八重桜(松月)z001さん撮影、クリックすると拡大します。

1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
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2008-11-30

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 十一月三十日

十一月三十日
韓に家族を連れて越してくるようにいった。一家はいま学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で怡和通レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだできあがらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げた煉瓦壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)がひとつあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道がとまりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約1ヶ月分ある。
  • 韓湘林・・・・・ラーベと深い信頼関係にあったジーメンス南京支社の中国人アシスタント。日記には頻繁に登場する。

一晩かけて予備の注射器を煮沸消毒した。器具一式と、インシュリンのアンプル三個を肌身離さず持ち歩いている。張のかみさんはまだ入院している。コックの曹も入院中だが、こちらは快方に向かっている。せっせと薬を飲んでいる。効くと信じているが、理由は簡単、まずいからだ!
  • インシュリンについては、10月3日と10月29日 の日記を参照。
  • 張国珍・・・・・ラーベに長く仕えた中国人ボーイ。
  • 「コックの曹」:厨師师曹保林 11月27日の日記参照。なお10月28日の日記の日本語訳では、ラーベは「曹保林」をこっぴどくやっつけ解雇している。解雇したのに1ヶ月後にこうして現われたのは、10月28日の日本語訳が人違いであった可能性が高い(中国語訳では"蔡"という別人)。だが、10月28日の英文は "Tsao"、11月27日の英文でも "Tsao"。いずれにしても、10月28日の日記を考察し直す必要がある。
    (追記)或いはもしかして、ラーベには「お前なんかクビだ!」と使用人を怒る習癖があったのかも。寺内貫太郎?(笑)
蕪湖から医者のブラウンさんとフランス人の神父さんがやってきた。蕪湖でも安全区を設けるつもりなのでいろいろ知恵を貸してもらいたいという。だがこちらも途方にくれている有様なのだ。

まだ残っている住民の数をもう少し正確につかまなければな。「正確な」情報を教えてくれるといっていた男、すなわちかつての警察庁長王固盤が逮捕されたという噂が、たった今飛び込んできた。自分は軍人ではないから任ではないといって辞任したのだったが。
ラーベが住民の数を知りたかったのは、食料や住居の確保のためだ。
スマイスから電話。南京市には六万袋、下関には三万四千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまり藁小屋に使う筵だ。この寒空に、なんとかして泊まれる場所を確保しなければならない。

以下は国際委員会が抱えている課題である。

  1. 資金の調達
  2. 警察
      安全区入り口の検問
      境界の警備
      警察官の総数とその宿泊施設の整備
  3. 兵士と軍人たち
      撤退の指令と視察
      すでに始まっている脱走兵の対策
      負傷者の看護
  4. 食糧の配給
      食料の管理
      食料の貯蔵と分配
  5. 輸送と輸送手段
  6. 避難民の収容施設
      見張り
      建物の使用と管理
        (a)公共の建物(政府の)
        (b)学校や伝道団の建物
        (c)空き家、藁小屋
  7. 公共施設
      水道
      電気
      電話
  8. 衛生設備と健康管理
      仮設便所
      ゴミと糞尿の運搬
      病院と医療設備
次に南京安全区委員会のメンバーリストを記す。

名前 国籍 所属
ジョン・ラーベ(代表) ドイツ ジーメンス洋行
ルイス・S・C・スマイス(事務局長) イギリス 金陵大学
P・H・マンロ=フォール イギリス 亜細亜火油公司
ジョン・マギー アメリカ アメリカ聖公会伝道団
☆P・R・シールズ イギリス 和記公司
☆J・M・ハンソン デンマーク 徳古士煤油公司
☆G・シュルツェ・パンティン ドイツ 興明貿易公司
☆I・マッケイ イギリス 太古公司
☆J・V・ピッカーリング アメリカ 美孚煤油公司
エドゥアルト・シュペアリング ドイツ 上海保険公司
M・S・ベイツ アメリカ 金陵大学
W・P・ミルズ アメリカ 長老派教会伝道団
☆J・リーン イギリス 亜細亜火油公司
C・S・トリマー アメリカ 鼓楼病院
クリスティアン・クレーガー ドイツ カルロヴィッツ・南京(礼和洋行)
ジョージ・フィッチ アメリカ 基督教青年会(励志会)

(編注か?)☆印をつけた人は、包囲される前に、南京を去っている。

南京に残った人のリストはまた補足する必要がある。

[warなひと人][戦況と民衆] 戦争はお祭り?

同じ日、日本の新聞にはこんな戦争英雄が登場した。

東京日日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>

百人斬り競争!両少尉、早くも八十人

[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。

無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

向井少尉

この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉

僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

なお、佐藤振壽カメラマンがこの常州での取材時に撮影した二人の中尉の写真は、電信で送った記事よりも遅れて日本に到着したためか、12月13日朝刊<第4報>「百人斬り成就」を報じる紙面に掲載される。

戦争を講談のように語る記事は新聞や雑誌に、すでに溢れていたようである。タラリ氏の研究によれば、『何十人斬り』という記事も1937年9月頃から、さかんに書かれていた。

野田、向井両少尉の「百人斬り英雄談」連載記事の詳細は、こちら。ゆうさんの研究と資料提供にもとづく。

【追記】 『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著 がお勧めです。
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