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1937年
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"Don't kill, don't be killed"
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2008-12-13 (占領初日)

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 日本軍ついに入城

日本語ラーベの日記の12月13日分は、14日の分と一緒になってリリースされてしまったと思います。ここでは中国語版に準拠して、内容を分割して掲載します。
    【追記】
    ・中文とその他語版との異同について表にしました。
      「12月13日と14日分、各語版のContents比較」
       http://latemhk.tdiary.net/19371214.html#p01
    ・なぜ語版同士に異同があるかを考察してみました。
      「語版関係図」
       http://latemhk.tdiary.net/19371213.html#p01
    よろしくご批判ください。

・国際赤十字支部を設立しその資格で野戦病院をまわる
十二月十三日
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。

本部に着くとすぐ、我々はたった十分で国際赤十字の支部を設立し、私も執行委員名簿に加わった。赤十字をつくらねばと何週間も思案していたマギー君が会長になった。

委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。
国際赤十字の支部を立ち上げたのは、管理者である防衛軍が消滅して放置された野戦病院に対処するためだろう。最初の対処が「視察」であった。中山路(北路)を鉄道部、軍政部、外交部と北から車で廻ったのか?⇒市街地図参照

(※)訳本では、「ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ」だが、「担当」はヘン。英文では、"Our good John Magee, who has been mulling over the same idea for weeks now, is chairman."

ミニ―・ヴォートリンの日記では、赤十字支部設立に関してはより明確な記述がある。
 軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][誤訳] 街路のありさま日本軍と遭遇

(12月13日つづき)
外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。

我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を礫いてしまったが最後、ふっとんでしまう。 上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転がっていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。(※1) 日本軍の伝令(分遣)隊には、ドイツ語を話す軍医がいて、日本軍司令官は二日間はまだやって来ないだろうと告げた。(※2)
(※1)訳本は「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。」だが、渡辺氏の訂正訳によった。
(※2)(英文)"One Japanese detachiment, with a German-speaking doctor, tells us that the Japamese general is not expected for two days yet."

中山北路を南下して外交部を過ぎて、上海路を右に安全区側にまがった。そこで下記にあるように日本軍部隊に出あったらしい。だとすれば、安全区にすでに侵入していたということになる。

ラーベに同行したスマイスの記録に依れば、日本軍部隊とであったのはもっと先でのことだったらしい。ラーベの日記よりも詳細である。
 我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!

  しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。
北へ向かう大勢の部隊を見たのは新街口近くであったらしい。

ラーベたちは、南京城内が日本軍の支配下に移るに際して、日本軍の司令部と早急に接触をもつ必要に迫られていた。だから、初めて出あった日本軍将校に「司令官」のことを尋ねた。

なお、ラーベ達が日本軍部隊に出会った時刻はこの文面からは不明である。しかし、朝から情報収集をし昨夜ほどの砲声銃声がないのを確認してから、おそるおそる出立したはずだ。赤十字を立ち上げ、野戦病院を見回っているところからすると、すでに午後おそくになっていても不思議ではない。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 敗残兵の武装解除

日本軍は北へ向かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の中国兵を武装解除して助けることができた(※2)。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。

私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][誤訳] 安全区の新たな危険

どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ !ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊減とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。

我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。
ラーベ達は、中国兵を武装解除さえすれば、捕虜として寛大な扱いがされると信じていた。国際法の常識でそう考えたのであるが。

(※2)訳本は「日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。」だが、渡辺氏訂正に依って訳文は既に差し替えた。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 安全区内での武装解除

本部に入ると入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍にひき渡さなければならない。
日本語版の12月13日の日記はまだ続く。しかし14日の日記の項目はない。英語版とドイツ語版原著も同様に14日分は欠項である。この14日分の欠項を、13日の分と14日の分が一緒になって13日となってしまったのだと、私は解釈した。

中国語版には12月14日の項がある。私はそれに準拠して考えた。それによれば、12月13日分の記事はここまでである。詳しくは明日の項で改めて述べるつもりだ。

[ラーベの日記][国際委員会] 安全区外国人の行動

(2006/12/21追記)
なお、この日、12月13日の安全区外国人の市街巡察行動については、ラーベの行動だけでなく、他の外国人の行動と関連して検討する必要があるようです。手分けして城内の状況を把握しようとしたようです。4年前ですが、ゆうさんと渡辺さんのディスカッション があります。そして、それを反映した、ゆうさんのページもあります。

ただし、ラーベの「ヒトラーへの上申書」は、12月13日の行動と14日の行動が、城内内部の状況として、混ざって書かれているような気がするのです。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][所行無情] 避難民諸兄への重要注意

ところで中国語版によれば、難民の群れが日本軍によって襲撃されないよう注意書を出したという記事が、13日の項の末尾にある。英語版に、その文面が巻末「ドキュメント」として載っているので以下に掲載する。英語版では文書の日付は14日である。
DOCUMENT 10
14 December i937: Important Notice to the Refugees in the Safety Zone 安全区の避難民諸兄への重要注意
  1. From now on people should stay off the streets as much as possible. 今からは、できるかぎり街路上に留まらないようにしてください。
  2. At the most dangerous moment, everyone should get in houses or out of sight. もっとも危険と感じたときは家屋の中に入るか身をひそめてください。
  3. The Safery Zone is for Refugees. Sorry, the Safety Zone has no power to give protection to soldiers. 安全区は避難民諸兄のためにある。しかし許されよ、安全区は兵士からのあなた方を守る手段を何一つ持ちません。
  4. If there is any searching or inspection, give full freedom for such search.No opposition at all. 捜索や訊問をうけるような時は、相手のいうがままにして決して抵抗してはなりません。
いかに「国際安全区」と言えども、軍事占領下の武力支配に抗することなどできない!!

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 12月13日ヴォートリンの日記

金陵女子文理学院教授ミニ―・ヴォートリンのこの日の日記を、ゆうさんhttp://www.geocities.jp/yu77799/が書き起こしたものから転載させていただきます。
  一二月一三日月曜日
( 日本軍が午前四時に光華門から進入したそうだ。 )

 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。南の方角だ、と人びとは言っているが、わたしには西の方角からのように聞こえた。城内でもさかんに銃撃がおこなわれた。実際、わたしはぐっすりと眠りにつくこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、だれもが服を着たままだった。

 五時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。けさキャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。

 近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、わたしたちとしては、キャンパスの中でなくても安全区内にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らにわからせようと努力してきた。

 粥場、つまり炊き出し所でけさ初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。一〇時三〇分には粥はすっかりなくなっていた。午後、二回目の給食がある予定だ。

 一一時ごろにサール・ベイツがやってきて、交通部の建物が中国軍の命令できのう破壊されたこと、次に破壊される建物は鉄道部であることを知らせてくれた。それを聞いて胸が痛む。そんなことをしても何の益はなく、それは間違ったことであり、日本軍を困らせるよりも中国軍に与える損害のほうが大きいと思うからだ。

 軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。

 午後四時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人がわたしを呼びにきて、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鷲鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。

 あれだけの爆撃や砲撃のあとにしては、城内は奇妙なほどに静かだ。中国兵の掠奪、戦闘機による爆撃、大砲による砲撃という三つの危険は去ったものの、四番目の危険がいまなお目の前に立ちはだかっている。わたしたちの運命は勝利軍の手中にあるのだ。今夜はみなとても不安で、どんなことになるのか予想がつかない。

 プラマー・ミルズの今夜の報告によると、これまでに接触した日本兵たちは感じがよかったそうだ。しかし、接触した日本兵は、いかにも少数だ。

 午後七時三〇分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。

 後に、このことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致している。

 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。わたしたちは、透過不可能な地帯に隔てられてまったく孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つことにしよう。

 金陵女子文理学院にかんしては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。わたしたちはほとんどいつも、全身に染み込んだ疲労に耐えきれずに、太くて低い坤き声を発している。 ( 今夜は武装を解いた兵士が安全区に大勢いる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない)

(『南京事件の日々』より)
・日本軍部隊が、安全区の難民用の食糧を真先に差し押さえにやって来た。「人間が大勢集まるところに食糧あり」。すでに情報を手に入れていたのだろうか。

アメリカ砲艦パナイ号は、陸の孤島南京から外部への唯一の連絡の糸として頼られていた。だが、すでにそれが日本海軍機によって撃沈されていたことをヴォートリンは知らない。

[程瑞芳日記][戦況と民衆][所行無情] 程瑞芳日記12月13日

金陵女子文理学院でヴォートリンと共に教授として働いていた、程瑞芳女史の日記を、熊猫さんは翻訳しmixi日記に掲載しています。
http://mixi.jp/list_diary.pl?id=6258915
 昨夜、我が軍は撤退し朝から砲声すら聞こえない。日本兵は午後2時に水西門より城内に入った。

 私達の黄警官は南山で日本兵が広州路にいるのを見て、彼は警官の制服を脱いで走り、400号棟の側まで転がり降りてくる際に、慌てて足をつまずいて転んでしまったので顔が真っ白になった、本当に臆病な人だ。私達は直ぐに南山に行って見た、その時は十数人の兵隊が邵さんの家の側に立っていて、使用人は皆おろおろした。

 直ぐに日本兵が鶏小屋のまでやってきて鶏を要求したので使用人はヴォートリンさんを探して来た。ヴォートリンさんは彼らに食べることができないと言うと、彼らは行ってしまった、ガチョウの鳴声が聞こえたので彼等は来たのだ。

 今晩は多くの人が校内に飛び込んで来る、彼らの家は日本兵が寝るために入り込んで来たので家を出たのだ。掛け布団は日本兵が使われたので、これら人々は皆手ぶらで入って来た。皆が安全区内にいたのは日本兵が安全区内に入って来ないと思っていたからであり、非常に驚いた。

 私は悲しみが込み上げてきた、南京城が平静を失ってまもなく4ヶ月になるであろう、しかも南京城はたったの3日間で壊された、本当に悲惨だ、明日またどんな事が起こるか分からない!今日また2人の子供が苦しみに耐えて生まれた、これらの月は母子も苦しく、この地で寝ている。

【黄警官】金陵女子文理学院を管轄していた警官。広州路にいたのは歩兵第47連隊の兵士と思われる。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間にある小高い丘のことではないかと思われる。しかし1921年の南京の地図を見るとその場所は「小倉山」となっている。 南山にはもうひとつ、「南山公寓」を略して記述している可能性があるが、別の日の日記に「西山」という記述があるので、南山公寓と特定するのは避けた。
【使用人】原文は工人[gong1ren2](労働者)、学内の肉体労働の雑務をする人。 ヴォートリンの日記と同じ表現をしたほうが混乱がないと思って訳しましたが、ヴォートリンと程瑞芳では学院内での立場が違っていたので、工人と記述していたのかもしれない。
【ヴォートリンさん】原文は「華小姐」。「ヴォートリンさん」と訳した。
【ガチョウ】中国語の「鶏」という字と類似しているので誤記ではないかと思われる。確認が出来ないので「ガチョウ」と訳した。

コメント 2006年11月05日 熊猫
実際に日本軍が水西門から入ったのは午前8時30分。
すでにこの日、日本軍部隊は安全区の中に入り、食糧「徴発」を行なおうとしている。さらには、安全区内で住民を家から追い出し寝具を奪い、宿を「調達」している。

「とり」の話は、立場、距離の違いも分かって、ヴォートリンの日記とぴったりと隣接している。
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