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2008-10-27

[ラーベの日記][戦況と民衆] 大場鎮(だいじょうちん)からの撤退

十月二十七日

中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。いまや、かの「ヒンデンブルク・ライン※」まで後退したのだ。

※第一次世界大戦の際のヒンデンブルク将軍による包囲作戦にあやかつたもの。絶対防衛線の意。
日本側の戦史によれば、松井石根大将率いる上海派遣軍は10月10日から第2波の大場鎮総攻撃を開始し26日に陥落させた、ということだそうです。大場鎮とは、上海市街地のすぐ北にある郊外です。

注釈文(※)がよくわからない日本語ですね。連合国軍の包囲作戦を受けたのがヒンデンブルク将軍であって、攻守の立場は逆だと思います。翻訳者もちょっと調べてから翻訳すれば良かったですね。wikipwdia「第一次大戦」にはヒンデンブルグラインについて、次のような説明があります。
ドイツ軍は前線の後背にヒンデンブルク・ラインと称される要塞群の
建設を行っていた。ルーデンドルフの意図したのは、凹凸が生じてい
る西部戦線を整理し、人的資源にやや劣るドイツ軍でも十分な防御が
行えるようにすることであった。
ラーベはおそらく、大場鎮の攻防を『ソンムの戦い』になぞらえ、「中国軍は後背地の強固な防衛線に撤退した」といくらか皮肉をこめて書いたのだと思います。実際には、ヒンデンブルグ・ラインのような強固な要塞群は、そのときの中国軍にはなかったのです。後背地にあったのは、7週間後に悲劇の都市と化す南京城だったのです。
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