047_memorial
15年戦争資料 @wiki
「南京事件」143枚の写真&読める判決「百人斬り」
日中戦争スタディーズ
ホドロフスキの記録帳
*なんでも質問箱
Apes! Not Monkeys!
クッキーと紅茶と
思考錯誤
南京事件小さな資料集
ザ★20世紀1937年
南京事件FAQ
tDiary.Net
落書き part-4


今月のタイトル