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1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
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2007-12-14 (占領2日目)

[ラーベの日記][中文] 12月14日分はあった

日本語ラーベの日記の12月13日分は、14日の分と一緒になってリリースされてしまったと思います。ここでは中国語版に準拠して、内容を分割して掲載します。 よろしくご批判ください。

[ラーベの日記][国際委員会] 日本軍司令官への要請状

軍事占領下の安全区は、占領軍司令部との提携が無ければ存在できない。ラーベたちは、日本軍司令官とのコンタクトを急いだ。ラーベの日記中国語版の12月14日の項は、そのことから始っている。中国簡体字原文
12月14日
私達は、英語と日本語それぞれの手紙を立案して、日本の指揮官にじかに手渡すつもりだ。次はこの手紙の訳文だ:
実はこの手紙、南京事件否定派が「ラーベの感謝状」だと歪曲して呼ぶ有名な書簡だ。すでに訳文があるのでそれを引用する。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/rabe.html
『南京安全区档案』 第1号文書(Z1)

南京安全区国際委員会
寧海路5号

1937年12月14日
南京日本軍司令官殿(=閣下)

拝啓
  貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。

  国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面 、住民に食を与えるために米と小麦を貯蔵し、地域内の民警の管理に当たっております。

以下のことを委員会の手でおこなうことを要請します。
  1. 安全区の入口各所に日本軍衛兵各一名を配備されたい。
  2. ピストルのみを携行する地区内民警によって地区内を警備することを許可されたい。
  3. 地区内において米の販売と無料食堂の営業を続行することを許可されたい。
    • a われわれは市内の他の場所に米の倉庫を幾つかもっているので、貯蔵所を確保するためにトラックを自由に通 行させて頂きたい。
  4. 一般市民が帰宅することができるまで、現在の住宅上の配慮を続けることを許されたい。(たとえ、帰宅できるようになったとしても、多数の帰るところもない難民の保護をすることになろう。)
  5. 電話・電灯・水道の便をできるだけ早く復旧するよう貴下と協力する機会を与えられたい。
  昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。そのうち若干名は当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表達は貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、我々はこれらの兵士達を全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。現在、彼らの望み通りに、これらの人びとを平穏な市民生活に戻してやることをどうか許可されるようお願いします。

  さらに、われわれは貴下にジョン・マギー師(米人)を委員長とする国際赤十字南京委員会をご紹介します。この国際赤十字会は、外交部・鉄道部・国防部内の旧野戦病院を管理しており、これらの場所にいた男子を昨日、全員武装解除し、これらの建物が病院としてのみ使用されるように留意いたします。負傷者全員を収容できるならば、中国人負傷者を全員外交部の建物に移したらと思います。

  当市の一般市民の保護については、いかなる方法でも喜んで協力に応じます。

  敬具(=謹んで致す崇高なる敬意)

南京国際委員会 
委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)

南京安全区国際委員会 
寧海路5号 電話 31961-32346-31641

(『日中戦争史資料9』p120)
これは感謝状ではなく、れっきとして要請状だ!
中国語版ではつづく(拙訳)
元駐南京日本領事館秘書の宋(音訳)先生が翻訳の仕事を引き受けた。60歳の宋先生は私達の下にある紅卍字会のメンバーだ。私達は6人ほどの日本将校を探したが、やっと情報をくれた。日本陸軍の谷寿夫将軍は明日か明後日にならないと到着しないと連絡があったと。
ラーベにしてみれば、この手紙は司令官に直接手渡すことに意味がある。それが安全区公認の瞬間となるからだ。
このあとは、以下、日本語版と同じ内容である。

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][戦況と民衆] 日本軍進入2日目の街

12月14日
町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。

日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。
やはりこれは、侵入2日目の光景なのだろう。日本語版「南京の真実」では、12月13日の光景になっていて、畝本正巳氏は、城内に踏み込んだ最初の日は戦々恐々で商店の掠奪などしない、と批判しているがもっともである。2日目の光景としては、他の日記の記述とも符合している。

ラーベの昨日の巡察は、南京城内の北部で安全区の近くだったが、今日はもっと東南の方も見回ったようだ。(太平路→市街地図3参照)
我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。ここはフォースターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に命中していた。近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。
連行の目撃。《掃討戦》という名目での殺戮。
二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。

元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。

外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。
最高法院は、中山北路沿いの安全区際北端、外交部は少し南でほぼその向い。
日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。
ラーベの家は最高法院の南。おおよそ直線で2キロぐらいか。昨日と違って、きょうは車ではなく歩き回ったようだ。そうした内容からいっても、これは13日の描写ではない。
被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。
いったいどんなビラだろうか?
畝本正巳氏はラーベの日記を批判する本を書いている。「こんな宣伝ビラのことは書いてあるのに、なぜ重要な9日の降伏勧告文のことが書いてないんだ。」、「だからこんな日記はいい加減だ。」というのが畝本さんの言い分であるが、見当ハズレだ。

降伏勧告文は敵軍の中枢に撒くもので、難民達に向かって撒いても仕方ない。それに対して、住民宣撫の宣伝ビラは難民区(安全区)に撒かなければ何の意味もない。可笑しなことをいう元戦車隊長さんだ。

ラーベの家から寧海路五号の本部までは、3キロほどあるのではないか。自動車で行けたのか? 下の裁判所とは安全区東南、ラーベの家に近い司法院のことか?
絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部へ戻った。あちこちで人々は飢えに苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が食べる物もなく苦しんでいる。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が七人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を撃たれた十歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。
昨日、赤十字病院として指定したばかりの外交部の野戦病院が、手の届かないものになってしまった。

このあと中国語版では、谷寿夫中将に関する訳注があり、さらに「晩上」、Poemを引用してしんみりと妻へ感謝するくだりがあり、最後に、
《ニューヨーク・タイムズ》記者のダーディン氏は車で上海に行くつもりだという。なんとしても称賛に値する。しかし私は彼が順調に通行できるとは信じられなかった。それでも私は、彼に一通の電報を上海まで託した。電文は次の通りだ:
上海のシーメンス洋行(中国)、当電文の署名者と現地の事務所の職員全員は12月14日晩9時まで全く無事です。ラーベの妻(天津、馬場道の136号)とベルリンの施莱格爾さんにも知らせて下さい。ラーベ。
たった今わたしに、ダーディン氏はすでに戻って、上海への旅は成就できなかったというニュースが届いた。残念なり!

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 12月14日ヴォートリンの日記

一二月一四日火曜日
 午前七時三〇分。昨夜、戸外は平穏だったが、人びとの心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。

 ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう。
ヴォートリンは、勝ち誇った軍隊が掠奪などするわけがない、と信じている。
 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかっただろう。
 戦争による苦難は等しく負うべきだというのであれば、宣戦を主張する人たちはみな自ら進んで戦線に赴くべきだと思った。女性は、その意志さえあれば軍の病院で奉仕できるし、衣服や慰安品を負傷兵に提供できるだろうし、女子学生でさえも、装備を供給することによって軍隊を支えるさまざまな仕事をつうじて多分に貢献できるだろう。

 男子の中学生や大学生は、軍隊、赤十字、社会奉仕団体などで奉仕することができるだろう。戦争が終わったあとでは、これらいずれのグループにも、身体障害をこうむった兵士を援助するという大事な仕事があるのは言うまでもなく、戦死した兵士たちの妻子の世話をするというやり甲斐のある仕事もある。

 戦争は国家の犯罪であり、全人類の心の奥にある創造的精神にたいする罪であると考える人びとは、無辜の被害者、たとえば、家を焼かれたり掠奪をこうむった人びとや、爆撃や砲撃によって負傷した人びとの社会復帰に力を貸すことができるであろう。

 貧しい人びとにとってきょうの天気は神の恵みだ。一〇月のように暖かくて心地よい。丘で眠ることを余儀なくされる人もいるが、それもあまり苦痛にはならない。
敗戦と絶望の中にいるであろう中国に青年たちのために、なんとか希望を見出そうとする、ミニーの優しい気持ちが伝わってくる。
 昨夜、日本兵によって無理やりに家から追い出された人の話や、さらには、けさ日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。苗さんの家にはアメリカ国旗が掲げられ、大使館の公告が掲示されていたにもかかわらず、日本兵が入り込んだ。どんな物が持ち去られたのかはわからない。苗一家は老邵の家の外で燃料の草を敷布団にして一夜を明かした。老邵とその一家はすでに引っ越していた。ひどい目にあわされた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。
果たして、日本軍の将兵は抑制のきく常識ある人たちなのだろうか? ミニーの関心はそこに向く。
 四時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。彼らが会った将校たちのなかには、きわめて丁重な者もいれば、きわめて無愛想で不作法な者もいた。

 ジョン・マギーは、国際赤十字病院を設立する件で終日外出していた。丁重で礼儀正しい者もいれば、どうしようもない者もいると、彼も同じようなことを言っている。彼らは中国兵にたいしては情け容赦がなく、アメリカ人にはあまり関心がない。
 四時三〇分、プラマー・ミルズがわたしに、長老派教会員たちの家を見回りたいから、水西門まで同行してもらいたいと言ってきた。わたしの役目は見張り番である。それらの家は、窓ガラスが数枚壊れていたほかは、まったく別状がなかった。日本兵が入り込んだ形跡はあるものの、掠奪されてはいなかった。プラマーが敷地の中に入り、門衛と話をしている間ずっと、わたしは車の中にいた。

 帰ってくる途中、ヒルクレスト学校付近の路上で死体を一体見た。凄まじい砲撃が市街に加えられていたわりには、あたりに横たわっている死体の数はきわめて少なかった。
ヒルクレスト学校付近、ここは地図上では何処なのだろうか?
 ヒルクレスト学校を少し過ぎたところでソーン氏を見かけ、彼を車に乗せた。ついさっき車が盗まれたというのだ。家の前に車を放置したまま家の中に入っていたほんの数分間の出来事だそうだ。車にはアメリカ国旗が掲げられ、鍵がかけられていた。

 貧しい人びとの家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしていたのだ。
 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が八人ぐらいいた。彼らが立ち去るまでわたしは校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師伝を彼らから奪い返すことができた。わたしがそこへ行かなかったら、日本兵は彼を案内役として連れ去ったであろう。

 学院の使い走りの魏はけさ使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。

 校門に立っていると、何人かの兵士が、わたしがつけていた国際委員会の徽章に目をやったが、その中の一人が時刻を尋ねてきた。昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。

 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。東にある地区へ移動しているようだ。
この日から、ミニーは校門に立ち内部の女性たちを守る毎日となる。彼女は、見るからに日本兵が怖気づいてしまうような大柄な女性だったのだろうか?
   ニューヨーク・タイムズ特派員のダーディンは何とかして上海に行こうとしたが、句容まで行ったところで引き返してきた。南京までの途中には何千何万という兵士がいたそうだ。
これは、ラーベの日記中国語版の12月14日分最期の記事と同じ。
 きょうは避難民は粥を二度食べることができ、わたしたちは感謝している。米が貯蔵されている建物に日本兵が入り込んでいるので、きょうは粥が食べられないのではないかと心配していた。

 わたしは、中国兵が一昨夜逃走するさいにキャンパスに投げ捨てて行った軍服を埋めることにした。ところが、大工の仕事場に出かけてみると、庭師たちのほうがわたしよりも上手であった。彼らは、すでに軍服を焼却し、手摺弾は池に投げ込んでしまっていた。陳さんは、捨てられていた銃を隠した。

 今夜は平穏無事でありますように。
安全区の中にいたヴォートリンの視野、暴風はまだ吹いていない。

[程瑞芳日記][戦況と民衆][所行無情] 程瑞芳日記12月14日

程瑞芳女史の日記を、熊猫さんは翻訳しmixi日記に掲載しています。 http://mixi.jp/list_diary.pl?id=6258915
 今日は更に多くの人が来た、皆が安全区内に逃げて来るのは、日本兵が昼間から彼らの家の中に入りお金を奪い、強姦をするからだ。街では刺し殺された人が多い、安全区内はみなそのようだ、外は更に多く思い切って出て行く人はいない、大半の青年男子は刺し殺された。
同じ職場にいてもヴォートリンよりも筆致が厳しいのは、逃げてきた難民からの生々しい体験談を、中国人である程女史はいっぱい聞いてしまうからであろうか。

安全区の外からまだなお人が逃げてくる。この日はあきらかに安全区にとっては人口増加の日である。外で掠奪と殺戮が続く限り安全区の人口は増加する。
 今日は500号棟の3階もいっぱいになった。昼ごろ7人の兵隊が300号棟の後の竹の垣根を飛び越え入って来たが、ヴォートリンさんがいないので、どこだろうと行くしかない。ちょうど粥を売る場に、彼らが難民を見たので、難民は非常に驚いた。

勇気ある数人の使用人が、彼らを連れて500号棟と100号棟を案内し、私も彼らと回った。彼が見た難民は何もなかった、彼は1人の青年男子の様子を見て気にかけたので、その兵隊は走って数人の兵隊を叫んで来た。刀を向け彼が服を脱ぐことを要求したので私が言うと彼は脱いだので無事に行ってしまった。

中庭の芝生にあるアメリカ国旗を見つけて、彼は使用人に対して、巻く必要はないと言ったので使用人はうなずくしかない。これらの兵は隊列をくみ、外で一声あげ皆行ってしまった。幸い400号棟には行かなかった、誰もいないので彼はお金を奪うことが出来る。
節度のある部隊でホッとした。しかし・・・
 今朝、鼓楼病院に手紙を届けに行った魏さんが、今晩帰って来ないので、日本軍に連れて行かれたのではないかと心配だ。街では沢山の人が連れて行かれ生死不明だ。

(金陵女子文理学院には)今4〜5千人いる。
「街では刺し殺された人が多い」
「街では沢山の人が連れて行かれ生死不明だ」
『街』とは安全区以外の街を指すのでしょうか?
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