八重桜(松月)z001さん撮影、クリックすると拡大します。

1937年
秋冬コレクション

検索サイトからいらっしゃった方へ、まず日記Namazu検索(左)をしてください!


"Don't kill, don't be killed"
トップ 最新 追記

2008-11-01

[ラーベの日記][中文][空襲] 但是没有空襲

11月1日

空は少し群雲が覆う程度、しかし空爆はなかった。 私達は静かに自分たちの仕事をすることができた。
とのこと。よかった!
本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

◆★▼ Goonowamdeemy [女中を制御する&#..]

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2008-11-02

[ラーベの日記][中文][戦況と民衆] 大雨なのに空襲警報?

この日の日記(中文)は、
・大雨だけども警報が鳴った
・それは中国軍機によるもの
・上海から「欲しいものはないか」と気遣いの電報
・夜中調子が悪いのはインシュリンの量のためか?
などのあとに、あの「四行倉庫」決戦の続報。10月31日のこと。

11月2日

(前略)  蒋介石の命令によって、“決死大隊”の生存兵士は倉庫から撤退した。 蒋介石のやり方は正しい!
ラーベは、全滅を避けながらも『必要なら決死の闘い拒まず』を示したとしている。

[ラーベの日記][追記] 遡って

10月12日以前の日記をごく一部ですが経日的に追記します。8月28日から。カテゴリーリンク[追記]を辿ってみてください。

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2008-11-03

[warなひと人][戦況と民衆] 日中戦争初期の戦況と経過

ここで日中戦争勃発からの経緯をピックアップしてみます。参考にしたのは、秦郁彦「南京事件」中公新書と笠原十九司「南京事件」岩波新書です。
1937年(昭和12年)
7月
7日  蘆溝橋事件
8日  参謀本部、石原莞爾部長を中心とする「不拡大現地解決」派と
   武藤章作戦課長を中心とする支那一撃論の「拡大」派との対立。
11日 近衛内閣、現地での停戦にもかかわらず、
   華北へ5個師団派遣決定、重大決意声明
8月
11日 蒋介石、中央軍3個師団に攻勢下令(上海)。華中への誘引戦略。
13日 日本海軍陸戦隊4,000と本格戦闘(第2次上海事変)
14日 中国機による共同租界爆撃
15日 松井石根司令官の上海派遣軍(第3、11師団基幹)編組、
   近衛文麿「暴支膺懲声明」、
   午前、最後の南京日本大使館員と日本人居留民が南京を去る。
   午後3時、海軍機が南京渡洋爆撃開始。下旬、夜間空襲しきり。
23日 上海派遣軍呉淞上陸
29日 五カ国代表、南京爆撃への抗議書
31日 北支那方面軍編成(華北)
9月
5日  近衛首相、帝国議会で国民精神総動員を呼びかける
7日,11日 参謀本部、上海戦への兵力増強を決定
10日 上海公大基地に第2連合航空隊移駐。
   19日から戦闘機に守られた南京空爆が本格化。
24日 保定占領(華北)
28日 国際連盟総会で中国年爆撃避難決議を採択。
   参謀本部第1部長石原莞爾(不拡大派)関東軍に転出。
   下旬から 増援部隊上陸、総兵力は19万に
10月
10日 華北制令戦を越えて石家荘攻略(華北)
26日 上海郊外の中国軍の要衝大場鎮陥落
11月
5日  第10軍杭州湾上陸
7日  中支那方面軍の編合、参謀副長には(参謀本部拡大派)武藤章。
9日  山西省太原占領(華北)。華北投入兵力は8個師団を基幹とする37万
9日  大上海全域の占領発表 
    そのころ中国統帥部は西方への全面退却を下令。
13日 第16師団が白茆(ぼう)口に上陸。
19日 第10軍独断で南京追撃命令を発す
20日 天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置される
22日 中支那方面軍から南京追撃意見書
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2008-11-05

[ラーベの日記][中文][家族] 風邪をひいたか

ラーベは風邪をひいたか、日記は4日、5日の合併でしかも中文にしかない。

11月4,5日(つまみぐい)

頭が痛くて、微熱、喉の痛み、のどはかすれて、 咳、脈拍の毎分の95回、おびえて、1晩中まったく眠れない。 医者は“深刻ではない!!”というが・・・・。 hhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/tb/310.html
医者はいろんな薬を処方したが、ラーベはアスピリンだけを飲んだという。妻ドーラには心配するから(線路を歩いてでも南京に駆けつけるから)知らせないで欲しい、とのことである。
本日のツッコミ(全43件) [ツッコミを入れる]

Before...

◆★▼ Abigail [Could you please repeat that? <a href=" http://www.astrobr..]

◆★▼ Alexandra [A law firm http://www.conciergerie-solidaire.fr/vitrine/qu..]

◆★▼ Gabriella [Could you tell me the dialing code for ? http://www.rsp.fr..]

◆★▼ Dominic [I do some voluntary work http://www.mulotpetitjean.fr/html..]

◆★▼ Brady [Could I order a new chequebook, please? <a href=" http://w..]

◆★▼ Sofia [I'd like to change some money <a href=" http://www.wcgcana..]

◆★▼ Josiah [No, I'm not particularly sporty <a href=" http://www.fores..]

◆★▼ Tristan [I've got a part-time job <a href=" http://www.ncteachercad..]

◆★▼ Kyle [What are the hours of work? <a href=" http://screencandy.c..]

◆★▼ Diva [I really like swimming <a href=" http://www.outdoornet.nl/..]

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2008-11-06

[ラーベの日記][戦況と民衆] 勇敢な中国軍に驚嘆

中文によると、ラーベはおたふく風邪?で3日間寝込んでいたらしいが、今日11月6日には回復したようだ。日本語版では今日の日記から復帰である。

11月6日

  いや、驚いた。新聞によると、中国軍(傭兵部隊だということを忘れてはならない。南京は指令を出したものの、むろんのこと徴兵令が出なかったからだ)が、強力な日本軍と上海で戦っているという。ドイツ人の軍事顧問が鍛え上げたえりすぐりの南京部隊が上海に派遣されていたのだが、すでに三分の二が戦死したらしい。いくら精鋭部隊といえども、武装が十分でなければどうしようもない。日本の近代的な軍隊は、巨大な大砲や無数の戦車、爆撃機をそなえている。中国のとはくらべものにならない。
なんか、翻訳日本語の文章がヘン、文章の筋目がわかりません。ほんとはこんな感じでは!(英文の日記参照)
勇敢な中国陸軍のことを新聞で読んで、驚嘆せずにはいられない。
想いおこせば南京では徴兵が宣言されたものの、徴兵は実行されず
雇われ兵でしかなかった。(にもかかわらず)上海では良く訓練
された日本軍部隊に抗して、今もなお(勇敢に)闘いつづけている。
たしかに、ドイツ人の軍事顧問が鍛え上げた唯一最強の南京
部隊が上海に派遣されたには違いないが、(逃げることなく闘い)
すでに三分の二も戦死したらしい。いくら精鋭部隊といえども、
武装が十分でなければなにもできないという状況下で! 
日本の軍隊は近代化され、巨大な大砲や無数の戦車、爆撃機を
そなえて中国とはくらべものにならない、というのに。
中国軍は、徴兵された兵からなる「国民軍」でなく、食いはぐれた失業者が「雇われる(hired)」質の悪い軍隊でしかなかった、というのが定評であった。愛国心も薄く軍紀もなっていない、烏合の衆にすぎない、というように。それが1937年の上海戦で覆ったのである。

[戦況と民衆] 日本軍も苦戦

上海戦線の戦いが如何に壮絶なものだったか、日本軍側からみてみよう。
旅順攻めに迫る損害(「南京事件」秦郁彦P65)
二か月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上まわる甚大なものとなつた。戦死九一一五、戦傷三万一ニ五七、計約四万という数字(戦史叢書)は、惨烈無比と言われた日露戦争の旅順攻防戦(死傷約六万)に迫るものであった。
※「松井大将日記」(昭和十三年二月十四日)は上海、南京戦を主とする中支那方面軍の十三年二月までの戦死(病)者を二万四千余と記している。この数字が正しいとすれぼ、上海戦の損害はもっと多いはずで、戦死は一万五千を越えるのではないかと思われる。
中国軍の総兵力は30万を越え、対する日本軍は7個師団半20万人だった(あとで2個師団5万人追加)。もちろん中国軍側の損失は、30万の2/3だとすると、上記よりはるかに大きい。「南京事件」秦郁彦はつづく。
とくに最初から上海戦に投入された部隊は、定員数を上まわる損害を出し、十回以上兵員を補充した部隊も珍しくたかった。なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衡撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第百一師団がその好例で、上海占領後の警備を担任するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水のなかで加納連隊長、友田恭助伍長(新劇俳優)らが戦死した。
友田恭助
第百一師団通信兵の手記はWEBにもあります。加納連隊長戦死の場面も書かれていますので是非お読みください。
戦場と一兵士〜上海戦線

同書の続きです。
東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞いこむ戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れて加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さにたえかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目ざめた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。また満州事変以後、近代化を進めてきた中国軍の近接戦闘兵器の火力は日本軍をしのぐ例も少なくなかった。
前述したラーベの日記の11月6日の記述とも平仄が合う。“民族意識に目ざめた中国兵士たちの強烈な抵抗精神”
第九師団に従軍した一兵士は、戦陣日記に次のように書いている。
「一弾は白分より二人前の中隊長殿の右大腿部を貫通、他の三名もやられた……地形に精しい敵は暗夜の逆襲を常套手段としているが、私は一発も盲射せず着剣して待ち構えたが、到頭壕の中までは突撃して来なかった。しかし敵弾は凄じく、壕の上面を掠りはぎ、文字通りの雨霰で、誰かが素早く銃を挙げて射とうとした瞬間に指を射抜かれたり、銃口に命中弾を受けたのを自分は目撃したが、横なぐりの弾幕その無益な物量に驚くぱかりである」(平本渥『陣中日誌・命脈』十月八日の項)
二十四歳の平本上等兵が歎いたのも当然であった。日本軍の砲兵は砲弾の供給が少なく、一日の使用量を○・二基数に押えられていた。近接戦に不可欠の手榴弾は軟弱地では発火せず、逆に投げ返される被害が続出した。

それでも何とか上海の堅陣を破れたのは、日本軍が戦車、飛行機、軍艦など中国軍に乏しい近代兵器をつぎこんで、地上火力の不足を補ったせいであった。この戦訓は十分に検討されることなく、ノモンハン、太平洋戦争で、日本軍はますます肉弾万能へ傾斜して行く。ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植えつけ、幹部をふくむ人員交代による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因にたったことは否定できない。
軍紀が守れずに非行や残虐行為を行なう軍隊には、ソンミ事件を起こしたベトナムの米軍など、近くはイラクのアブグレイブ刑務所で虐待を行なった例などがあるが、その共通項は何かというと、将兵の意識が敵にたいして「圧倒的優位」にありながら、現実の状況は「優位の意識」を裏切っていて、兵士に恐怖と緊張を強いているということ。・・・映画「プラトーン」の世界。

ソンミ事件
アブグレイブ イラク・アブ・グレイブ刑務所での虐待写真
プラトーン
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2008-11-07

[ラーベの日記][joke] 牛にきいてみる

中文によれば、「どしゃぶりで、完全に我々の望む天気」(=日本軍の空襲がない)。だから今日の日記は、Joke オンリー。

----ピジン言語とは、外部からきた貿易商人などと現地人との間で意思疎通のために作られた混成語。旧植民地の地域で現地に確立された言語がない場所に多く存在する。英語と現地の言語が融合した言語を「ピジン英語」といい、一般に英語の“business”が中国語的に発音されて“pidgin”の語源となったとされている。(wikipediaより)
十一月七日

このところ、思うようなものが食べられない。うちのボーイの張国珍が、三日間休暇を取ったからだ。ただ、張が代わりによこしたボーイは、古典的で純粋な上海ピジン英語で楽しませてはくれるが。今日、朝食をとっていると、こんな具合になった。

Master: Boy! Ham and Eggs taste all same like fish---how fashion can do?
Boy: Chicken no can help, Master Present time no got proper chow. Only got fish.
Master: But Butter taste all same. You thinkee cow all same chow fish?
Boy: My no savee, Master, My Wanshee ask him.

ドイツ語に訳すとこうなる。
私:おい!このハムエッグ、魚の味がするぞ。どうしてかね?
ボーイ:ニワトリのせいじゃありませんよ。今はまともなエサがないもんで、魚しか食ってないからですよ。
私:バターも同じ味がするなあ。それじゃ、牛も魚を食っているというのかい?
ボーイ:さあ、私もそこまでは知りません。牛に聞いてきますよ。

さて、牛はなんと答えるかな! たぶん、これはフライパンを洗えば取れるだろう。おそらく防空壕の連中がたったひとつのフライパンを便い回しているのだろう。ということはつまり、私のを、だ!

そのほか、目新しいことはなし。
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2008-11-08

[ラーベの日記][中文][戦況と民衆] 晴れたのに空襲がない

中文による11月8日の日記。
荒天一過の青空にもかかわらず、日本軍は別のことで忙しいのか空襲がない。ひねもす、桶と空き缶をつかって、地下壕にたまった雨水をかきだした、とのこと。

注目すべきは、昨日から上海への道路が途絶えたということ。その真っ先の表れとして、上海の英字新聞が届いていない、ということ。南京が陸の孤島になるのはじまり。
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2008-11-09

[事実誤認][租界] 「共同租界と英米租界」ぎょGyo!?X≠∽

前に触れた四行倉庫の死闘のことですが、
http://latemhk.tdiary.net/20061031.html#p01
http://latemhk.tdiary.net/20061102.html#p01
某「あやしい調査団」サイトに、一見もっともらしいが誤りを含んだ記載があるので、指摘しておきます。
(写真つき)▲四行倉庫の前は蘇州河。この河を境に右は共同租界、
左が英米租界。アジア人と白人の境界線だった。銃弾一発なりとも
英米租界に飛び込むことは国際法上許されなかった。 
(写真つき)▲英米租界から撮影された四行倉庫。欧米人たちは、
こちらの安全な場所からアジア人同士の戦争をまさにリングサイド
で見物していた。
  • "四行倉庫の前は蘇州河"・・・これは事実。
  • "この河を境に右は共同租界、左が英米租界"・・・これはヘン。
    上海には租界が2つあって、共同租界とフランス租界の2つがあったそうです。そうして、"共同租界"の共同とは、英米日の"共同"で、日本も参加した"共同"です。共同租界の政府にあたるのが「工部局」、蘇州河の両岸はともにその管理下にある"共同租界"でした。四行倉庫側が「日本軍による勝手に支配地区」で、対岸が「日本軍が進駐しないという了解地区」だったということだそうです。したがって、
  • "銃弾一発なりとも英米租界に飛び込むことは国際法上許されなかった。"・・・というのは、ヘンです。国際法上というよりも、租界に関する協定に対する違反、たぶん約束違反ということでしょう。
  • "アジア人同士の戦争をまさに"・・・まあ、租界を勝手に「英米地区」と「アジア地区」に分けたほうが、「調査団」のあやしい説明には都合がいいのでしょうが・・・。ぎょGyo!?X≠∽

[租界] 上海Shanghai「租界」

ANAのサイト:都市基本データShanghaiより
さて、上海の話をする時、必ず出てくるのが租界という言葉だ。
租界とは外国人が 行政権と警察権を持つエリアのこと。
上海では1845年にイギリス租界が置かれ、次いでフランス租界、
1846年にはアメリカ租界が置かれた。なお、1863年にイギリス
租界とアメリカ租界は合併し、共同租界となった。この租界を
拠点として、列強は経済進出を強力に推進。上海は中国随一の
商工業都市へと飛躍を遂げた。
1937年には盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発。その1カ月後、
第2次上海事変 が起こった。これに勝利した日本軍は共同租界と
フランス租界以外を占領下に置いた。この状態は1941年まで続く。
この後、太平洋戦争が勃発すると、日本軍は租界内へ進駐。
上海は中国の孤島となってしまった。

[租界] 「公部局」と、いわゆる「日本租界」

世界飛び地領土研究会> 租界の周りの怪しい一角>延長道路地区
う〜む、凄い知識!! そのごく一部を紹介しますと。
上海の共同租界やフランス租界では1925年以降、租界外での新たな
道路建設を断念したが、その時点ですでに広大な延長道路地区を擁して
いて、共同租界では租界西端から虹橋空港まで約10kmに及ぶ滬西や、
租界東北側にある閘北の北四川路一帯(隣接する租界内の虹口とともに
日本人街を形成し、日本人の間では勝手に「日本租界」と命名)を不法
占領し、実効支配していた。
う〜む、勝手に「日本租界」!! 
国際法とかの埒外法権!! とかや??

[脱亜と興亜] 埒外法権の依ってたつところのものは、福沢諭吉

写真図説「目本の侵略」大月書店
「日本の侵略の底流をなしたもの」〜明治以来のアジアに対する差別的民族観による破局〜高嶋伸欣
台湾を初めての植民地として領有することになるのに先がけて、
福沢諭吉は「脱亜論」(一八八五年)で、「其支那朝鮮に接する
の法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が
之に接するの風に従て処分す可きのみ」と論じていた。さらに、
日清戦争については、「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を
妨げんとするものとの戦にして、決して両国間の争に非ず」(一八
九四年『時事新報』)と主張した。日本は欧米流の文明を吸収して
いる文明国であり、善であり、正義であると位置づけ、清(中国)
や他のアジア諸国は野蛮であり、悪であるとする対比がそこには
示されている。

福沢はつづけて、中国侵略を正当化する意味で次のように中国人 蔑視を強調している。 「幾千の清兵は何れも無辜の人民にして 之をみなごろしにするは隣れむ可きが如くなれども、世界の文明 進歩の為めに其妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは 到底免れざるの数なれば、彼等も不幸にして清国の如き腐敗政府の 下に生れたる其運命の拙(つた)なきを自から諦むるの外なかる 可し」と。
う〜む、福沢諭吉がもし生きていたら、1945年の敗戦を、文明論的にどう総括しただろうか?
幾百万の日本兵、日本国民は何れも無辜の人民にして之をみなごろしにするは隣れむ可きが如くなれども、世界の文明進歩の為めに其妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、我等も不幸にして日本帝國の如き腐敗政府の下に生れたる其運命の拙(つた)なきを自から諦むるの外なかる可し
とかや。

脱亜論と高嶋訴訟
脱亜論(全文)

表向きは『興亜』を掲げ、内心は『脱亜』。それが侵略と戦争。
『興亜』の為の戦争を遂行するために、朝鮮でも台湾でもミクロネシアでも『皇民化』、蝦夷樺太でも沖縄でも『皇民化』。その極致は「方言を使うものはスパイとみなす」(沖縄第32軍)。興亜の中味は『脱亜』だったのです。
いまでも、それこそ『興亜観音』の御裾に隠れて『脱亜』を叫ぶやからがいるのですから、笑って済まされません。
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2008-11-10

[ラーベの日記][空襲][戦況と民衆] 空襲再開そして軍紀の乱れ

11月10日

爆撃機が九機ほど、上空を飛びかっている。中国側は猛烈に砲撃しているが、当たらない。

高射砲弾のかけらがすきまなく降ってくる。近所の屋根がガタガタ音をたて始めたので、リーべを除く全員を防空壕へ避難させた。リーべは校門のところで私のツァイス製の望遠鏡で上空を観察中。爆撃を無事にやりすごせると、いつもほっとする。うまい具合に避難させるのは難しくなるいっぼうだ。運良くいままで無事だったせいか、みな、気がゆるんでしまった。折に触れて雷を落とさないことには、危険を感じなくなっている。ところで、うちの防空壕は地下水ですっかりふやけてしまった。地下水をさえぎるのは大仕事だ。何時間も汲み出さなければならない。

上海から戻ってきたわが国の軍事顧問の話では、前線のうしろでは、軽症を負った中国人の兵士たちがうろついているという。もう統制がとれなくなっているのだろう。そのため、夜はもはやモーゼル拳銃なしには旅はできないそうだ。
最後の部分の英文は、
  German military advisors returning from the Shanghai front report that a number of lightly wounded (Chinese) soldiers are no longer under military discipline and are marauding behind the front lines; if you travel at night you need a Mauser pistol in your hand.

ということは、
「上海の前線から戻ったドイツ人軍事顧問が報告するには、多くの軽症中国軍負傷兵が軍紀を守らず、前線の後ろ側では略奪をしている。だから皆、夜間に移動する際にはモーゼル拳銃が手放せない、ということだ。」
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2008-11-11

[ラーベの日記][空襲] 高射砲弾がひとつ命中

抜粋される前の日記(中文)によれば、それは、この日訪れた9機の爆撃機のうちの1機だったそうだ。
十一月十一日

爆弾が雨あられのように降ってくる。だしぬけに、おもてで歓声があがった。高射砲弾がひとつ命中したのだ。あっというまに防空壕はもぬけのから。こんな見ものを逃す手はないというわけだ。まっぷたっになった爆撃機が、炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。五人から七人乗っているはずだが。なかから二人、炎と煙のなかを飛び降りた。パラシュートもつけずに。二十秒後には、堂々たる機体は残骸と死体だけになっていた。

写真は、九六式陸上攻撃機
九六式陸上攻撃機(Wikipedia)より
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2008-11-12

[ラーベの日記][空襲][joke] 雨のため報復空襲は来ず

日本の爆撃機の代りにきたものは?
11月12日
見ず知らずのドイツ人の婦人から、ついさっき電話があった。
  • 「もしもし、いますぐおたくの技師さんをよこしてちょうだい。うちのミシン、壊れちゃったのよ!」
  • 「奥様、こちらはジーメンス電機です。シンガーミシンではありません」
  • 「ええ、わかってます。シンガーなら、もう行ってみました。あの会社ったら、ほんとにいまいましいったらありゃしない。だからおたくに電話したんですよ。だってうちのは電気ミシンなんですもの」
はあ、どうしたものだろう? ま、明日、うちの電話技師の宋さんでもやることにしよう。やあ、どうやらまた商売が繁盛してきそうだぞ!

ミシンの婦人からまた電話あり。お宅の技師さん、なるべく午後にお願いしますね、だと。
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2008-11-13

[ラーベの日記][中文][空襲] 空襲は無い、でもjokeはいえない

今日は、日本語版では省略されている日。
中文からの意訳です。
11月13日
私達はまた一回、日本人に対する見積り上、誤りをおかしてしまった。
今日はとてもよい航空日和だが、予想された(昨日は雨天でなかった)
報復空爆はまだ発生していない。もちろんだからといって、私達の敵を
褒めはしない。

特記しよう。上海運送会社の当地の駐在代表が先ほど伝えたニュースに よれば、リーベさんの皮ケースと1個の木箱が完全に爆破されたそうだ。 皮ケースの中には彼と彼の同僚のエジプト人の冬季用品が詰めてあり、 木箱の中には、タービン(修理)の専用ツールが梱包されていた。 これらの箱は1台のトラックに載せて11月3日に上海を離れた。箱は 上海からここに着く途中、松江での停車中に爆撃に遭った。私の1箱の 食品もおそらくその時に爆破された、とのこと。ここから応援として 派遣した貨物乗用車も、空車のまま戻ってきたそうだ。全部の品物が 完全に失われたのだ。
発電所の維持は、おっちゃんラーベの本来の責任ある仕事だ。どんなに口惜しかったことだろう!
だが、・・・
中国の郵便局は少しも屈服していない! 11月5日の郵便物と 
1月6日〜8日の新聞が今上海から届いた。普段通り。

新聞一面ではソビエトロシアとの友情のニュースを宣伝している。 ソヴィエト社会主義共和国連邦の創立20周年、11月7日の《大陸報》 (南京版)は特別号を出して、 たくさんの特別写真と文章を満載して いる。自然にかつ強力にソビエトを称揚したのだ。(これを読んで) 人々はソ連は世の中の天国でスターリンは平和な天使だ、と思うかも しれない。
可哀相な中国、だまされているのだ!
そう、おっちゃんラーベは、大の共産党嫌いなのだ。
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2008-11-14

[ラーベの日記][空襲][joke][中文] 爆撃なし、joke連発か?

  十一月十四日

すばらしく晴れた日曜日。爆撃もなし! 韓にいわせると、日本人は日曜には来たがらないそうだ。
「どうしてだか、私にもわかりません。たぶん敵も骨休めしたいんでしょう」

それを聞いて、以前天津にいた楊を思い出した。楊はひどくなまけものだったので、毎日、どこへ行き、どんな取引をしたか、日誌につけさせなければならなかった。日曜日の文句はきまっていた。「今日は、神聖な日曜日。だから仕事をするわけにはいかない!」

リーべは今朝早くに漢口まで行くつもりだったが、見合わせた。ジャーディン海運社の蒸気船でいくのだが、最下等客室しかあいていなかったのだ。私だったら乗ったがね。そして船長か一等航海士にうやうやしく下につれて行かれるまで、一等客用のサロンでねばっただろう。イギリス人は、ヨーロッパ人にはていねいだから。

最下等客室=三等=steerage=“甲板間”

爆撃がないからご機嫌でjokeを飛ばしているのかと思ったが、中文には、上海ラジオ局のニュースが書かれていた。

日本軍艦が揚子江を溯らないように設置された水柵が破壊された。残る水柵も時間の問題で、やがて南京の下関埠頭にも日本軍艦がやってきて、ゴッツイ艦砲をこちら南京城内に向けるだろう、という深刻な内容だ。
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2008-11-15

[ラーベの日記][空襲][戦況と民衆] 政府が撤退する?

この日は天気が良く、日曜日でもなかったので(?)空襲があった。11日のようには高射砲はあたらなかった。
下の翻訳文中の『交通部(運輸省)』は英訳文では『Communication Ministry』、中文では『交通部』、肝心かなめの独原書ではどうなのだろうか?
十一月十五日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。それから鉄道部へ行った。そこのボーイからこっそり聞き出したのだが、ここも明日荷造りするらしい。

ドイツ大使夫妻のところにお茶によばれ、シュペーマン将軍を紹介される。太原府から来たそうだ。クトゥー号は、まず女性と貴重品を漢口に運んでから、大使館の人間と残りのドイツ人を運ぶ予定になっているという。国民政府が逃げ出したら、大便館もぐずぐずしてはいられない。さもないと、敵対的な地域に残ってしまうことになる、というのがおおかたの意見だ。
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2008-11-16

[ラーベの日記][戦況と民衆] さあ、逃げ出すべきかとどまるべきか

中文によれば、空襲は無かったが気分がめいる日。
  十一月十六日
ここでがんばりぬこう。一日じゅう自分にそういいきかせていた。いま耳にしたのだが、蘇州では、まいもどってきた中国の敗残軍によって、ひどい略奪が行われたという。まったく、ため息が出る。それなのに中国人は、たとえ揚子江から砲撃されても、この町を守れると信じているのだ。

それはそれとして、私にすがりついている中国人たちはいったいどうなるのだろう。韓がまた前借りを頼みにきた。青島に友人がいるので、済南経由で家族を避難させるつもりだったのだが、いま、むりだということがわかった。日本人の侵攻を防ぐため、済南の手前にある鉄道橋が中国人の手によって爆破されたのだ。ということは、日本軍はすでに黄河の手前か、そのほとりにいることになる。こうなったら韓も家族を漢口にやるしかないだろう。彼はただ、いっしよに行ってくれる知り合いの家族を待っている。まにあうといいのだが。(※1)

いまさら商売に精を出したところではじまらない。商談の相手もいない。世間では荷造りの真っ最中だ。かくいう私も! 日記はもうかばんにつめた。(中略)現金を持っているほうがいいといわれたので、金をおろしてこよう。どっちみち銀行も閉めたがっている。
(※1)中文はこの4倍ぐらいあり、漢口航路が封じられるおそれが前半部で語られている。
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2008-11-17

[ラーベの日記][戦況と民衆] 首都移転

「雨がまだ降っていてよかった。空襲は来て欲しくなかった。みんな同じ気持ちだった。」(中文)に続いて・・・
  十一月十七日
メインストリートは一晩中騒々しかった。乗用車、トラツク、なんと戦車まで。どれもがのろのろ通っていった。政府の大がかりな移転が始まったのだ。国民政府主席の林森氏はすでに発ったという話だ。韓の家族のことが心配だ。早くしなくては・・・・・。

荷物をうずたかく積んだ力車が何百となく、下関へ向かっている。まだいくつか運行されている汽船に乗るつもりなのだ。それにしても新たに徴集された新兵、かれらはなんというひどい格好をしているのだろう。程度の差こそあれ、みな、ぼろの平伏をまとって、荷物を背負い、さびついた猟銃をかついでいる。

今聞いたのだが、蘇州付近で張学良の指揮下のおよそ五千人の兵士たちが蒋介石に対する服従を拒んだのだそうだ。それでようやく、なぜ日本軍があんなにやすやすと侵攻できたのかわかった、なんでも、蒋介石委員長がみずから蘇州に赴き、精鋭部隊に命じて反抗的な一団から武器を取り上げさせたという。委員長も楽ではない。その精力に脱帽!

その結果、蘇州の前線部隊は再び踏みとどまったとの話だ。とはいっても、「ヒンデンブルク・ライン」は、日本軍が迂回してしまったために失われてしまったが。そして、おそらく、それとともにファルケンハウゼン将軍が練りあげたみごとな防衛計画も。
日本軍の増援部隊第10軍が杭州湾に上陸(11月5日)したことを、南京に住むラーベたちはいつ知っただろうか? また白茆口(はくぼうこう)〔白茆江とも書かれる〕に第16師団が上陸(11月13日)したことは?

上海・南京間作戦要図(16師歩33連隊史)
上海・南京間作戦要図

第10軍の編成は、第6師団(熊本)、第18師団(久留米)、第114師団(宇都宮)および国崎支隊(福山市)。第4艦隊(司令長官豊田副武中将)護衛のもとに約100隻からなる大船団に分乗して、長崎県五島列島沖を出発し、11月5日杭州湾に上陸。 翌6日「日軍百万杭州湾上陸」のアドバルーンが上海の空にあがったそうだ。

第16師団は10月末石家荘から列車にて天津に終結、奉天を経て大連着、昭和12(1937)年11月10日大連発、11月13日、14日、白茆口の北除六経口および許浦鎮に上陸。ただちに常熟、無錫を占領した(11月29日)とのこと。
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/2_06.html のキャッシュより
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2008-11-18

[ラーベの日記][戦況と民衆] 荷物の疎開

十一月十八日
今日は、『中華新聞』の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラツクが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士は、ぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。

ついこの間ド―ラは、北京で娘のグレーテルとヴィリ夫婦の荷物をまとめた。きのう、そのときのドーラの気持ちがよくわかった。クトゥー号に積むものを選びだすため、部屋から部屋へと歩きまわって、自分がどんなにこれらの品に愛着を抱いているかということに、はじめて気がついたのだ。
日記(日本語訳)ではこのあと、下関埠頭での積み込み、混乱の様子が描かれている。
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2008-11-19

[ラーベの日記][戦況と民衆][国際委員会] 決断!

ラーベはついに南京残留を決断した。
十一月十九日
雨は降り続き、荷造りも続く。帳簿をしめようと思うのだが、こう用事が多くてはとてもそこまで手が回らない。韓はかなりの金額を集金してきた。私は社の金をほとんど全額、それから自分の金も二千ドル漢口へ振り込んだ。従業員には十一月分の給料を払った。これで、店がまだ開いているうちに食料品が買えるだろう。あと石炭一トンに石油を四缶貯蔵できる。いまのところそれで精いっぱいだ。使用人たちは、おびえきった目をしておろおろいている。ついに私もクトゥー号で逃げ出すと思っているのだ。どんなことがあってもここを動かないから、と言い聞かせると、ようやくみなほっとした顔をした。
安全区国際委員会がつくられた。
国際委員会が発足した。主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、それから金陵大学の教授たち。全員宣教師だ。難民区を作ろうというのがその目的だ。つまり、城壁のなか、あるいは外に中立地域をつくり、万が一砲撃されたとき、非戦闘員の避難所にしようというのである。いっしょにやらないかといわれた。私がここに残るというのはすでに噂になっていたのだ。私は承諾し、スマイス教授の家で開かれた夕食会で、アメリカ人の参加者全員に紹介された。いまのところ、ドイツ大使館員はまだ三人残っている。ヒュルター、ローゼン、シャルフェンベルグのメンバーだ。なぜローゼンが残されたのだろう。あの人が自分から希望するはずがない。ちょうど大使が留守だったので、この命令を取り消すようとりはからってもらえないかと、夫人に頼んだところ、できる限り努力するとの返事だった。

ローゼンは、心ならずも残されたのだ。そういう人が相手ではどうしようもない。ローゼンは私が委員会に参加することを知らないし、また知る必要もない。カルヴィッツ社のメルヒオールが、やはりいっしょに避難したらどうかといってきた。せっかくだが、断るしかない。

なにも私はわけもわからず飛びこもうというのではない。覚悟のうえだ。どうか許してくれ、ドーラ。こうするほかないんだ!医者のヒルシュベルグ先生一家とシュックマンさんの奥さんもまだいる。テキサス石油のハンソンさんも。何も私だけが危険に身をさらそうとしているわけではないのだ。うちの韓は私と運命を共にするといった。ぜったいそういうだろうと思っていた。けなげなやつだ!
ラーベとローゼンの関係が気にかかる。
日本語翻訳版では、十月九日、十日が既出である。
十月九日、十日
雨天。だからみな、機嫌がいい。日曜の午後、気分転換にまたクトゥー号にコーヒーを飲みに行った。すいていた。大使館のローゼンさんは近頃しょっちゅう来ている。ローゼンさんには感心した。爆撃がこわいから身の振り方を考えているといったのだ。人間、なかなかこんなに率直になれるものではない。私だって爆撃はまっぴらだ。だが、いまとなってはもう逃げ出すわけにはいかない。

※appemanさんの突っ込み、私のタイプミスです。修正しておきました。

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2008-11-20

[リンク] 南京事件FAQ

南京事件FAQ 」を左欄リンクします。項目は現時点で80強、プリントアウトしたらA4で100頁を超します。 http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/FrontPage

[ラーベの日記][戦況と民衆] 重慶へ首都移転声明

十一月二十日
十八時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。
中文の日記はもっと長い。
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2008-11-21

[ラーベの日記][誤訳] ラーベとローゼンの仲

私はこのシリーズの冒頭の町内会役員についついなってしまいがちな人情オヤジというエントリーの中で次のように書きました。
ラーベのような人物は日本にもいます。 下町的人情と仕事へのこだわり、人に頼まれるといやとは言えず、町内会の役員でもなんでも引き受けてしまう。そんなオヤジさんの一人です。30年間中国にくらし、中国人からの信頼に応えるために、ラーベは空爆下の南京に留まったのでした。
講談社本平野卿子氏訳による一種べらんめい調、頑固親父ラーベおやっさんは、私には好いた人柄でした。しかし、そこから妙な誤解をしてきたことを読者の皆さんにお詫びします。 

ラーベおやっさんは、人情おやじだからといって非理知的(アバウト)ではないのです。理知的な人情オヤジなのです。にもかかわらず、日記の中に「非理知的(アバウト)」な部分があっても変に納得して読みすごしてしまうワタクシに気づきました。

もしかしてそれは、講談社本平野卿子氏訳におけるアバウトさに誘導されてそうなったのかもしれません。

11月19日の日記から問題の部分、アバウトな訳を再掲します。
いまのところ、ドイツ大使館員はまだ三人残っている。ヒュルター、ローゼン、シャルフェンベルグのメンバーだ。なぜローゼンが残されたのだろう。あの人が自分から希望するはずがない。ちょうど大使が留守だったので、この命令を取り消すようとりはからってもらえないかと、夫人に頼んだところ、できる限り努力するとの返事だった。

ローゼンは、心ならずも残されたのだ。そういう人が相手ではどうしようもない。ローゼンは私が委員会に参加することを知らないし、また知る必要もない。カルヴィッツ社のメルヒオールが、やはりいっしょに避難したらどうかといってきた。せっかくだが、断るしかない。
同じドイツ語底本からの英訳文を取寄せました。その部分は、
  Three people from the German embassy are remaining behind for now: Hürter, Dr. Rosen, and Scharffenberg. It's unclear to me why they're keeping Dr. Rosen here. When I learn that he did not volunteer, I ask Frau Trautmann to intercede with the ambassador, who is still here for the moment, to get the order reversed. Frau Trautmann will do what she can. What good to us is someone whose heart is not in this? Dr. Rosen knows nothing about my intervention yet and he never needs to learn. Melchior of Carlowitz & Co. tried to talk me out of my decision to stay. I thanked him, but declined.

これを、英語が万年3だった私が無謀にも訳してみます。あとで必ずお叱りを下さい!
  ドイツ大使館からは次の3人が残留することになった。ヒュルター、ローゼン博士、シャルフェンベルグ。ローゼンを残留させたのはなぜか? 私には不可解だ。ローゼンは志願してないと知って、私はトラウトマン夫人に大使への取り成しをお願いした。大使が目下のところ南京にいるうちに決定を差し戻してもらえないかと。夫人は最善をつくすといってくれた。こころからこの件にかかわらない人が一緒でよいのだろうか。ローゼンはまだ私がこのように仲介したことを知らない。知る必要も無い。
  カルロヴィッツ社のメルヒオールが私の残留決定を覆そうと説得してくれた。私は感謝を表した上お断りした。

19 November の全文


the ambassador, who is still here for the moment
11月22日の日記に、船に乗る前の大使にスマイス教授を紹介した、という記述がありますので、この日は「ちょうど大使が留守だったので」ということはなかったと思います。

What good to us is someone whose heart is not in this?
う〜む、ムズです。
「Was sollen wir mit einem Mann hier, der nicht mit vollem Herzen bei der Sache ist. 」
Apemanさんがドイツ語ではこうなっていると教えてくれました。
(独→英)
「What good to us is someone whose heart is not in this?  」
対応する日本語訳の部分は
(独→日)
「ローゼンは、心ならずも残されたのだ。そういう人が相手ではどうしようもない。」
そういう人って一体誰を指すのか? この日本語は、『誰』に関して表記されない源氏物語よりもむずかしい!!

ローゼンは私が委員会に参加することを知らないし」とは?
英文だと、"intervention"となっていて、"介入、干渉、内政干渉、仲裁、調停、売惜しみ" なのだが。"私が委員会に参加すること" となったのはいったいなぜだろうか?

いずれにしても、英文を読むと、ラーベおやっさんは筋が通っているんです!! (独文が読めればもっとイイ!!)
それと、ラーベはローゼンに対しては妙な確執などなかったようです。

※なおこの件では、試行錯誤掲示板で渡辺さんの教示を頂きました。

[ラーベの日記][戦況と民衆] まるで映画の導入部

もしラーベの視点からの映画をつくるなら、この日の情景を導入部にするのではないかとワタシは思います。日記に書かれた下関埠頭の情景は、南京が『陸の孤島』になることを象徴しており、写された人々の表情は、悲劇の都市に残るか去るか違いが浮き彫りにされています。大クレーンを使った、1カット1シーンです。
十一月二十一日
防空壕は心配の種だ。水位があがる一方だからだ。使えなくなったらどうしよう。水を汲み出そうにもひまがない。どこかにもっとちゃんとした防空壕はないだろうか。安全な防空壕がいくつか作られたという話だ。我々が使えるところがあるといいのだが!

発電所の管理人白(パイ)さんがここに泊めてもらえないだろうかといってきた。もちろん承諾した。主任技術者の陸法曾さんも、奥さんと使用人をつれて来たいという。トランスオーシャン通信社の人たちがクトゥー号で避難するので、校舎があく。そこを使ってもらうことにしよう。

十三時半に私は中山埠頭へいった。十四時のランチでクトゥー号へいって、自分の荷物をたしかめるためだ。十六時になってようやくランチがすがたをみせた。クトゥー号で荷物をたしかめる時間はたった十分しかなかった。今朝最後に送り出した荷物もちゃんとあったので安心した。のんびりとカードを楽しんだり、ビールジョッキをかたむけている乗客たちとあわただしく別れの挨拶をかわしたあと、はやくしろとしきりに汽笛を鳴らしているランチで下関へ戻った。これを最後に橋が取り壊され、橋はひとつもなくなった。
『橋』とは、常識的に考えて『桟橋』。桟橋が全て壊されてしまった、ということ。荷物の積み下ろしはもうできない。
ラメザン男爵の後任で、警察の顧問をしているべーレンシュプルング氏を訪ねる。通行証をもらいたいのだ。そうすれば、警報が解除された直後や、夜十時をすぎても自由に外出できる。ところが、ちょうど蒋介石から漢口に行くよう指令があったばかりだそうで、明日発つという。通行証のことをいうと名刺をくれて、明日首都警察庁長の王固盤を訪ねるようにといった。まだいたら、の話だが。
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2008-11-22

[ラーベの日記][戦況と民衆][空襲] まるで寺内貫太郎

ラーベが瞬間湯沸器あることは確かなようですが、水に流すのも早い!
十一月二十二日
靴屋め。くたばっちまえ ! 空襲警報が鳴ると、そらきた、とばかり、かみさんや子ども、じいさん、ばあさん、それから何だかしらないが一族郎党ひきつれて逃げこんでくるくせに、防空壕が八十センチ近くも水に浸ったとなると、水汲みだといっても知らん顔。顔も出しやしない。いまに見てろ!

ローゼンから電話。空き家になった大使館で十時にここに残っているドイツ人たちで、今後の身の振り方を話し合いたい由。その前にと、うちのメンバーをかき集めた。防空壕の水を汲み出さなければ。さっきあんなふうに書いたが、靴屋のことは水に流そう。かみさんと三人の子ども、それから六、七人の親戚がかけつけてせっせと水を汲み出しはじめたのだ。とうとう水はなくなった。ところが、なんと西側の壁が崩れているではないか。がっくりした。
19日にトラウトマン大使への取り成しを夫人に依頼したが・・・
  空襲の間にドイツ大使館でローゼンと話す。それはそうと、ローゼンはあいかわらずここにいる。私の取りなしは効果がなかったのだ。(つづく)
寺内貫太郎一家

[ラーベの日記][国際委員会] ラーベ、委員長に!

この日は69年まえ、いちドイツ人ビジネスマンが、中国の首都南京の難民区の、そして軍事占領下南京の"護民Mayor"になった日でもある。あしたが55歳の誕生日。「ラーべの日記とその時代」エルヴィン・ヴィッケルト
(十一月二十二日つづき)
十七時に、国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立区域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事つとまるように。責任重大だ。
委員長になってしまった、おやっさん。だが、気負いは無い。
ドイツ大使が船で帰る直前、委員会の事務局長のスマイス教授を紹介することができた。
多分、『船で帰る』ではなく『船に乗り込む』直前が正しいと思われます。そして多分、ドイツ大使館「本館」はこの瞬間、南京から漢口へと移転したのでしょう。ローゼンたちが残ったのはドイツ大使館「南京分館」となりました。

[ラーベの日記][国際委員会] 難民区(安全区)承認を日本側に求める

(十一月二十二日つづき)
大使は委員会から日本大使にあてた電報を読んで同意してくれた。これはアメリカ大使館の無線を通じて、上海のアメリカ総領事館から発信される。イギリスとアメリカの大使にはすでに承認してもらった。話し合った結果、上海の日本大使館に届くまで、電報の内容は公開しないことになった。これが無駄にならないよう、祈るばかりだ。フランスの委員はいない。それはここにフランス人がいないからで、イタリア人も同じだ。
難民区の雛型は実は上海に有った。それは、フランス人ジャキノ神父が興した南市安全区で、のちに"戦争とはなにか"を編集し南京の殺戮を報じた英ガーディアン紙記者ティンパリーも関わっていた。上海の安全区は日本軍も公認し、神父から感謝状を貰う司令官の写真報道で、「人道主義の軍隊」を示す宣伝としていた。
英語の電報の内容は要約すると次のようになる。
デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、難民のために安全区の設置を提案する。

国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立ち入りは禁止される。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。

国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。国民政府との交渉をできるだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、日本当局のすみやかな回答を切望する。
この日から日本軍の侵入までの20日間ラーベたち国際委員会のメンバーは、安全区を非武装地帯とするための中国軍守備隊側とのやり取りに、精力を費やされるのである。

[ラーベの日記][戦況と民衆] ボーイの張の妻

(十一月二十二日つづき)
会議から帰ると、ボーイの張が待っていて、医者を呼んでほしいという。かみさんの具合が悪いらしい。ヒルシュベルク先生の診察の結果、数日前流産したことがわかった。すぐに鼓楼病院につれて行かなければ。
おやっさんラーベの行動原理は、隣人愛!
樊遅問仁。子日、愛人。
ラーベは、ナチス党とヒトラー総統すら、隣人愛の頭領だと思っているのだから。

[warなひと人][戦況と民衆] 11月後半から12月はじめのニュース

11月
15日 第10軍幕僚会議、独断で追撃戦を行なうことを決定。
16日 国民政府、重慶遷都を宣言。
   リオン・フォイヒトワンガー「モスクワ1937」ソ連賛美で発禁。
18日 戦時大本営条例廃止され、大本営令公布。皇居内に大本営が置かれる。
20日 第10軍から「集団は全力を持って南京に向かって追撃を命令」の報告。
21日 国民政府のうち5院が重慶へ移る。
22日 蒙古連盟、察南、晋北自治政府が連合し、蒙疆連合委員会成立。
   委員長は徳王。
23日 駐華ジョンソン米国大使、漢口へ拠点を移す。
   島影盟「戦争と貞操」、自由主義であるとして発禁。
23日 蒙疆連合委員会、察南銀行を蒙疆銀行に改組することを決定。
   資本金1200万圓。
24日 中支那方面軍から「南京攻略を要す」の意見書。大本営第1回午前会議。
29日 要塞司令部令公布。イタリア、満洲帝国承認。
   政府、スペイン・フランコ政権承認。
11月     唯物論研究会京都グループ検挙される。
       企画院、物資動員計画立案を開始。
       日本産業本社、満洲に移転し満洲重工業となる。  
12月
1日 東京帝国大学教授矢内原忠雄辞職。同日、大本営は南京攻略を命令。
   日本化学を改称して日産化学設立。
    満洲帝国領事裁判権撤廃。外務省警察官1300人は満洲に移籍する。
   矢内原忠雄「民族と平和」、秩序を乱すとして発禁。
4日 政池仁「基督教平和論」、戦争否認、軍備反対で発禁。
5日 春日庄次郎ら、共産党復活を画策して、日本共産主義者団を結成。
8日 日本・シャム通商航海条約調印。

[戦況と民衆] 永井荷風の日記

昭和12年11月の『断腸亭日乗』から
  十一月十七日。天気牢晴。昨夜より向一週間禁燈の令あり。幸にして今宵も月明なれば道暗からず。晩食すまして後例の如く浅草に往き万歳小屋に入る。竹本駒若といふ娘義太夫語折から阿波の鳴門をかたりゐたり。案外上手なり。広小路にて佃煮其他食料品をあがなひて帰る。
南京を空爆して優位にあるはずのわが国でも、防空演習が国民精神動員の一大行事となっていた。防空演習
  十一月十九日。快晴。堀口君その訳著オオドゥウの小説マリイを郵寄せらる。空午後にくもる。晡下浅草に行きオペラ館の新曲を聴く。この一座の演ずる一幕物社会劇は何人の作れるにや、簡明にして人を飽かしめず、往々人情の機微を穿つ。侮りがたき手腕あり。木戸口を出づるに今宵は曇りて月なければあたりは暗し。広小路松喜に〓(食へんに卞=べん)し玉の井を歩む。ここも公園と同じく案外賑なり。帰途銀座不二地下室に入らむとするに、夜はまだ十時を打ちたるのみなるに、既に戸をとざしたり。枕上むく鳥通信をよみて眠る。
今秋より冬に至る女の風俗を見るに、髪はちぢらしたる断髪にリボンを結び、額際には少しく髪を下げたるもの多し。衣服は千代紙の模様をそのまま染めたるもの流行す。大形のものは染色けばけばしく着物ばかりが歩いてゐるやうに見ゆるなり。売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見るに新調の衣服(和洋とも)を身につくるもの多し。東京の生活はいまだ甚しく窮迫するに至らざるものと思はるるなり。戦争もお祭さわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものの如し。
戦前の人々 ファッション
荷風さんは戦争という胡散臭いものが嫌いです。
十一月廿一日(日曜日)くもりて風甚寒し。執筆の興至らず快々として徒に時間を空費するのみ。忽にして窓暗く街上防火団の警笛をきく。燈火を点ずること能はざれば今宵も浅草公園に往き国際劇場に入り時間を空費す。安藤君所作の日高川其他のルヴユーを看る。品好くつくりたるものなれば興味少し。オペラ館の通俗卑俚却てよろこぶ可し。九時過芝口佃茂に夕飯を喫し料理番と雑談してかへる。深更雨ふる。 〔欄外朱書〕裏鄰の魚類燻製所近鄰ノ苦情甚シキ為昨日深川辺へ転居せり

[リンク] 日中戦争スタディーズ

http://blog.goo.ne.jp/1937-2007 政治史、軍事史的な充実を目指すサイトか。 【tb-ping】 http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/32e55a10395e4b14ae18c013508b2b17/fd
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2008-11-23

[ラーベの日記][戦況と民衆][国際委員会] 三題噺

誕生日、おくりもの、パーティーとかけて、落城寸前の首都と解く。
その理由(こころ)は?
十一月二十三日
五十五歳の誕生日だ。誕生日おめでとう! 最初のプレゼントはこの曇り空だ。ありがたい! ドーラからは祝電としゃれたマフラー。ほんとうにありがとう! といってもマフラーは届かなかった。大使夫人に預けたということだが、夫人の説明はどうも賄に落ちない。たぶん小包は郵便で送られ、そのまま郵便が止まってしまったのだろう。しかたがない!
このあとに、日本語版には無くて英語版にはある一節がある。
  Around 5 a.m. I was roused from bed by a phone call from Cavalry Captain Lorenz. He is just returning from the front and wants to board the Kutwo; but it steamed away yesterday evening. At 7 o'clock Herr Huldermann, editor of the Ostasiatischcr Lloyd, and Wolf Schenke were at the door. Both have made their way here from Shanghai and want to speak to the ambassador. They take Hürter's car to drive to Wuhu, where they hope to catch up with the Kutwo. At 8 o'clock I take Chang's wife to Kulou Hospital. The poor woman is in terrible pain.
【拙訳】
午前5時頃に、私はローレンツ騎兵大佐からの電話でベッドから起こされた。 彼は前線から戻ったばかりでKutwo号に乗船したがっている。しかしKutwo号は昨夕出船してしまった。7時には、Ostasiatischcr Lloyd紙編集長のHuldermannと、ヴォルフ・シェンケが来訪した。二人は別々に上海からやってきたのだが、二人とも大使に会いたがっていた。結局二人はヒュルターの車でWuhu(ウーフー:蕪湖 ぶこ)に向かった。そこで、Kutwo号をつかまえようというのだ。8時には、張の妻を鼓楼病院に連れて行く。 貧しい女性がひどい痛みを負っている。
弱きをたすける隣人愛!張の妻
やはり、クトゥー号という糸が切れたのは、昨夜(11月22日)だったのだ。
(日本語版つづき)
下関駅にはひっきりなしに負傷兵が到着する。スマイス教授はボランティアの学生を駅にやって病人の面倒を見させている。私の車を出そう。

韓が耳寄りな話を持ってきてくれた。友人の中国人が、なんと、トラックニ台、ガソリン百缶、小麦粉二百袋を私に贈ってくれるというのだ。ありがたい! 誕生日プレゼントだと思って、好意を受けることにした。大いに役に立つ。食糧と車はぜひとも必要だから本当に助かる。ぬか喜びでないといいが!

十七時。前の外交部長(外務大臣)で、現在、国民党中央政治委員会秘書長の張群氏邸でティーパーティー。約五十人のアメリカ人やヨーロッパ人のほかに出席していたのは次の各氏だ。防衛軍司令長官唐生智、警察庁長王固盤、南京市長馬超俊。「いい考え」があるということだった。なんでも、我々後に残ったヨーロツパ人やアメリカ人が、毎晩八時から九時に国際クラブでおち合い、そこで中国人指導者もしくはその代理人と接触できるというのである。まさしくいい考えだ。こういう「円卓会議」みたいなものを、この間の大戦中にも北京で持ったことがあった。

私のすばらしい誕生日プレゼント、つまり運転手、ガソリン、小麦粉つきのトラックニ台は、結局、運転手もなにもついてない、からっぼのトラック一台に化けた。

残りは和平門のむこう側にあるらしいが、もう閉鎖されてしまった。

[ラーベの日記] ヴォルフ・シェンケの手記

英文ラーベの日記には、Wolf Schenke の手記が添付されています。p29
Wolf Schenke: Nanking's Final Days

  On my return I found remaining behind: three members of the embassy staff who had been assigned to stay at their posts and Herr John H. D. Rabe, in whose house I had always been a welcome guest on earlier visits to Nanking. Herr Kröger from Carlowitz & Co. and Herr Sperling had likewise remained behind, though I did not have occasion to meet them. Each painted the most dreadful picture of the imminent capture of the city. Each was aware that his remaining behind might well prove to be a matter of life and death. It was less that they feared the shelling of the city by Japanese artillery and airplanes. That danger was really nothing compared to what was to be expected from the flood of retreating Chinese troops. They considered all eventualities, but the results of their deliberations were anything but hopeful. Had not the troops of the Kuomintang under Chiang Kai-shek murdered foreigners and raped foreign women upon their arrival in Nanking in 1927?

  They had seen the Szechuan soldiers march to the front, looking like the semibandits they were. In previous wars it had been standard practice for Chinese soldiers, especially those of defeated and retreating armies, to burn, sack, and pillage the local population. They pictured the retreating army defeated and demoralized by the Japanese, flooding through Nanking. Would not their rage and hate be directed against the whites? The old xenophobia would surely break out anew.

  They recalled events that had occurred in Canton a decade before. These included scenes of bestial cruelty beyond the imaginings of a European brain. It is not easy to brazen out that sort of future. But that is what those who remained behind in Nanking did.

  Unless I obtained a press card from the Chinese foreign ministry it would be impossible for me to send press telegrams home. After a long conversation with the remaining staff at the embassy it was agreed that I should continue on to Hankow.

  Herr Scharfenberg quickly scanned the mail I had brought with me (from Shanghai), culled out what was secondary and put the important items in a new envelope. We wanted to take them on with us to Wuhu, where the German ambassador Dr. Trautmann was on board the Kutwo.

  Despite our haste, I wanted to say goodbye to Herr Rabe. Hürter turned off the main road toward "Siemens City," as the Germans in Nanking called the grounds of Siemens China Co., where there was a little German school, which owed its foundation primanly to Herr Rabe. Johny Rabe was sitting at his typewriter in his office, writing his diary. Rabe had not remained in Nanking for business reasons, but in order to erect a zone of refuge for the 200,000 noncombatants of Nanking, similar to that created by Pater Jacquinot in Shanghai.

  I was personally very skeptical of the plan, since the committee lacked the authority to maintain law and order and prevent either Chinese or, later on, Japanese soldiers from entering the zone. Rabe said: "Well, after working here for 30 years and spending most of your life here, it's worth taking the risk."

  In our brief conversation he still kept his old good humor, but it seemed to me to be more of a gallows humor now. Although I had every good reason to leave Nanking, somehow in the presence of Rabe and Hürter I felt like someone who is saving his own neck while others march toward an almost certain death.


Taken from Wolf Schenke, Reise an der Gelben Front: Beobachtungen eines deutschen Kriegsbereichterstatters [Journey to the Yellow Front: Observations of a German War Reporter] (Oldenburg and Berlin, 1943), pp. 60 ff. (excerpt).
撤退する国民党軍が第1次南京事件のときのような蛮行をするのではないかと、Wolf Schenke はとても心配したのだが・・・・いずれにしても、ラーベ達の静かな勇気を称えています。
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2008-11-24

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 国際委員会の計画が報道された

十一月二十四日
ロイター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。すでにきのうの昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。
  当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人・デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。

私の手元にはザッツブーフ(※)しかありません。よってこれを東京に転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。    ローゼン

(※)外務関係で用いられた暗号対照コード表で、ドイツ語の単語がすべて五ケタの数字で表記される。機密が保護されないため、極秘電報には用いられない。
中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」医師たちも二人ともいなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、この大ぜいの負傷者はどうなってしまったかわからない。先日、贈られたトラツクを一台動員した。車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。中国兵はトラツクとみれば残らずとり上げてしまう。カルロヴィツツ社のクリスティアン・クレーガーの話では「命令(ミンリン)」が出たという。つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。
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2008-11-25

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 超多忙

十一月二十五日

医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの国の大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るよう勧めているからだ。

もう一度、昔の故宮宝物を救い出す手伝いをするはめになろうとは。夢にも思わなかった。だが、そういうことになってしまったのだ。(これらの中国の芸術作品は百年ほど前から評価され、集められるようになった。ラーべもすこしコレクションをもっていた)

私のトラックは恰和通レンガエ場からの誕生祝いだ。しばらくの間学生が負傷者の世話をするために使っていたが、こんど杭立武さんに提供した。なんと一万五千箱もの故宮宝物を港へ運ぶことになったのだ。そのため、杭立武さんはありったけの車を集めた。政府はこれを漢口へ運ぶつもりなのだ,もしこれが日本人の手に落ちるようなことになれぱ、北京へ持ち去られるだろうといってみな心配している。とはいっても、もともとこれは北京にあったのだが!

昨日ラジオで聞いた上海からのニュースによると、日本軍司令部が、南京に非戦闘員用中立区域をつくりたいというわれわれの申し出を好意的に受け入れたとのこと。だが公式の回答はまだだ。

韓の防空壕も崩れてしまった。また新しいのを作らなければならない。しかも韓は、家族のために学校に一部屋用意した。

預かってくださいといって、エラ・ガオさんが旅行かばんや箱を送ってきた。なかに壁掛け時計が二つあり、「注意! 時計在中」と上書きした紙でくるんであった。


靴屋は今では無二の親友になった。われわれは一心同体だ。一日中家族総出で防空壕の水をかい出している。その合間に、りっぱな茶色のブーツを作ってくれた。十ドルでいいといったが、一ドルよけいに払っておいた。もっと友情を深めておきたかったのだ。

ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事(※)に電報を打とうと決心した。今日、つぎのような電報を打つつもりだ。

在上海ドイツ総領事館。
党支部長ラーマン殿。っぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。

総統閣下
末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、二十万人以上の生命が危機にさらされることになります。
ナチ式敬礼をもって。 ジーメンス・南京 ラーべ

クリーベル総領事殿
本日私が総統へお願いしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関するお取りなしについて、貴殿のご尽力を心よりお願いする次第です。さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。
ハイル・ヒトラー!  ジーメンス・南京および国際委員会代表 ラーべ
※ヘルマン・クリーベルは一九二三年のヒトラーによる反乱に加わり、ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、とうにできない立場にあった。

電報代を考えてラーマン氏は後込みするかもしれない。そう思ったので、費用は私が持つからとりあえずジーメンスに請求してくださいと付け加えた。

今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ二十万人をこす非戦闘員がいるというけれども。ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。


たったいま杭立武さんが、安全区の件で中国政府から了解を得る必要はないと教えてくれた。蒋介石が個人的に承諾してくれたというのだ。

渉外担当がきまった。南京YMCAのフィッチ。あとは日本側の賛意を待つのみ。

上海の中国本杜からドイツ大使館に私あての電報が届いていた。
ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るよう勧める。そちらの予定を電報で告げよ

私は大使館を通じて返事をした。
ジーメンス・上海へ。ラーべより。十一月二十五日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。二十万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました


韓が、恰和通レンガエ場からガソリン百缶、小麦粉二十袋を運んできた。庭では、新しい防空壕の建設中だ。ガソリンはどこかほかに置き場を探さなくては。百缶も庭に置くのは危険だ。

スマイスから電話。東京の新聞が、中立区域があると南京の占領は非常に困難になる、あるいは遅れてしまうと論評したという。もしこれがうまくいかなかったら、いったいどうすればいいんだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。わが頼みの綱はヒトラー総統だ!

われわれ全員がはたして無事にジャーディン海運社の船で脱出できるかどうかと、ローゼンは非常に心配している。万一の場合にはヒルシュベルク先生一家も避難することになっている。たしかにそれが分別というものだろう。だが、逃げることばかり考えたり聞かされたりしていると、意気阻喪してしまう。うちの中国人たちは落ちついたものだ。主人である私に見捨てられさえしなければ、あとはどうにかなると思っているのだ。だからこそ、なにがなんでもここでがんばらなくてはと思う。ただ、正直な話、わが家よりもう少しばかり安全な場所があればなあ、とは思う。

もう一軒家が手にはいるかもしれない。ローゼンが、張群将軍の家を使っていいといわれたのだ。庭にはりっぱな防空壕がある。一度下見にいかねばなるまい。だが、ここで難しい問題がある――引っ越すかどうか? ここの連中を全員連れていくのは無理だ。そうかといって二つの家に同時にいることはできない。私のようなものでも、そばにいてやることが肝心なのだ。

 
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2008-11-26

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][中文] この日の日記は、日文、英文には無く中文には有り

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/413.html
  • 天晴、太陽の光が輝いて、高い友達は来訪するかもしれない
  • 首都飯店にドイツ国旗を揚げて下さいというトンデモな依頼
  • うわさやデマが飛び交う中、城外50の陣地を死守するというが・・・
  • 蕪湖から戻ってきたヴォルフ・シェンケの話をきく
  • ローゼンから聞く、中立区計画に中国政府は同意
  • 上海ジーメンスより引き揚げよという電報、ラーベより断りの返電
  • 韓がれんが工場から100缶のガソリンなど入手
  • スマイス博士から聞く。日本側は難民区に難色。ヒトラー総統にすがるよりないか
  • 王固盤の内容の無いあいさつ、街の人々のようす
  • ローレンツが軍事顧問の最後の一人として南京を去るあいさつにきた
  • わたしの気持ちがブレなければ周囲の中国人も安心する。だからここを離れない。張群将軍の家はローゼンに使ってもらおう。
など、けっこう詳しい。

※もしかすると、エルヴィン・ヴィッケルが編纂する際に、元原稿の25日の分と26日の分が紛れてしまったかもしれません。要検証。
編者まえがき「ラーべの日記とその時代」 より
帰国後、ラーべは日記を清書し、資料とあわせて八百ぺージからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた。本書はこの『南京爆撃』から、最も重要と思われる部分を抜粋したものである。なお、はじめの日記からも二、三ヵ所引用してある。編纂に当たって、私はジョン・ラーベという人物のあらゆる面が浮き彫りになるように努めた。
AFTERWORD John Rabe's Last Years
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2008-11-27

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][ユダヤ人][誤訳] ローゼンから一身上の話を聞く

十一月二十七日

コックの曹はまだよくならない。良い薬を処方してもらったのだが、薬局が軒並み逃げてしまったので、手に入らなかったという。今日、五日も経ってからようやく、使用人仲間は曹のことを私に知らせなければと思いついたらしい。とりあえず、とぼしい買い置きのなかからすこしわけてやった。おまけにこの一週問、曹は火の気のない部屋で寝ている(節約のためだが)。だから石油ストーブを貸した。なぜ石炭ストーブを焚かないのかと聞くと、板金屋が全部しまっているので、室内煙突が買えないとの返事。嘘だと思うが、もうすこし事情を調べてみなければ。

曹はあまり仲間に取り入らなかつた。それでみな彼を見殺しにしたのだ。むろんそんなことがあっていいはずがない。

ローゼンは私のために献身的につくしてくれる。ここに残っているドイツ人のなかで、私がいちばん気がかりらしい。いっしょにジャーディン社の船に乗る気がないのではと心配しているが、その心配はもっともだ。船に乗れるよう、ローゼンはプリドー=ブリュン・イギリス領事発行の証明書を私の手に握らせた。この船はまもなく揚子江上流へ曳航される。かっての外交部長張群将軍の家も、使つても使わなくても構わないからといって世話してくれた。要するに、できるだけのことをしてくれるのだ。

昨日の午後、我々は胸襟を開いて語り合つた。というより、ローゼンが自分の運命について語つたのだ。おじいさんはベートーベンと親しかったたらしい。べートーベンがおじいさん(実際には曾祖父である作曲家、イグナーツ・モシェレスのこと)にあてた手紙を見せてくれた。ローゼンの家系はおよそ一世紀も外交関係の仕事についているという。お父さんは大臣だったが、ユダヤ人のおばあさんがいるため、自分は書記官のままで終わってしまうだろうといっていた。気の毒に!
以下は、編者ヴィッケルトによる注記です。日本語訳本には「ゲオルク・ローゼンの身上書より」とあるが、英語版では "From Georg Rosen's Personal File" とういう見出しです。『身上書』ではちょっと違った意味がつけ加わってしまい誤解の元になります。要するにビッケルトがローゼンの経歴を個人ファイルから要約したということです。
 ゲオルク・ローゼンの個人ファイルより
一九一二年ローゼンは外務省に入省したが、ヒトラーの全権掌握以降は「ユダヤ人と姻戚関係にある」とされ、外交官としての昇進はできなかった。一九三八年、休職を命じられたあと、イギリスヘ亡命、一九四〇年アメリカヘ渡る。戦後、帰国して外務省に入り、一九六〇年、モンテビデオ大使を最後に退官。翌年死去。

ローゼンは如才ないジョン・ラーべとは対照的で、ぶっきらぼうだった。ヒトラーの人種法による差別にひどく苦しめられていた彼は、その心情をラーべに打ち明けたのである。

「気の毒に!」とラーべは日記に書いている。ローゼンがラーべに事実を打ち明けたのは一九三七年十一月二十七日だった。その三日前に漢口の大使館にあててドイツ外務省から人事課長の署名入り電報が打たれていた。そのことを彼はすでに知っていたのだろうか?

電報(秘密の暗号による)

大使殿 親展
ローゼンに穏やかに告げられたい。休暇より戻るに及ばず。アーリア系でないため、近日中に休職を命ずるものとする。検査官
「休暇より戻るに及ばず」は誤訳です。
ここの部分の正しい意味は、「それとなくローゼンに伝えてください。休暇のあと帰国になることは間違いないこと。アーリア人でない血統のため休職者リストに入れられること。    検査官」
本国からのこのような指令にもかかわらず、ローゼンはドイツ大使館南京分館を預かって、1938年4月まで勤務し、ラーベをサポートした。ドイツ大使トラウトマンは、ローゼンの本国召還指令を握り潰したのである。
ヒットラーの天下となったドイツだが、外務省の出先である在中国大使館は思うがままにはなっていなかったようだ。

ラーベの日記に戻ります。

夕方

北平路六九号にて、十八時に会合。唐司令長官が出席し、つぎのように言った。防衛戦はいよいよ間近に迫った。その際、部隊の統制が失われる可能性がある。だが力の及ぶ限り、防衛軍は外国人を保護する覚悟である。城門は閉鎖されるが、外国人はその直前まで通行できる見通しである、と。

ローゼン、プリドー=ブリュン・イギリス領事、アチソン・アメリカ大使館書記官の三人は、今日の午後、蒋介石を訪ねた。南京の防衛について、一度、本当のところを聞かせてもらいに行ったのだ。とてもよい考えだ!

国際委員会は、いまだに日本から返事をもらっていない。そのため、アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にもう一度電報をうった。ヒトラー総統とクリーベルにあてた私の電報になにか応答があったかどうかは、むろんわからない。私の考えでは、電報はもうベルリンに届いているはずだ。

明日の十四時に会議を開くことになった。もしも日本から返事がもらえなかったとしても、事前になんらかの行動を起こさなければならないだろう。つまり、少なくともなにかしら準備しなくてはならないということだ。

[ラーベの日記][ユダヤ人][誤訳] ローゼンの経歴

英訳書に書かれている、編者ビッケルトによるローゼンの経歴説明はもっと長いのです。 http://latemhk.hp.infoseek.co.jp/@wiki/27NOVEMBER.htm 

[ラーベの日記][ユダヤ人][追記] 11月22日の原注7

十月二十二日の日記の(原注7)は、英語訳本では、NOTES 4(p289)でした。
NOTES 4.

  This remark by someone on the embassy staff refers to a directive from Hitler. The German embassy in Nanking had telegraphed the Foreign Ministry asking whether, for their own protection, Jews of German nationality who lived outside international concessions ( as for instance in Tientsin or Shanghai ) were permitted to display the Reich flag with swastika. This suggestion had originally come from the Japanese general consul in Tientsin. In an express letter to the Reich Interior Ministry dated 9 September 1937, Legation Councilor Hinrich, an official of the Foreign Ministry, noted that he was aware that "in general there should be only a limited extension of protective measures to Jews living abroad." But then he added that conditions in China were quite different. "In practice, then, we are left with no other means by which to make the property of German nationals of Jewish blood recognizable than by displaying the German flag." Moreover, this was not in any way a "display of the flag in a legal sense." And it was the view of the legal department for overseas organizations-in effect, of the NSDAP-that there was no problem with displaying the flag of the German Reich as a way to make Jewish property recognizable. Herr Hinrich requested a reply by return mail. The deputy state secretary of the Reich Interior Ministry responded that he, too, had no objection; but just to conform with regulations, he suggested that the matter be "submitted to the Fiihrer and Reich Chancellor for decision." The director and state secretary of the Reich Chancery passed on Hitler's answer on 4 October:

 The Führer and Reich Chancellor has decided against granting German nationals of the Jewish race permission either to display our national flag because of the warlike confusions in China or to make themselves recognizable by the wearing of armbands of a similar nature.
 It is the Führer's view that German nationals of the Jewish race can protect themselves and are adequately marked by displaying white flags or armbands, on which, if necessary their association with the Reich can be indicated in German or some foreign language.

This trail of letters shows that officials at the Foreign Ministry and even the Reich Interior Ministry were less rigorous in their treatment of "German nationals of Jewish blood" than was the Führer and Reich Chancellor. A telegram reflecting Hitler's directive was then sent to the embassy in Nanking ( Federal Archives, Berlin, R 43 11/1286 ).

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2008-11-28

[ラーベの日記][国際委員会] ラーベの家


上が南京のラーベの家。下が「新しい家」。国民政府外交部長張群将軍がドイツ大使館に渡し、それがローゼンの配慮でラーベの「新しい家」となった。後に、国際安全区委員会の本部となる。写真の手前に写る中国人は、食糧の配給か貧しい人の為の小銭の配給を待っている。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 蒋介石の考え

国民政府首領の考え。ラーベは住民軽視だと批判するが、私としては沖縄戦における32軍のやり方や、終戦時の関東軍の行動とを比較してみたい。
十一月二十八日
昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。

「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答えが返ってきた。

次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は「そのときは日本人がすればよい」というものだった。

言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは・・・・・・。さすが、賢明なお考えだ!
不安は高まるが、日本側からの返事待ち。
神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば!本格的な攻撃が始まったら、どんなに悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。

ローゼンからこんなことも聞いた。総統に電報をうったドイツ人はいったいだれだと、トラウトマン大使が問い合わせてきたという。大使はもうローゼンからの手紙を受け取った。今日の午後、ラジオでは、安全区に関して何もいってなかった。

十五時。スマイスの家で行われる会議のため、シュペアリングが迎えにきた。

この会議で、フィッチを正式に役員に、抗立武を中国側の顧問に任命することになっていた。日本から返事をもらうまでは、これ以上動けないということで意見が一致した。

ミルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。それより穏やかに明渡した方がよいのではないか。できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍にそのことを伝えるべきではなかろうか。だが抗立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。結局日本政府から承認されるまで待とうということになった。
十六時半に散会。あまり成果はなかった。なにもかも中途半端だからだ。十八時にイギリス文化会館で会議。郵便局長の李奇氏は、郵便局が正式に閉鎖されることになったと伝えた。けれどもポストの郵便物は時々回収されるので、手紙を投函することはできるという。リッチー氏は少し興奮しているようだった。彼の部下は大勢いてこれまでよく働いてきたが、そっくりいなくなってしまうのだ。
李奇氏=リッチー氏。同じ人。
  人々の話では、日本軍は蕪湖より六十キロ離れたところにきていて、三日後にはこちらに着くという。だがそれはおかしい。そんなことは不可能だと思う。

会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。もっともこれはすぐに解決した。
「もっとも」は英文には無い。 「今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだがそれがすぐに、(張り紙対策で)解決した。」というjoke。
  寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここは表向きだけ住んでいることにするつもりだ。うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。

二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二十万人住んでいるとくりかえした。ここにとどまるかねと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。「できるだけ長く」

つまり、ずらかるということだな!
ずらかる?="Which means, he'll decamp!"
「寧海路五号の新居」=ローゼンが世話してくれた外交部長張群将軍の家。やがて安全区国際委員会の本部となる。
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2008-11-29

[warなひと人][戦況と民衆] 鉄路と水路で、このころ日本軍は。

上海から南京までは直線距離で、280km。
南京攻略作戦経過要図:クリックすると拡大します。

南京攻略作戦経過要図
「毎日フォトバンク( http://photobank.mainichi.co.jp/ )」で「日中戦争*南京*鉄道*丹陽」のキーワードで検索すると「写真ID No. 00101159 」「1937年12月03日撮影 / 丹陽駅付近を線路沿いに南京へ進む日本軍 / 日中戦争。南京攻略。線路はあっても列車がなく歩くしかなかった。/撮影場所 丹陽」

歩兵砲小隊(砲兵ではない)の行軍と戦闘。
(写真は下記手記とほぼ同一時機のもの。人力で舟を曳行前進する)

「第16師団、歩兵第9連隊、第3大隊、第3歩兵砲小隊に属し、向井少尉直属の部下であった田中金平氏は、「我が戦塵の回顧録」(戦友会「九砲の集い」が出版した回顧録)に「第3歩兵砲小隊は斯く戦う」という手記を寄稿しています。」百人斬り資料集 その2
向井少尉:南京軍事法廷被告・百人斬り事件により処刑
11月21日-26日 無錫附近の戦斗に参加
常熟よりクリークを利用して 大発にて進む。敵の迎撃を受け展開。人力で舟を曳行前進する。射撃開始直後 第一分隊砲側に迫撃砲弾炸裂し 砲は破損分隊長山田金治郎伍長,四番砲手山添銀治郎上等兵,五番砲手橋本徳太郎上等兵 戦死。爾後南京入城まで第二分隊の砲一門で戦う。
11月27日-30日 常州附近の戦斗
12月1日-3日 丹陽附近の戦斗
無錫駅を出て 線路沿いに人力搬送で急進する。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 泰山鳴動?

十一月二十九日

シュペアリングから電話。王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。
  • エドゥアルト・シュペアリング(Eduard Sperling)・・・・・ドイツ人。ドイツ資本の上海保険公司の南京支店長。日本兵士の難民に対する暴行を体をはって阻止し、安全区の「警察委貝」と呼ばれた。
  • 警察庁長:王固盤
  スマイスは、「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。
  • ルイス・スマイス(Lewis S.C.Smythe)・・・・・金陵大学社会学教授。南京安全区国際委員会の事務局長をつとめた。南京にもたらされた被害を調査し、日本大使館への抗議文書をラーべとともに作成した。
ローゼンから電話。日本人(※)は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないどろうか。それにしても唐生智がしたような発言(「南京を死守する」云々)は、迷惑千万だ。司令官というものはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。
  • ゲオルク・ローゼン(Georg Rosen)・・・・・駐華ドイツ大使館書記官。ドイツ大使が漢口に避難して南京の大使館は分館となったが、それをあずかる。
  • 日本人:英文ではaccording to a report from Tokyo the Japanese are・・・とあるから、「日本政府」とすべき。駐日ドイツ大使館からの報告によれば、ということ。
持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。ヒトラーユーゲントのリーダー、バルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。

総統のかくも偉大なるところ、それは、
われらが総統にして
あまたの民の英雄たること。
また、彼その人。
素直にして堅固、かつ素朴、
彼のなかにわれらが世界の源あり。
その魂ははるか天空へと達しながら、
なお人としてとどまられた。
君やわれとひとしき人として。

これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府のこの上ない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!
ドイツ人庶民の多くがヒットラーをなぜ信じたのか、理解するヒントの1つになりそうだ。
そして、国際委員会の会議。
  十八時。イギリス文化会館で定例会。そのとき、市長が国際委員会の発足を正式に発表した。私はいった。我々はすべての大使館から道義的な理由によって支持されており、アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にすでに電報を二本打った。そして個人的にヒトラー総統およびクリーベル総領事にも打電した、と。「ただ、総統からの回答は期待できないと思います。この種のきわめて微妙な外交問題は、おそらく他の方法で処理されると思われるからです。ですが、その一方で、私には総統が援助を拒否されるはずはないという確信があります。あともう二、三日待っていただきたい。なぜなら、日本が承諾を得ることについて、まだ諦めたわけではないからです」

蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出た。私はカルロヴィッツ社のクレーガーを財務委員として推薦した。これは承認され、クレーガーは快く引き受けてくれた。また、例の家(寧海路五号)に住んでもらえないかと頼んだところ、これも承知してくれた。
  • 市長:南京市長馬超俊
  • クリスティアン・クレーガー(Christian Kröger)・・・・・ドイツ人。カルロヴィッツ社の南京駐在員だった。
ドイツ国旗を掲げているのに、内政部を警備している兵士にトラックが没収されてしまった。唐の代理である龍上校(大佐)に電話して返してもらったときには、夜の十一時になっていた。
  • 龍上校は中国側守備隊の撤退まで、ラーベの交渉相手となった。
今日の日記の登場人物のうち欧米人は、スマイス以外はドイツ人だ。
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2008-11-30

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 十一月三十日

十一月三十日
韓に家族を連れて越してくるようにいった。一家はいま学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で怡和通レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだできあがらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げた煉瓦壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)がひとつあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道がとまりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約1ヶ月分ある。
  • 韓湘林・・・・・ラーベと深い信頼関係にあったジーメンス南京支社の中国人アシスタント。日記には頻繁に登場する。

一晩かけて予備の注射器を煮沸消毒した。器具一式と、インシュリンのアンプル三個を肌身離さず持ち歩いている。張のかみさんはまだ入院している。コックの曹も入院中だが、こちらは快方に向かっている。せっせと薬を飲んでいる。効くと信じているが、理由は簡単、まずいからだ!
  • インシュリンについては、10月3日と10月29日 の日記を参照。
  • 張国珍・・・・・ラーベに長く仕えた中国人ボーイ。
  • 「コックの曹」:厨師师曹保林 11月27日の日記参照。なお10月28日の日記の日本語訳では、ラーベは「曹保林」をこっぴどくやっつけ解雇している。解雇したのに1ヶ月後にこうして現われたのは、10月28日の日本語訳が人違いであった可能性が高い(中国語訳では"蔡"という別人)。だが、10月28日の英文は "Tsao"、11月27日の英文でも "Tsao"。いずれにしても、10月28日の日記を考察し直す必要がある。
    (追記)或いはもしかして、ラーベには「お前なんかクビだ!」と使用人を怒る習癖があったのかも。寺内貫太郎?(笑)
蕪湖から医者のブラウンさんとフランス人の神父さんがやってきた。蕪湖でも安全区を設けるつもりなのでいろいろ知恵を貸してもらいたいという。だがこちらも途方にくれている有様なのだ。

まだ残っている住民の数をもう少し正確につかまなければな。「正確な」情報を教えてくれるといっていた男、すなわちかつての警察庁長王固盤が逮捕されたという噂が、たった今飛び込んできた。自分は軍人ではないから任ではないといって辞任したのだったが。
ラーベが住民の数を知りたかったのは、食料や住居の確保のためだ。
スマイスから電話。南京市には六万袋、下関には三万四千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまり藁小屋に使う筵だ。この寒空に、なんとかして泊まれる場所を確保しなければならない。

以下は国際委員会が抱えている課題である。

  1. 資金の調達
  2. 警察
      安全区入り口の検問
      境界の警備
      警察官の総数とその宿泊施設の整備
  3. 兵士と軍人たち
      撤退の指令と視察
      すでに始まっている脱走兵の対策
      負傷者の看護
  4. 食糧の配給
      食料の管理
      食料の貯蔵と分配
  5. 輸送と輸送手段
  6. 避難民の収容施設
      見張り
      建物の使用と管理
        (a)公共の建物(政府の)
        (b)学校や伝道団の建物
        (c)空き家、藁小屋
  7. 公共施設
      水道
      電気
      電話
  8. 衛生設備と健康管理
      仮設便所
      ゴミと糞尿の運搬
      病院と医療設備
次に南京安全区委員会のメンバーリストを記す。

名前 国籍 所属
ジョン・ラーベ(代表) ドイツ ジーメンス洋行
ルイス・S・C・スマイス(事務局長) イギリス 金陵大学
P・H・マンロ=フォール イギリス 亜細亜火油公司
ジョン・マギー アメリカ アメリカ聖公会伝道団
☆P・R・シールズ イギリス 和記公司
☆J・M・ハンソン デンマーク 徳古士煤油公司
☆G・シュルツェ・パンティン ドイツ 興明貿易公司
☆I・マッケイ イギリス 太古公司
☆J・V・ピッカーリング アメリカ 美孚煤油公司
エドゥアルト・シュペアリング ドイツ 上海保険公司
M・S・ベイツ アメリカ 金陵大学
W・P・ミルズ アメリカ 長老派教会伝道団
☆J・リーン イギリス 亜細亜火油公司
C・S・トリマー アメリカ 鼓楼病院
クリスティアン・クレーガー ドイツ カルロヴィッツ・南京(礼和洋行)
ジョージ・フィッチ アメリカ 基督教青年会(励志会)

(編注か?)☆印をつけた人は、包囲される前に、南京を去っている。

南京に残った人のリストはまた補足する必要がある。

[warなひと人][戦況と民衆] 戦争はお祭り?

同じ日、日本の新聞にはこんな戦争英雄が登場した。

東京日日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>

百人斬り競争!両少尉、早くも八十人

[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。

無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

向井少尉

この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉

僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

なお、佐藤振壽カメラマンがこの常州での取材時に撮影した二人の中尉の写真は、電信で送った記事よりも遅れて日本に到着したためか、12月13日朝刊<第4報>「百人斬り成就」を報じる紙面に掲載される。

戦争を講談のように語る記事は新聞や雑誌に、すでに溢れていたようである。タラリ氏の研究によれば、『何十人斬り』という記事も1937年9月頃から、さかんに書かれていた。

野田、向井両少尉の「百人斬り英雄談」連載記事の詳細は、こちら。ゆうさんの研究と資料提供にもとづく。

【追記】 『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著 がお勧めです。
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