八重桜(松月)z001さん撮影、クリックすると拡大します。

1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
最新 追記

2007-12-01

[リンク] 日中戦争スタディーズ

精力的な、私から見ればもちろん若い人たちが始めたらしいブログhttp://blog.goo.ne.jp/1937-2007

[ラーベの日記][誤訳] 「ゆがめられたラーベの人物像」

梶村太一郎さんの論考を、本人のご許可を得て「問答有用」に投稿しました。ご意見は、あちらではなくこちらのページのツッコミ欄でもどうぞ。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][joke][誤訳] 十ニ月一日

1937年のラーベの日記では、
十ニ月一日

九時半に、クレーガー、シュペアリング両人を平倉巷で開かれる委員会へ行く。いろいろな役目をわりふって、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米三万袋と小麦粉1万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で(※)。難民用の給食所をつくる予定だ。
(※)英文では
  "We can sell the rice and flour,but we have to fix the price."
   独文では
  "Höchstpreise müssen von uns festgesetzt werden. "
  「できるだけ高値で」ではなく、「最高値を決めておく」、つまり、「売ることはできるが、最高値を決めねば成らないし。」
  "We will set up soup kitchins."
  「私たちは給食所を作るつもりだし。(だから米や小麦粉は運びたい)」

ドイツ語原本にもどってくださったApemanさんのつっこみありがとうございました。
最高価格を決めれば、それ以下に価格を抑えられるということか? しかし物価高騰の折それもむずかしい。ラーベとしては、売ったりせずに何としてでも貴重な食糧は安全区で使いたい、というのが本音だろう。
三つめの防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入り口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から二万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の十万ドルの第一回目だ。のこりはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめただけだった。

フィッチ、クレーガー、スマイス、YMCAの王(ワン)、リッグズ、私のメンバーで寧海路五号にある家を見に行く。明日から、ここを委員会の本部にするつもりだ。スマイスは、家のりっぱなことと豪華な調度品、それから一万七千五百ドルもの値打ちのある防空壕にいたく感動してつぶやいた。
「これからは、あなたのことをもっぱらジョン・H・D・ラーベ・ロックフェラーと呼ばせてもらいますよ」

十八時、会議。南京に残っていいる住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、われわれの責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうと言う意見だった。安全区に移るようすすめる文面は、ひじょうに慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
この慎重さ、国際委員会が慎重であるということは、南京の住民はもっと慎重なはずだ。家や家具、貯えの全てを捨てて、おいそれと安全区に移ってテント生活者になってたまるか、私ならそう思う。
  ローゼンがアメリカ人を通じて(※)知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。まちがいない。総統が私を見殺しになさるはずがない!
(※)英文では "news via the Americans"
  「アメリカ筋からのニュース」、ということか
ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗る(※)か決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュルベルク先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。だから、乗るのは、ヒルシェルベルグ先生の奥さんと娘さん(この二人はすでに乗船している)、ローゼン、ヒュルター、シェルフェンベルクの大使館員三人、それから店員二人、すなわちノイマンさんと名前を知らないロシアの女性。それからカフェ・キースリングの会計係だ。
(※)英文では、"to board the Hulk"
  Hulk
は斜体字だが、ドイツ語の意味は「はしけ」
  11月22日に出帆したクトゥー号の後を引き継ぐ揚子江上に待機した避難用船か
ヒルシュルベルグ先生が張を漢口に連れていった。かみさんはまだよくならない。発つ前に、私のインシュリンをわけてやった。医者が緊急に必要なので、先生は飛行機で帰るつもりだ。(ジーメンスのアシスタントである)韓とその友人、怡和通レンガ工場の孫を食料大臣に任命した。韓は顔をかがやかせて言った。「こんなに高い役職についたのは、はじめてですよ」
周りの中国人に沈黙を強いるきつ過ぎるジョークも多いが、これは心温まるわかり易いジョーク。ラーベおいちゃん、決まったね。

[you&me][tDiary][webpage] ウムラウト

Höchstpreize と書いて Höchstpreize
   おやおやウムラウト表現は、本文ではOKのようです。
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2007-12-02

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 十二月二日

 ようやく日本側からの意思表示が届いた。安全区設立に関してだ。
十二月二日
フランス人神父ジャキノ(※1)を通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。

電報 一九三七年十二月一日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より(※2)
十一月三十日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ
日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です
(※1)Pater Jacquinot
(※2)英文では "Telegram to Ambassy Nanking, 1 Deccember 1937"
つまり、
  日本側(上海)→ジャキノ神父(上海)→アメリカ大使館(南京)→安全区国際委員会ラーベ(南京)→アメリカ大使館(南京)→ジャキノ神父(上海)→日本側(上海)

という交渉仲介ルートだ。ジャキノ神父に近い日本人といえば、上海の安全区設立に協力した同盟通信の松本重治がいる。日本軍総司令官の松井石根も上海にいたのか? 誰が日本側の交渉相手で誰が決定を下したのか? ジャキノの電文にある、"日本政府=Japanese Authorities" とは誰(何)を指すのか? 軍か外務省か?
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・云々」は、ひじょうに満足のいくものだ。


アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。

南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。

日本当局と、再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーべ 代表


トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのは、ちょっとしたセンセーシヨンだった。ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。こっそり教えてくれたのだが、大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことにかならずしも賛成ではないらしい。あれは必要なかったと考えているのだ! 今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。
軍事・外交に関心のある人には必須のいわゆる『トラウトマン工作』である。
我々は、米と小麦粉が自由に処分できるのに、運ぶための車輌をみつけるのに大変苦労している。中には見張りがいないままに安全区の外に置かれたままのものもある。既にそうとうな量が軍当局によって持ち運び去られていると聞かされた。噂では、我々に与えられた三万袋のうち、わずか一万五千袋しか残されていないという。
ゆうさんの検討による。
(日本語版)「米と小麦粉を運ぼうにも車が手にはいらない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米をもって行かれたらしい。三万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという」
だが、disposalに対応する独単語をdistanceと読んだのか?
(英語版)"We're having great difficulty finding vehicles to transport the rice and flour placed at our disposal, some of which is stored outside the Safety Zone without anyone guarding it. We're told that large quantities have already been removed by military authorities. Allegedly only 15,000 sacks of rice are still left of the 30,000 given us."
口ーゼンが大使館の警察官から聞いて教えてくれたとおりだ。馬市長は警察が軍隊とともに町を去るよう命令が出たことに反対している。

午後八時に杭立武さんのお別れ晩餐会。今夜、故宮宝物を一万四千箱も漢口まで運ぶのだ。船に積みきれなかったので、千箱残さなければならなくなった。杭立武さんがいなくなるのはとても残念だ。ひじょうに有能な人で、大いに力になってくれた。
ラーベは、周囲の混乱状況に顔をしかめてはいるものの、日記では冷静な文章を書き連ねている。こんな人が、ちぐはぐな感情的行動を起こすはずはない。寺内貫太郎とは違う。
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2007-12-03

[ラーベの日記][国際委員会] 安全区の地図

中国語で書かれた安全区の地図
中国語で書かれた安全区の地図

問題となっている高射砲設置場所は、図の左下角。それのため境界が三角形に切られている。

[ラーベの日記][国際委員会] 十二月三日

十二月三日
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関の艀(はしけ)でこちらにきたのだが、そのまま漢ロヘとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが! ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。
ドイツ大便館南京分室 漢口発 三七年十二月二日 南京着 十二月三日
東京、十二月二日
日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
      ザウケン
東京の駐日ドイツ大使館から、漢口経由で届いた電報か?
ローゼンは、ほかの国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。口ーゼンさんは、蒋介石夫人に接触してはどうか、と勧めてくれた。

防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全区の三ヵ所に新たに塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。
五台山の一部に高射砲台を設置しようとしたらしい。この砲台が、日本軍の占領前には、完全に非武装化しなくてはならない安全区の境界問題として、日本軍の占領後には、「安全区に逃げ込んだ防衛軍兵士は武装蜂起していない」といういいがかりに利用されている。日本軍の占領後というよりも、2006年現在の議論で蒸し返されている。
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2007-12-04

[warなひと人][戦況と民衆] 南京の外では?

日本軍による南京包囲作戦が進行している中で、ラーベに伝わる南京の外のニュースはか細くなってきました。

皆さんは日中戦争スタディーズの情報で補ってください。そのエントリーから

・11月20日:大本営設置

・11月22日:中支那方面軍司令官松井石根、南京攻略を意見具申

・11月24日:第一回大本営御前会議

・11月28日: 参謀本部、南京攻撃を決定

・11月29日:第十軍法務部長、嘉興から湖州移動中に二百以上の死体をみる

・12月1日:中支那方面軍の戦闘序列発令/南京攻略の大命

・12月2日:朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍の司令官に

・12月2日:蒋介石、独大使トラウトマンと会談

・12月3日:第101師団、上海共同租界内を示威行軍

・12月3日:第16師団による丹陽城内掃蕩

・12月4日:日本、国際安全区に関して正式回答

その他背景史料豊富です。

[warなひと人][戦況と民衆] 無錫から丹陽へ

16師団の疾風怒濤の進軍ぶりは、東京日々新聞の「百人斬り競争報道」を読めば分かります。(あわせて作戦要図も参照のこと)。それによれば、
無錫:11月27日〜約40キロ〜
常州:11月29日〜約40キロ〜
丹陽:12月2日午後六時丹陽入城
80キロを徒歩で5日間で進撃です。

問題は、こうした快進撃のときから「南京アトロシティーズ(大残虐)」が始っていたことです。後続部隊兵士の手記です。
(第11師団山砲連隊上等兵玉井清美著『侵略の告発』では、)
中年の女性が泥田の中にころがり、下着がむかれ、陰部を泥靴で踏みっけた跡が残つている。この女もつい三・四時間前まで、生きていたのではと思われる。
と書いている。
むろん、これらの女性たちが強姦されたあげくに殺害されたという確証はなく、著者もそうは断定していないが、状況から判断すれぼ、強姦行為がなかったとは考えられないだろう。たとえぼ、次のような記述はどうだろうか。
本部移動の途中、放火狂のいたずらで、かなた、こなたの部落から火の手があがり、その焼跡には、不思議に母親が焼死し、その傍らには、必らずという程に、二-四歳児が泣きわめく。(同上)
著者はこれも強姦されたとは記してない。強姦を目撃したわけでも聞いたわけでもないからだ。だが「不思議に」と書いたあたり、著者の兵士としての勘が働いていることは確かである。著者でなくても、何件もの火災現場で「必らずという程」女性が焼死し、幼児は家の外で「泣きわめ」いていれば、ただの焼死でないことぐらいはだれの目にも推測がつげられる。
(中略)
強姦現場の目撃なら、場所は違うが著者の玉井氏は巡察将校に従って行動したときにそれを見ている。そのとき、著者は伍長に任官していたので週番下士官として随行したと推定されるが、場所は無錫の市内である。
下少尉に随行し市中の巡察に出た。街には、大勢の兵達が右往左往し相当荒らしている様子が察せられた。少尉は、時々民家へ踏込んで、今日の巡察の目的は、兵が女にいたずらをしていないかを取締るのが目的であると言う。と、ある民家の入口で何気なく立っている兵が、少尉に敬礼し乍ら、何か落着かざる様子が察せられた。少尉は、二・三米やり過し、玉井あいつ一寸、おかしくないかと言う。ハイ、一寸怪しい気がしますと言うと、少尉は急に立ち帰り、つかつかと、兵が立つ民家に入った。其処には、私達の予想通り、藁の上で、一組の男女がもつれ合い抜き差しならぬ行為が展開されていた。“コラッ何をしとるか”の少尉の大喝に、女の上に腹這っていた兵は、驚いて跳起き、奇妙な格好の不動の姿勢でピリピリ震え、少尉のピンタが、3つ4つとんだ。(同上)
(中略)
この書に収録されている著者(玉井氏)宛の手紙の一部分を参考資料として転記しておくことにする。手紙の差出人は、著者が匿名にしているのだが、著者と同じ師団に所属する歩兵第四三連隊(浅間部隊)に配属された元衛生兵である。
無錫では、橋の金属製の手すりに、中国人女性を全裸の上、両手両足をしぼりつけ、広げた陰部に敵の使用済みでない新らしい手榴弾を押入した死体が六・七体あった。
(「日本軍は強姦集団であった」高崎隆治,『南京大虐殺の研究』p206-209より)

手記から日付が転載されていないのが、史料としては残念です。しかし充分なリアリティーを感じます。この文献に対する批判文をご存知でしたら教えてください!

[ラーベの日記][国際委員会][空襲] 十二月四日

・今日もまた、安全区の非武装化問題で苦労する。

さすがの日記魔ラーベも、今夜は疲労困憊か。短い日記。と思ったが、短いのは編者ヴィッケルトによるもの。中文には、国際委員会での討論内容と、記者会見での国際委員会発表の要旨が載っている。⇒ http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/430.html
十二月四日

どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。

難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙(※1)は「外国人」による難民区などへいかないようにと、繰り返し書き立てている。この赤新聞(※2)は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。
英文では
・「ある地方紙は」⇒One small newspaper
・「赤新聞」⇒These extortionists

ちなみにGoo辞書
 あかしんぶん 3 【赤新聞】
暴露記事などを主とする低俗な新聞。〔「万朝報(よろずちようほう)」が淡紅色の用紙であったことから、という〕

http://www.ne.jp/asahi/nihongo/okajima/zatu/akasinbn.txtより
赤新聞 故意に他の秘密を訐き、或は無根の事実を捏造して読者の好奇心を煽り又は脅迫して金にせんとする低級悪徳の新聞をいふ。一時此種の新聞は多く赤色紙を用ゐたるより此名ある所以なり。(『現代新語辞典』大正13年 金子専一郎)
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2007-12-05

[ラーベの日記][空襲][国際委員会][戦況と民衆] 十二月五日

・ラーベおいちゃん恒例の瞬間湯沸し器
十二月五日

よく晴れた日曜日だというのに朝っぱらから腹が立ってしかたない。運転手が迎えにこなかったのだ。呼びにやる。雷を落とす。悪態をつく。詫びを入れる。もう一度雇う。思えば、これで二十五回目だ!
思えば、十月二十八日に解雇を告げた コックの曹保林も同じようなことだったのかもしれない(名前も蔡ではなく)。ラーベが使用人に「おまえなんかクビだ!」というのは日常茶飯事。それを使用人が黙って聞き流すのも日常茶飯事。こうして「クビ」を宣告されれもラーベの元から離れない。そして、病気になったコックの曹に対するラーベの気遣いはそりゃあ並大抵のものじゃあない。
というわけでやっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまってられない。こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。

・東京からの公式回答が来た。
アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否はしてはきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
(追記)これを受けて国際委員会はプレスリリースを配布した。英語版には巻末資料としてあるが、日本語版では省略されてしまった。そこで下記に新たなエントリーとします。
・安全区の非武装化問題
ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけねばならない。それにしてもやつの返事を聞いたときわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!

「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと? そんなばかなことがあるか! それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない・・・・。
・空襲
その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが庭にあるのに。ただそれを使う時間がないのだ。
・米と小麦粉の搬入問題
城門は壁土で塗りこめられる。三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。といっても扉の半分だけだが。

われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる張り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられていないのだ!
・安全区の非武装化問題
ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいるほうがずっと安全だと思っているからだという。そのとおりだと言い切る自信はない。しかし、今日、唐司令官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。

[ラーベの日記][国際委員会] 日本側の回答を受けて

安全区国際委員会のプレスリリース(編者による巻末資料:英語版 OCUMENT 9 )

Press Release, 5 December 1937

  1. This morning the Committee received a direct reply from the Japanese authorities in Shanghai through the courtesy of the American Naval Radio.
  2. This morning at 11:00 the Chairman of the Committee, Mr. John H. D. Rabe, the Inspector-General, Mr. Eduard Sperling and Dr. M. S. Bates called upon General Tang Sheng-chih concerning the question of moving military establishments out of the area proposed for the Safety Zone. In reply General Tang made the following three comments as explanatory of the letter he sent to the Committee on December 3rd.
    • (1) If the proposed Safety Zone is clearly marked, the military will see to it that no new military establishments come in.
    • (2) Furthermore, no military works including anti-aircraft guns will be continued in the area and all guns and armed men will be excluded.
    • (3) Supplementary and service establishments, which comprise neither armed men nor active military units, will, of course, move out when it becomes necessary.

At a meeting this afternoon, the Committee decided to go ahead on the basis of these comments. The Zone will be marked with flags at a time to be agreed upon with General Tang in order to familiarize the people and military men with the boundaries of Zone. But the Committee will not declare the Zone in final effect until formal notification has been given by the Committee to both sides. That notiflcation will not be given until all the conditions agreed upon have been fulfilled.

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2007-12-06

[ラーベの日記][国際委員会] 黄上校 軍は軍のために?

  十二月六日
ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってもローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい、ローゼンはそういっていた。
・ アメリカの軍艦=砲艦パナイ(パネー)号のことか。一週間後の後に日本海軍機が空襲して国際問題となる。パナイ号艦艇は「中立地」でもあったからダーディンら欧米人記者はここに仮宿しここから記事を送ることにしてたとのことだ。
(追記)上海への避難輸送船なら軍艦オアフかもしれない、というメールをある方からいただきました。確かにパナイ号は、上海への避難輸送船としてではなく、アメリカ大使館分室として揚子江に停留しているところを爆撃されたのでしたね。
・ トラウトマン大使の和平案とは、もともと日本側広田弘毅外相の発意で独大使トラウトマンに仲介を依頼したもの(「トラウトマン工作」)だから、「蒋介石が受け入れれば成立する」とローゼンが思ったとしても不思議ではない。しかし、日本側は包囲殲滅作戦に入っていたので、和平を邪魔として自ら始めた工作を反故にしたのだろう。
黄上校との話し合いを忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。

「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げ込もうとしている連中をわが兵士の役に立てることができたのですぞ!」

これほどまでに言語道断な台詞(せりふ)があるだろうか。二の句がつげない! しかもこいつは蒋介石委員長側近高官ときている! ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか? どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
・ 黄上校:上校は大佐か。
・ ラーベに言わせれば言語道断な黄上校のせりふだが、「日本に征服された土地はその土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。」は満州のことか。民国政府軍での抗日の合言葉だったのだろう。
・ ラーベは蒋介石を始めとした国民党を「金持ち階層」の党とみているようだ。ラーベが心酔し、幻想を抱いているヒトラーの党はそれに対して、「労働者の党」?。ラーベにはナチス党初期のイメージが強いのかもしれない。
それから軍人や軍の施設を引き揚げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それより一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚なんだ!
中国側南京防衛軍の戦闘序列、作戦計画、壊滅原因についての分析は、絶版になった本だが、『南京大虐殺の研究』晩聲社1992年「南京防衛戦と中国軍」笠原十九司が詳しい。
きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察のかわりまでやる覚悟がいる。軍隊と一緒に、十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れるおそれがある。こういうこともみなそのときになってからやれと言うのか?

なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!

防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は不可能だと言っている。もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。司令官にむかって。むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。面目を保ちたいのもわかる。だが、南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげたことであって、無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない! ・・・・・・だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!

黄は言った。名誉とは、最後の血の一滴まで戦うことにある! ほう! お手並み拝見といこうじゃないか! 発電所の管理人の白さんと主任技術者陸さんは、発電所を動かすために、命がけでがんばるとか言っていた。たしかに発電所は動いている。はて。誰が動かしているのかね。白さんと陸さん、この二人はとっくにいなくなったが。

「名誉とは、最後の血の一滴まで戦うことにある!」包囲殲滅戦を受ける側の参謀のことば。実はわが国軍隊もこの7年半後に同じような境遇となった。沖縄防衛の第32軍である。

「安全区」とか「難民区」とは、軍と民を分離して民衆の犠牲を最小限にしようという思想にもとづく。それに対して、沖縄32軍の思想は「軍民の共生共死」であった。その結果、
沖縄戦での日本軍の戦死者はおよそ9万4千人、アメリカ軍の戦死者がおよそ1万2千人ですが、一般の住民の犠牲者は9万4千人あまりといわれています。結局、沖縄出身兵戦死者もふくめて、沖縄県民の犠牲者は、およそ12万2千人になります。http://www.nahaken-okn.ed.jp/watashi/sougo/4okinawasen/4okinawasen.html
南京と沖縄との不思議な因縁は、日本軍の中にも黄上校と同じような軍人風をふかせて虚勢をはる参謀がいたということである。その一人が長勇中佐であった。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/172.html#id_27c273b9
http://ch05028.kitaguni.tv/e85330.html
1937年の南京攻略戦において捕虜虐殺命令をだした長勇参謀(中佐)は、1945年の沖縄戦では黄上校の立場に転じて、32軍参謀長(中将)として「軍民共生共死」の玉砕戦を指導した。

「本土決戦を1日でも長く引き伸ばす」という目的のためだけだった。5月下旬首里陥落のあと摩文仁へ向かった32軍は、もはや「作戦」行動を行ないえない敗残兵団でしかなかった。「軍」の実力は、米軍に対しては全く刃がたたず、味方の住民への刃となるのみだった。「沖縄方言を喋る住民はスパイ」という軍通牒を出し、壕の中の赤ん坊や幼児を黙らせるといった狼藉を働きながら、6月終わりまで「塹壕引き篭もり戦を継続した。「軍」のもとにいれば「安全」だと信じて、南部への移動に付き従った人びとほど哀れなものはない。

「投降すれば敵に八つ裂きにされる、強姦される」だから・・・と「集団自決」を奨めたのが、中国戦線を経験した予備役兵士であったというのも、南京と沖縄の因縁かもしれない。

部隊の足手まといにならないようにと、進んで「集団死」を選んだ住民もいた。教え込まれた「軍民共生共死」の忠実な実践であった。生き延びて部隊に協力しようとして逆に「スパイ」の嫌疑がかけられ「友軍」に処刑された人も少なくなかった。

(ある島において最期まで生き延びたのは、住民をそのような死に追いやった島の最高司令官たる部隊長であった。かれ自らは結局、部下の将兵や住民に最も戒めていた米軍の捕虜となった。そして生き続けることができた。にもかかわらず彼は今、自決命令を出したのは俺ではない、と裁判を起こしている。潔からず、醜態である。)

どこの国の軍隊も、切羽詰るとその狂気が結晶化する。国民の命を完全に無視するのである。
・南京防衛の中国軍
・沖縄防衛の日本32軍
・開拓団を置いてきぼりに真先に撤退した満州の関東軍
>こいつにとっちゃ数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。
軍は軍のためにのみあり! 
これは、万国公理のようです。
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2007-12-07

[warなひと人] 南京攻略包囲網

南京付近戦闘経過要図
D は師団、i は連隊
南京付近戦闘経過要図

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 蒋介石の別れの挨拶

十二月七日
昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
・Q1:城内の飛行場とラーベの家は近いのか?
あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。
・昨日、南京脱出のためアメリカ軍艦に欧米人の多くが乗った。
そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
・この描写は、関東大震災の体験談を思い出します。関東大震災では、被服廠跡の広場に逃げ込んだのに殆どの人が焼け死にました。大八車に積んだ家財道具に火がついたのです。
これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、せいいっぱい頑張って、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ軍がたえず徴発するので、車輌が足りなかったのである。
日本語版は、「約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。」だが、
(英文)"We've been able at best to get a quarter of the food promised us into the Zone, because we don't have enough vehicles, which are constantly being commandered by the military."
軍が徴発したのは、食糧ではなく車輌。
今日の午前中に、軍にトラックを二台取り上げられた。これまでに一台しか取り返していない。もう一台、塩が二トン積んであったほうはいまだに返ってこない。いまゆくえを探しているところだ。最高司令部から、たったいま、さらに二万ドル、私のところに払いこまれた。約束の十万ドルの代わりに、全部で四万ドル受け取ったことになる。これで満足しなければならないのだろう。献金の分割払いのことなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句もいえまい。
・ラーベの日記も読まずに有事立法を語る政治家に彼の爪の垢を煎じてあげたい!
明日、城門が閉められ、いままで残っていたアメリカ人も船に乗る。今日ジーメンスに電報を打った。満期になった生命保険料を保険会社からもらってくれるように頼んだのだ。
完全なる陸の孤島になるのだ!
Radio Shanghaiは・・・
「彼の和平案が、蒋介石に拒否されたといっている。」は誤報か聞き間違いだろう。拒否したのは日本側だ。⇒外務省東亜局長石射猪太郎日記
上海放送は、トラウトマン大使が、今日漢口に到着したと伝えていた。彼の和平案が、蒋介石に拒否されたといっている。ローゼンからの極秘情報によれば(すでに書いたが)、もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが。そのいっぽうで、目下最後の戦闘準備がすすめられている。最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい張っている。

城門の外では家が焼かれている。火を放たれた郊外の住民は安全区に逃げるやう命令されている。安全区は結局、何の表明もなく承認されたことになっていたのだ。たったいま、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされていたという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。
日本語版は「城門の近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。」だが、焼かれたのは城門の外。
英訳本では、"Houses outside the gates are being burned down.The popuration from the surburbs that have been set on fire is being ordered to flee to our Safty Zone, which has quietly been accorded recognition after all."
「おそらく何の表明もなく承認」とは、昨日12月6日の黄上校の暴言に対してのコメントだろう。あれほど軍は「安全区など認めない」といっていたのに・・・。
十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。

門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。凍え、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通れるかどうかはわからない。
中国軍は家を焼いた。だから日本軍は焼かなかった。ということにはならない。

中国軍は防衛作戦として家を焼いた。日中戦争スタディーズ「中国軍の清野作戦」 民衆の苦しみ悲しみは並大抵ではない。

日本軍も家を焼いた。・・・薪として。・・・掠奪、強姦の証拠を消す為に。・・・あるいは戦果を誇るためにか。それ、放火は作戦命令ではなかっただろう。だが、そうした非行を放置すること事態が『作戦以前の作戦』だったのかもしれない。
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2007-12-08

[warなひと人] 1941年今日のどぢ。

1941年12月8日(日本時間)真珠湾攻撃
これも日中戦争と同じく宣戦布告なき攻撃。
  • 午前3時19分、第一波空中攻撃隊総指揮官の淵田美津夫海軍中佐、「全軍突撃」(ト連送)を下命。
  • 午前3時23分、淵田美津夫中佐、「奇襲成功」(トラ連送)を旗艦赤城に打電。
wikipedia
宣戦布告は遅刻という、どぢ。

[warなひと人] 1941年今日、香港にも侵攻

中国情報局【今日は何の日?】1941年:日本軍が香港に侵攻
1941-1945 侵華日軍蹂躙香港始末

1941年12月8日早上8時30分,
12架日本爆撃机空襲香港

[warなひと人] 1941年上海では

11月下旬上海から米第4海兵隊の撤退

写真週報199号(1941年12月24日)十銭

[家族] 魚津の女性が・・・

米騒動ゆかりの地で、「赤紙」配って平和を訴える
http://www2.knb.ne.jp/news/20061208_9526.htm
赤新聞ではありません。

[戦況と民衆] ☆軍隊まんだら☆

「これは赤紙で臨時召集された丙種合格の痩せ男が朝鮮、中国に連れて行かれ悪戦苦闘する物語りです。」 赤紙1枚で行軍距離4,000キロ
(赤紙をクリックするとその方のサイトにいけます)
軍隊まんだら
http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawa/hyoshi.html


リンクを付けさせていただいたことをご報告申し上げたら。次のような御丁寧なメールをくださいました。
リンクをつけて下さってお礼を申し上げます。

あの赤紙も福島市内で婦人会の方々が配っていたものです。その後、配布元が分かったので了解を取り付けて有ります。

私も84歳になり、余生を戦争体験の語り継ぎに尽くしております。私の関係しているホームページ「朝風」も折があったらご覧になって下さい。

ご健闘を祈っております、再見。

[国際委員会][ラーベの日記] ラーベ故居修繕

偶然見つけたページです。
南京拉貝故居修繕工程完工(組写真)
ドイツ領事館の資金協力?
南京大学鼓楼校区南园宿舍区内ってどこだろう。

http://travel.163.com/06/0524/09/2HSLHCL600061Q75.html

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] にわか市長がんばれ!


今日の日記は、安全区とは何かが、約条的にではなく実物的によくわかる文章なのでそのまま掲示します。
※人名や事柄で既出のものを確認するには、左欄の「日記Namazu検索」をご利用ください。
十二月八日

昨日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。のこりの家族が四十マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けてくれていたので迎えにいく時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここにきているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。

二年ほど前、トラウトマン大使が北載河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしているのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪(ひょうたん)から駒が出た。といったからって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまでやらざるをえなくなったいま、私は事実上の「市長代理」のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ!

何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちがさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日がくれていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。

外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせただのポーズだ、面子を失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが私はそうは思わない。南京防衛軍をひきいる唐が、無分別にも兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないかと不安でしかたがない。

両替屋を開くことにした。小銭が足りなくなる。政府の役人に友人が二人いるので、助けてくれるだろう。

われわれはみなおたがいに絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく掲げた安全区の旗をまたもやぜんぶ持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡塁のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、なにもかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。こんな汚い手をつかわれるとは・・・・。予想もしていなかった。すでに十一月二十二日に、ここは国民政府から正式に認められているというのに。
  一九三七年十二月八日夕方、中国の新聞のある報告より

一週間前、すなわち一九三七年十二月一日、市長の馬氏は、南京安全区国際委員会に対して、安全区の管理責任を負うようにと要求した。

苦力(クーリー:低賃金労働者)とトラック運転手若干名を除き、委員およびその関係者は、任務を自発的にかつ無償で果たしている。
おやっさん臨時市長がんばれ!
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2007-12-09

[warなひと人][事実誤認] 降伏勧告ビラの怪1

12月9日この日、日本軍は、総攻撃まで24時間猶予付きの、松井石根中支那方面軍司令官名による「降伏勧告ビラ」を飛行機から撒いたという。

ラーベ日記を批判する人たちは、そのことが書いてないからラーベの日記は「信用ならん」という。しかし、ラーベは本当に知らなかったのかもしれない。ラーベの家の周りにもビラを降らしたのか大いに疑問だからである。南京安全区にいた他の人たちの日記の中に「降伏勧告文」の記述はあるかな?

「降伏勧告文書」だから当然、中国側防衛軍司令部(※)の上にビラを撒いただろう。でも安全区には撒いてない可能性はある。笠原『南京事件』には「日本軍機から城内八箇所に投下した」とある(p121)。
(※)城内東部の玄武湖を望む高台、百子亭(玄武門に近い)にあった司令官唐智生の公館

南京の城内の面積は、東京なら山手線の内側よりちょっと狭いぐらいの広さだそうだ。城内全市にビラをゆきわたらせるには、いったいどのくらいの数の飛行機が必要なのだろうか?

こういう飛行機(※)で、


新宿でビラを撒いても文京区の人は気がつかない。

(※)これは実は米砲艦パナイ号を襲った複葉飛行機で、海軍機ならこれかもしれない。
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln2/TW017.html
陸軍機だと・・・
九二式偵察機とか

→いただいた情報

[warなひと人][事実誤認] 降伏勧告ビラの怪2

南京事件、南京アトロシティーズを否定しようとする人たちは、松井大将の降伏勧告文を中国側が拒否したから、全ての結果の責任は中国側にある、といっている。その割には、どのようにして確実にそれを中国側に手交したのか、詳しく書かれたものを見てはいない。また、それほど重要な文書なのに、降伏勧告文の全文を正確に掲載しているWEBサイトを見たことがない。

私の捜し方が悪いのだろうか? 正確な文書があるとすれば、東京裁判の弁護側証拠だが?

ありました。 「証言による「南京戦史」」(偕行社)第3章 のおしまいに。

[ラーベの日記][国際委員会][空襲] ラーベの停戦案?

国と国、軍と軍が、停戦する自己能力がないのなら、市民の発想で!
十二月九日

いまだに米を運ぶ作業で忙しい。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。
(英訳版):"We are still busy transporting rice from outside the city."
さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。

午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。作戦上火をつけたのだ。町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。照準が狂っていたのか、幸か不幸か、それらは命中しなかった。とにかく日本は同盟国なのだから。 今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったとヒトラー総統に電報を打つといってやった。大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。
これは訳者による妄想加筆なので削除しました。⇒参照
そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。ところが、なんと唐は承知したのだ。そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。
〔編者註〕
そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれてアメリカの砲艦パナイに赴いた。彼らは二通の電報を打った。一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。
アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベは次のように記している。
「国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの日本軍当局による確約を望んでいる。もしこれが得られれば、委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する」
---これらの電報には署名がある「代表 ジョン・ラーベ」
燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終る直前、夜の七時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区じゅうに響いている。(※)明かりが消され、暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。兵器と爆弾を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と兵器を差し出した。
(※)英文では
We hear that in the meantime the Japanese have advanced to the gates of Nanking, or just outside them. You can hear thundering cannon and machine-gun fire at the Sourh Gate and across from Goan Hoa Men.
the Sourh Gate:南大門=中華門
Goan Hoa Men:光華門
「光華門のそばからも」が日本誤訳から消えている。

こうした都市殲滅戦回避の努力を読むと、最近の事例として2004年に発生した2次に亘るイラク・ファルージャの戦闘を思い出す。
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2007-12-10

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][誤訳] 投降勧告しながらの総攻撃

きのうのつづき

松井石根司令官は、12月9日正午を期して、24時間の猶予の元に、中国側防衛軍に投降勧告したというが、ラーベの日記を読めば、『24時間の猶予』どころか、総攻撃がすでに開始されている!!

日本軍各部隊の戦闘詳報や陣中日誌などで検証する必要がある。「和平開城」意思が本当にあったのか? 「撃ち方止め!」のない降伏勧告なんて、映画などではお目にかからないんだけど。
(追記)この件については既に精査している人がいました。
ゆうさん「小さな資料集」「ラーベ日記、12月9日の射撃音」
(追記)松井石根の「降伏勧告」は日本軍の下僚からは鼻であしらわれたようです。上海派遣軍司令官の不満
・・・・南京入場(攻略)法に就て方面軍にては勧降状とか統制入場とか平時的気分濃厚なる為軍司令軍殿下〔朝香宮鳩彦中将〕の御気に入らず。・・・・・(12月9日の飯沼守〔上海派遣軍参謀長〕の日記)
好戦的な皇室殿下。タテマエかお題目に過ぎない「和平開城」。

 ラーベの日記は、
十二月十日

不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。

金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。「患者のけがの大半は狂言なのですよ。病院に入っているほうが安全ですからね」。重傷者を安全区に連れてきたいという。本来ならこれは協定違反だ。だが、日本軍はなにもいわないのではないかという希望的観測のもとに、金先生に鼓楼病院のトリマー氏を訪ねるように言った。彼は委員会の医学班のリーダーだ。先生は、中国人の医者をあと八十人ほど集められます、と請け負った。この人たちのことは全然しらなかった。

医者の数は多ければ多いほどいいのだから、もしそれが本当で、ここに来てもらえるならこんなにありがたいことはない。ここ二日間で、千人もけが人が出ているのだから。

マギー牧師は、ここに赤十字の欧州部を作ろうとしている。資金はあるのだが(黄上校から二万三千ドルうけとった)、いっこう進展しない。赤十字からの返事がないのだ。同意がないと、話を進めにくいらしい!残念だ!私ならさっさとやってしまうんだが。良いことをするのだから、ためらうことはないのに。同意なんか、あとからもらえばいいのだから。

それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるのだろう。一同、固唾をのんで待っている。なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。

安全区の道路は、非難する人たちでごったがえしている。道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。それから----軍人もだ。龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。
  1. 唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。
  2. 龍上校は五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちにあらされないよう責任を持つ。
  3. 軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、見つけ次第兵士を追い出す。
  4. また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、実行させる権限をもつ。 (※1) 
(※1)英文では取り決めは4項目ではなく3項目です。"aforementioned"=「前項の」があるので、4項目に補正したのでしょう。
  1. General Tang unconditionally recognizes the southwest border of our Zone.
  2. Lung will see to it that construction of a soup kitchen on Wutaishan Hill will no longer be disrupted by soldiers,
  3. Three delegates from military headquarters will join three members of our committee for an inspection of the refugee Zone. Any soldier they meet will be ejected from the Zone. Each of the aforementioned three representatives of General Tang must have the authority to give this order and see to it that it is executed.
講談社版の『報道規制』は誤訳
下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。それを聞いた龍はやめさせると約束した。私は軍事パスを受け取り、下関に通じる門を通れるようにしてもらった。 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。

このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!

ここにまだ滞在している欧州人戦争記者たちが、真実を隠さず報道できないとは、全く恥ずべきことだ! あの連中が安全区から軍隊を立ち退かせるという約束をいつも果さないということは、顕わにしなくてはならない。(私がなにもかもぶちまけてやる!)
  講談社日本語版では
「欧州の記者たちが報道規制されているのが、残念無念だ! 中国軍のやつら、あいつらの首をしめあげてやりたい。軍隊を立ち退かせるという約束はいったいどうなったんだ? いまだに果たされてないじゃないか! 」
英語版では、
"It's crying shame that the European war reporters who are still here can't tell the whole truth. Certain people should be exposed for not always keeping their promise to rid the Zone of the military." 『報道規制』は無関係。『欧米人記者に喋ってやるぞ!』という意味。
ああ、なんということだろう! たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。だが、それとは別に極秘電報がきた。そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。それによると、三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだとのこと。しかも蒋介石は「そのような申し出には応じられない」といったという。しかし、われわれはぜったいに思い違いなどしていない。いまここでそれをもう一度確認した。龍と林は電報を打つときに居合わせたが、二人とも、たしかに唐将軍は同意したと口をそろえている。そう簡単にひきさがらないぞ! われわれは蒋介石にもう一度電報を打った。同時に私はドイツ大使トラウトマンにも電報を打って、支援を頼んだ。

正午

朝からひっきりなしの攻撃だ。窓ガラスがガタガタいいっぱなしだ。紫金山では家が燃えている。城壁の外の町も燃え続けている。安全区にいる人たちは安心しているのか、あまり爆撃機を気にしていない。

日本のラジオが、南京は二十四時間以内に陥落するだろうと伝えている。中国軍はすでにいいかげん士気を阻喪している。南京一のホテル、首都飯店も軍隊に占領されてしまった。兵士はバーでよっぱらい、クラブの安楽椅子でくつろいでいる。ま、兵隊だってたまには楽しみたいのだ。

今夜のうちに南京が陥落してもすこしも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。

深夜二時半(※)

服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまざしい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤あかと照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、ふたたび床についた、というより、うとうとした。こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。
(※2)英訳本の見出しは、「10:30 P.M.」
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2007-12-11

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 総攻撃2

十二月十一日

八時

水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ペーター」のお気に召したらしい。さっきから声を限りに合奏している。からす(ラーベ)よりカナリアのほうが神経が太いようだ!
・カナリアの「ペーター」=Peter
・Rabeはドイツ語で「大鴉」
  爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区(セーフティ・ゾーン)」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。

九時

ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後だ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。されにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者十三人。(※1)軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。鼓楼病院の前に-----ということは安全区側だ-----砦が築かれることになった。だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。山西路広場(バイエルン広場)を通りかかったとき、広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。目の前で次々とガラスや扉が壊されている。なぜそんなことをするのだろう? だれに聞いても、わからない、という!  
日本軍が安全区は認めないけど攻撃は避けていた、とすればこれは逸れ弾か? それに紫金山方向から五台山を狙うと、ラーベの家は弾道の真下になる。
けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。

十八時

記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイ号で発ったのだ。

スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、「こそ泥」を捕まえ、その処分について聞いてきたという。この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることになろうとは・・・・・。私もそこまでは考えていなかった。われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。

午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃を受けるだろう。それなのに韓はまだ家をでていこうとはしない。
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2007-12-12

[名簿][warなひと人][戦況と民衆] 南京に残っていた外国人

この日、南京に残っていた外国人は、次の3つに分けられる
  1. 首都陥落を見届けようと南京に残っていた新聞記者5名
  2. 安全区や赤十字の仕事の為に残っていた22名
  3. 下関沖で停泊中の米砲艦パナイ号を避難宿舎としていた、米大使館関係者と各国報道カメラマン17名(その他将校乗務員59名)
パナイ号(拡大)
これらを次の書で確認してみる。
十二月六日から、米大使館員と新聞記者たちは、貴重な所持品をトランクに詰めてパナイ号に運び込み、夜はパナイ号に泊まり、昼は南京に上陸して仕事をするという生活になった。

 これ以上南京に停泊することが危険になったパナイ号は、十二月十一日夕方、下関港付近を離れ、長江上流へ移動を開始した。

 米大使館二等書記官アチソン(GeorgeAtchesonJr.)の懸命な説得にもかかわらず、パナイ号への避難を断って南京にとどまった外国人は二七名で、つぎのようなふたつのグループに分けられる。一つは、新聞記者.カメラマンのグループ五名である。かれらは首都陥落の歴史的瞬間を取材しようと、日本軍の爆弾と砲弾にさらされるのを覚悟して踏みとどまったのである。あと一つのグループは、南京安全区国際委員会や戦傷者救済委員会の二二名。かれらは、自己の生命が脅かされるのも顧みず、多数の難民を救済・保護するために残った人たちである。
(『アジアの中の日本軍』 「南京大虐殺の全貌はなぜ報道されなかったか」笠原十九司 p45)
新聞記者.カメラマンのグループ5名
氏名 所属団体 備 考
ダーディン F. Tillman Durdin ニューヨーク・タイムズ   
スティール Archiba1d T. Stee1e シカゴ・デイリー・ニューズ   
スミス L,C. Smith ロイター通信社   
<マクダニエル C. Yabe McDanie1 AP(共同通信社)   
メンケン Arthur Menken パラマウント映画ニュース   
南京安全区国際委員会や戦傷者救済委員会の22名
氏名 委員 国籍 所属
1.ジョン・H・D・ラーべ
  John H. D. Rabe
安全区
赤十字
ドイツ ジーメンス洋行
2.エドワルト・スペルリング
  Eduard Sperling
安金区 ドイツ 上海保険公司
3.クリスチャン・クレーガー
  Christian Kroeger
赤十字 ドイツ 礼和洋行
4.R・ヘンペル
  R.Hempel
  ドイツ 北ホテル
5.A・ツァウティヒ
  A. Zautig
  ドイツ キースリング洋行
6.R・R・ハッツ
  R. R. Hatz
  オーストリア 安全区機械工
7.コラ・ポドシポロフ
  Cola Podshivoloff
赤十字 ロシア(自系) サンドグレン電気店
8.A・ジアル
  A. Zia1
  ロシア(自系) 安全区機械工
9,C・S・トリマー
  C. S. Trimmer
安全区
赤十字
アメリカ 金陵大学付属鼓楼病院医師
10.ロバート・O・ウィルソン
  Robert O. Wilson
赤十字 アメリカ 金陵大学付属鼓楼病院医師
11.ジェームズ・H・マッカラム
  James H. MaCallum
赤十字 アメリカ 連合キリスト教伝道団
12.グレイス・バウアー
  Grace Bauer
  アメリカ 金陵大学付属鼓楼病院看護婦
13.アイヴァ・ハインズ
  Iva Hynds
  アメリカ 金陵大学付属鼓楼病院看護婦
14.マイナー・S・ベイツ
  Meiner S. Bates
安全区 アメリカ 金陵大学
15.チャールズ・H・リッグズ
  Charles H. Riggs
安全区 アメリカ 金陵大学
16.ルイス・S・C・スマイス
  Lewis S. C. Smythe
安全区
赤十字
アメリカ 金陵大学
17.ミニ・ヴォートリン
  Minnie Vautrin
赤十字 アメリカ 金陵女子文理学院
18.W・P・ミルズ
  W.P.Mi11s
安全区
赤十字
アメリカ 合衆国長老派教会伝道団
19.ヒューバート・L・ソーン
  Hubert L. Sone
  アメリカ 金陵神学院
20.ジョージ・A・フィッチ
  George A. Fitch
  アメリカ YMCA
21.ジョン・G・マギー
  John G. Magee
安全区
赤十字
アメリカ アメリカ聖公会伝道団
22.アーネスト・H・フォスター
  Ernest H. Forster
  アメリカ アメリカ聖公会伝道団
(ポウル・デウィット・トワイネン)
  (Paul Dewitt Twinem)
赤十字 (中国) 金陵女子文理学院
 一九三七年十二月十一日午後五時、南京からの最後の避難者を乗せたパナイ号は、イギリス砲艦「スカラブ」「クリケット」の二隻とともに、三?(サンズイに叉)河付近の停泊地を離れ、上流へ向かった。パナイ号の至近に何発も砲弾が落とされるのを見た艦長は、南京付近の船舶に対して、日本軍が無差別の攻撃を開始したことに気付いた。パナイ号にはスタンダード石油会社の三隻のタンカーが従った。その日は南京の上流一八・ニキロメートル地点に錨を下ろした。

 パナイ号は一九二七年に上海の江南ドックで建造されたアメリカの砲艦(gunboat)で、長江の警備を担当していた。砲艦といっても写真(次頁)に明らかなように、日本の警備艇に類似している。『N・T』37・12・14によれば、パナイ号の乗船者は七六名で、将校・乗組員五九名、駐南京の米大使館員四名、米民間人七名、英ジャーナリスト一名、イタリア人三名、その他二名となっている。民間人のほとんどが、南京を取材していた新聞記者.カメラマンである。かれらはアチソンの説得に応じてパナイ号に難を避けたのであったが、悲劇は逆にかれらを襲ったのである。かれらの名前は表2のとおりである。

 十二月十二日、すなわち日本軍が南京城内を占領する前日、南京の上流約四五キロに停泊していたパナイ号は、日本海軍機に撃沈された。これが日米開戦かと世界を驚かせたパナイ号事件である。
(同上書p50-51)
パナイ号事件・レディバード号事件発生
ノーマン・スーン「パナイ号攻撃を綴る」
THE SINKING OF USS PANAY AND ATTACK ON HMS LADYBIRD AND BEE
パナイ号乗船者(乗務員将兵を除く)17名
氏名 所属 備考
ジョージ・アチソン・ジュニァ
    George Atcheson Jr.
南京アメリカ大使館二等書記官   
ホール・パクストン
   J. Ha11 Paxton
米  南京アメリカ大使館付陸軍武官補佐官   
エミール・ギャッシー
   Emile Gassie
米  南京アメリカ大使館書記官   
フランク・ロバーツ
   Frank N. Roberts
米  南京アメリカ大使館付陸軍武官 陸軍大尉   
ウェルダム・ジェームズ We1dom James 米  UP通信社記者   
ジェームズ・マーシャル
  James Marshan
米  『コリアーズ』誌記者   
ノーマン・アレー
   Norman A1ley
米  ユニバーサル映画ニュース・カメラマン   
ノーマン・スーン
   Norman T. F. Soong
米  ニューヨーク・タイムズ・カメラマン   
エリック・メイエル
  Eric Mayei1
米  フォックス映画ニュース・カメラマン   
ゴルデイー
   D. S. Go1die
米  スタンダード石油会社社員   
ロイ・スクワイヤーズ
   Roy Squires
米  中国木材輸出入会社南京支社支配人   
コーリン・マクドナルド
   Colin M. McDona1d
英  ロンドン・タイムズ記者   
ハーバート・ロス
   Herbert Ros(伊人)
伊  南京イタリア大使館副領事   
ルイジ・バルジー二
   Luigi Barzini(伊人)
伊  『コリア・デラ・セラ』誌記者   
サンドロ・サンドリ(伊人)
   Sandro Sandri
伊  ファシスト党員
『スタンパ』紙記者
腹部に機関銃弾二発受け死亡
パナイ号空爆は、南京を情報の孤島、陸の孤島と化す事に成功した。
 パナイ号が南京駐在の外国人記者の避難所であったことは、すでに述べた。アメリカの警備艇が攻撃されるとは夢想だにしなかったかれらは、重要な所持品を同艦に保管していた。

 ダーディンは、日本軍が南京に来る三力月前から市に滞在し、取材活動を行っていた。かれにとっては命よりもたいせつであったこれら包囲戦の取材ノートや資料・写真等を詰めたトランクが、パナイ号とともに濁水に沈められてしまったのである。そのパナイ号はダーディンがニュースを上海へ送信する基地でもあったのだ。

 ユニバーサル映画のカメラマン、ノーマン・アレーも、命がけで爆撃を撮影していたそのカメラとフィルムを持ち出すのが精一杯で、他の所持晶はすべて失った。スーンやアレーだけでなく他の記者・カメラマンも同様であったのは、スーンの体験記のパナイ号放棄と脱出場面を思い起こせば容易に想像できよう。
(同上書p73)

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 南京防衛軍の崩壊

ラーベの停戦案を無視して3日たち、今頃になって・・・、でも無駄な犠牲を防ぐためには!
十二月十二日
日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の八時に、再び砲撃が始まった。

十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。

休戦協定の内容は――この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。

軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。

シュぺアリングが、軍使をつとめようと申し出た。龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅういまかいまかと待っていた。夕方六時近くになってようやく龍(※1)が姿を見せた。龍は言った「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」

だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかつている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ! 
最終戦は近い!
  十八時半
紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南から安全区の通りに逃げてきた中国人市民が寝場所を求めて急いでいるのが見える。(※2)。その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。

この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきたことがわかった。しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、いつしかのんびりとした行進にかわっていた。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。

韓といっしょに家に帰った。砲撃や爆撃に備えた緊急対処整える。必需品の洗面用具が入った小型かばんと、インシュリンや包帯セットなどをつめた大事な薬箱を新しいほうの防空壕に運ばせよう。古いのよりはいくぶん安全だろう。家屋敷を見捨てざるをえない場合に備え、毛皮のコートの中にも非常用の薬と注射器を詰めこむ。

ちょっとの間、私はしみじみした気持ちになった。なにかほかにまだ持っていけるものは? もう一度、部屋の中を歩き回って、見慣れた品々を見つめた。まるでこのがらくたにもきちんと別れを告げなければならない、とでもいうように。幼い孫の写真が数枚あった。これも持っていこう! さあ、これで準備は終わった。こんなときに笑うなどどうかと思うが、つい笑ってしまう。ハハ、やけくそだ!

夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。
撤退命令が出ていたというが・・・
  二十時
南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになつている。ふたつある門の両方でノツクの音がする。なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。

これ以上聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。防空壕はすでにいつぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持つてきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが、一番安全だと思っているのだ。

榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降つてくる。南の方角は一面は火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のへルメツトをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやつた。二人とも防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことをきくようになった。

十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。
「なんだ、クリシャンじゃないか!いったいどうしたんだ」
「いや、ちょっと様子を見にきただけですよ」

クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、そのほかありとあらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。

「中で、まだ十分使えるバスを二十メキシコドルで買わないかと言ってきた男がいたんですよ。どうしよう、買いますかね?」
「うーん。どうかなあ」
「ま、とにかくその男に、明日また本部にくるように言っておきましたよ」

※中国には銀貨があった。もともと両(テール)だったが、のちにメキシコで鋳造された。それがこのメキシコドル。

真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。

ふしぶしが痛い。四十八時問というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には三十人、石炭庫に三人、使用人用の便所に女の人と子どもが八人、残りの百人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!

夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。

それから、龍はいった。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。ぜひ力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた三万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。
いまだに何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状態といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。
中国側防衛軍の撤退作戦は、土壇場の停戦工作を含めて、あまりにも戦況を見失った泥縄であった。軍民の被害を大きくした原因であることは否定できない。

(※1)「羅」となっているが誤植であろう。英文では、"Finally, at around 6 o'clock, Lung appears and declares that unfortunately our efforts have been in vain."
(※2)訳本では「南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える」
だが、英文では、 "To the south, you can see Chinese civilians fleering through the street of our Zone, trying to reach their lodgings."
ドイツ語原文は "Man sieht, von Süden kommend, chinesiche Zivilisten auf der Flucht durch die Straßen unserer Zone ihren Behausungen zueilen."(Apemanさん御教授)
「南から安全区の通りに逃げてきた中国市民が寝場所を求めて急ぐのがみえる。」

翻訳についてのコメント 
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2007-12-13 (占領初日)

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 日本軍ついに入城

日本語ラーベの日記の12月13日分は、14日の分と一緒になってリリースされてしまったと思います。ここでは中国語版に準拠して、内容を分割して掲載します。
    【追記】
    ・中文とその他語版との異同について表にしました。
      「12月13日と14日分、各語版のContents比較」
       http://latemhk.tdiary.net/19371214.html#p01
    ・なぜ語版同士に異同があるかを考察してみました。
      「語版関係図」
       http://latemhk.tdiary.net/19371213.html#p01
    よろしくご批判ください。

・国際赤十字支部を設立しその資格で野戦病院をまわる
十二月十三日
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。

本部に着くとすぐ、我々はたった十分で国際赤十字の支部を設立し、私も執行委員名簿に加わった。赤十字をつくらねばと何週間も思案していたマギー君が会長になった。

委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。
国際赤十字の支部を立ち上げたのは、管理者である防衛軍が消滅して放置された野戦病院に対処するためだろう。最初の対処が「視察」であった。中山路(北路)を鉄道部、軍政部、外交部と北から車で廻ったのか?⇒市街地図参照

(※)訳本では、「ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ」だが、「担当」はヘン。英文では、"Our good John Magee, who has been mulling over the same idea for weeks now, is chairman."

ミニ―・ヴォートリンの日記では、赤十字支部設立に関してはより明確な記述がある。
 軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][誤訳] 街路のありさま日本軍と遭遇

(12月13日つづき)
外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。

我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を礫いてしまったが最後、ふっとんでしまう。 上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転がっていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。(※1) 日本軍の伝令(分遣)隊には、ドイツ語を話す軍医がいて、日本軍司令官は二日間はまだやって来ないだろうと告げた。(※2)
(※1)訳本は「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。」だが、渡辺氏の訂正訳によった。
(※2)(英文)"One Japanese detachiment, with a German-speaking doctor, tells us that the Japamese general is not expected for two days yet."

中山北路を南下して外交部を過ぎて、上海路を右に安全区側にまがった。そこで下記にあるように日本軍部隊に出あったらしい。だとすれば、安全区にすでに侵入していたということになる。

ラーベに同行したスマイスの記録に依れば、日本軍部隊とであったのはもっと先でのことだったらしい。ラーベの日記よりも詳細である。
 我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!

  しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。
北へ向かう大勢の部隊を見たのは新街口近くであったらしい。

ラーベたちは、南京城内が日本軍の支配下に移るに際して、日本軍の司令部と早急に接触をもつ必要に迫られていた。だから、初めて出あった日本軍将校に「司令官」のことを尋ねた。

なお、ラーベ達が日本軍部隊に出会った時刻はこの文面からは不明である。しかし、朝から情報収集をし昨夜ほどの砲声銃声がないのを確認してから、おそるおそる出立したはずだ。赤十字を立ち上げ、野戦病院を見回っているところからすると、すでに午後おそくになっていても不思議ではない。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 敗残兵の武装解除

日本軍は北へ向かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の中国兵を武装解除して助けることができた(※2)。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。

私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][誤訳] 安全区の新たな危険

どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ !ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊減とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。

我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。
ラーベ達は、中国兵を武装解除さえすれば、捕虜として寛大な扱いがされると信じていた。国際法の常識でそう考えたのであるが。

(※2)訳本は「日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。」だが、渡辺氏訂正に依って訳文は既に差し替えた。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆] 安全区内での武装解除

本部に入ると入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍にひき渡さなければならない。
日本語版の12月13日の日記はまだ続く。しかし14日の日記の項目はない。英語版とドイツ語版原著も同様に14日分は欠項である。この14日分の欠項を、13日の分と14日の分が一緒になって13日となってしまったのだと、私は解釈した。

中国語版には12月14日の項がある。私はそれに準拠して考えた。それによれば、12月13日分の記事はここまでである。詳しくは明日の項で改めて述べるつもりだ。

[ラーベの日記][国際委員会] 安全区外国人の行動

(2006/12/21追記)
なお、この日、12月13日の安全区外国人の市街巡察行動については、ラーベの行動だけでなく、他の外国人の行動と関連して検討する必要があるようです。手分けして城内の状況を把握しようとしたようです。4年前ですが、ゆうさんと渡辺さんのディスカッション があります。そして、それを反映した、ゆうさんのページもあります。

ただし、ラーベの「ヒトラーへの上申書」は、12月13日の行動と14日の行動が、城内内部の状況として、混ざって書かれているような気がするのです。

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][所行無情] 避難民諸兄への重要注意

ところで中国語版によれば、難民の群れが日本軍によって襲撃されないよう注意書を出したという記事が、13日の項の末尾にある。英語版に、その文面が巻末「ドキュメント」として載っているので以下に掲載する。英語版では文書の日付は14日である。
DOCUMENT 10
14 December i937: Important Notice to the Refugees in the Safety Zone 安全区の避難民諸兄への重要注意
  1. From now on people should stay off the streets as much as possible. 今からは、できるかぎり街路上に留まらないようにしてください。
  2. At the most dangerous moment, everyone should get in houses or out of sight. もっとも危険と感じたときは家屋の中に入るか身をひそめてください。
  3. The Safery Zone is for Refugees. Sorry, the Safety Zone has no power to give protection to soldiers. 安全区は避難民諸兄のためにある。しかし許されよ、安全区は兵士からのあなた方を守る手段を何一つ持ちません。
  4. If there is any searching or inspection, give full freedom for such search.No opposition at all. 捜索や訊問をうけるような時は、相手のいうがままにして決して抵抗してはなりません。
いかに「国際安全区」と言えども、軍事占領下の武力支配に抗することなどできない!!

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 12月13日ヴォートリンの日記

金陵女子文理学院教授ミニ―・ヴォートリンのこの日の日記を、ゆうさんhttp://www.geocities.jp/yu77799/が書き起こしたものから転載させていただきます。
  一二月一三日月曜日
( 日本軍が午前四時に光華門から進入したそうだ。 )

 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。南の方角だ、と人びとは言っているが、わたしには西の方角からのように聞こえた。城内でもさかんに銃撃がおこなわれた。実際、わたしはぐっすりと眠りにつくこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、だれもが服を着たままだった。

 五時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。けさキャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。

 近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、わたしたちとしては、キャンパスの中でなくても安全区内にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らにわからせようと努力してきた。

 粥場、つまり炊き出し所でけさ初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。一〇時三〇分には粥はすっかりなくなっていた。午後、二回目の給食がある予定だ。

 一一時ごろにサール・ベイツがやってきて、交通部の建物が中国軍の命令できのう破壊されたこと、次に破壊される建物は鉄道部であることを知らせてくれた。それを聞いて胸が痛む。そんなことをしても何の益はなく、それは間違ったことであり、日本軍を困らせるよりも中国軍に与える損害のほうが大きいと思うからだ。

 軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。

 午後四時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人がわたしを呼びにきて、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鷲鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。

 あれだけの爆撃や砲撃のあとにしては、城内は奇妙なほどに静かだ。中国兵の掠奪、戦闘機による爆撃、大砲による砲撃という三つの危険は去ったものの、四番目の危険がいまなお目の前に立ちはだかっている。わたしたちの運命は勝利軍の手中にあるのだ。今夜はみなとても不安で、どんなことになるのか予想がつかない。

 プラマー・ミルズの今夜の報告によると、これまでに接触した日本兵たちは感じがよかったそうだ。しかし、接触した日本兵は、いかにも少数だ。

 午後七時三〇分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。

 後に、このことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致している。

 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。わたしたちは、透過不可能な地帯に隔てられてまったく孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つことにしよう。

 金陵女子文理学院にかんしては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。わたしたちはほとんどいつも、全身に染み込んだ疲労に耐えきれずに、太くて低い坤き声を発している。 ( 今夜は武装を解いた兵士が安全区に大勢いる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない)

(『南京事件の日々』より)
・日本軍部隊が、安全区の難民用の食糧を真先に差し押さえにやって来た。「人間が大勢集まるところに食糧あり」。すでに情報を手に入れていたのだろうか。

アメリカ砲艦パナイ号は、陸の孤島南京から外部への唯一の連絡の糸として頼られていた。だが、すでにそれが日本海軍機によって撃沈されていたことをヴォートリンは知らない。

[程瑞芳日記][戦況と民衆][所行無情] 程瑞芳日記12月13日

金陵女子文理学院でヴォートリンと共に教授として働いていた、程瑞芳女史の日記を、熊猫さんは翻訳しmixi日記に掲載しています。
http://mixi.jp/list_diary.pl?id=6258915
 昨夜、我が軍は撤退し朝から砲声すら聞こえない。日本兵は午後2時に水西門より城内に入った。

 私達の黄警官は南山で日本兵が広州路にいるのを見て、彼は警官の制服を脱いで走り、400号棟の側まで転がり降りてくる際に、慌てて足をつまずいて転んでしまったので顔が真っ白になった、本当に臆病な人だ。私達は直ぐに南山に行って見た、その時は十数人の兵隊が邵さんの家の側に立っていて、使用人は皆おろおろした。

 直ぐに日本兵が鶏小屋のまでやってきて鶏を要求したので使用人はヴォートリンさんを探して来た。ヴォートリンさんは彼らに食べることができないと言うと、彼らは行ってしまった、ガチョウの鳴声が聞こえたので彼等は来たのだ。

 今晩は多くの人が校内に飛び込んで来る、彼らの家は日本兵が寝るために入り込んで来たので家を出たのだ。掛け布団は日本兵が使われたので、これら人々は皆手ぶらで入って来た。皆が安全区内にいたのは日本兵が安全区内に入って来ないと思っていたからであり、非常に驚いた。

 私は悲しみが込み上げてきた、南京城が平静を失ってまもなく4ヶ月になるであろう、しかも南京城はたったの3日間で壊された、本当に悲惨だ、明日またどんな事が起こるか分からない!今日また2人の子供が苦しみに耐えて生まれた、これらの月は母子も苦しく、この地で寝ている。

【黄警官】金陵女子文理学院を管轄していた警官。広州路にいたのは歩兵第47連隊の兵士と思われる。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間にある小高い丘のことではないかと思われる。しかし1921年の南京の地図を見るとその場所は「小倉山」となっている。 南山にはもうひとつ、「南山公寓」を略して記述している可能性があるが、別の日の日記に「西山」という記述があるので、南山公寓と特定するのは避けた。
【使用人】原文は工人[gong1ren2](労働者)、学内の肉体労働の雑務をする人。 ヴォートリンの日記と同じ表現をしたほうが混乱がないと思って訳しましたが、ヴォートリンと程瑞芳では学院内での立場が違っていたので、工人と記述していたのかもしれない。
【ヴォートリンさん】原文は「華小姐」。「ヴォートリンさん」と訳した。
【ガチョウ】中国語の「鶏」という字と類似しているので誤記ではないかと思われる。確認が出来ないので「ガチョウ」と訳した。

コメント 2006年11月05日 熊猫
実際に日本軍が水西門から入ったのは午前8時30分。
すでにこの日、日本軍部隊は安全区の中に入り、食糧「徴発」を行なおうとしている。さらには、安全区内で住民を家から追い出し寝具を奪い、宿を「調達」している。

「とり」の話は、立場、距離の違いも分かって、ヴォートリンの日記とぴったりと隣接している。
[]

2007-12-14 (占領2日目)

[ラーベの日記][中文] 12月14日分はあった

日本語ラーベの日記の12月13日分は、14日の分と一緒になってリリースされてしまったと思います。ここでは中国語版に準拠して、内容を分割して掲載します。 よろしくご批判ください。

[ラーベの日記][国際委員会] 日本軍司令官への要請状

軍事占領下の安全区は、占領軍司令部との提携が無ければ存在できない。ラーベたちは、日本軍司令官とのコンタクトを急いだ。ラーベの日記中国語版の12月14日の項は、そのことから始っている。中国簡体字原文
12月14日
私達は、英語と日本語それぞれの手紙を立案して、日本の指揮官にじかに手渡すつもりだ。次はこの手紙の訳文だ:
実はこの手紙、南京事件否定派が「ラーベの感謝状」だと歪曲して呼ぶ有名な書簡だ。すでに訳文があるのでそれを引用する。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/rabe.html
『南京安全区档案』 第1号文書(Z1)

南京安全区国際委員会
寧海路5号

1937年12月14日
南京日本軍司令官殿(=閣下)

拝啓
  貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。

  国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面 、住民に食を与えるために米と小麦を貯蔵し、地域内の民警の管理に当たっております。

以下のことを委員会の手でおこなうことを要請します。
  1. 安全区の入口各所に日本軍衛兵各一名を配備されたい。
  2. ピストルのみを携行する地区内民警によって地区内を警備することを許可されたい。
  3. 地区内において米の販売と無料食堂の営業を続行することを許可されたい。
    • a われわれは市内の他の場所に米の倉庫を幾つかもっているので、貯蔵所を確保するためにトラックを自由に通 行させて頂きたい。
  4. 一般市民が帰宅することができるまで、現在の住宅上の配慮を続けることを許されたい。(たとえ、帰宅できるようになったとしても、多数の帰るところもない難民の保護をすることになろう。)
  5. 電話・電灯・水道の便をできるだけ早く復旧するよう貴下と協力する機会を与えられたい。
  昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。そのうち若干名は当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表達は貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、我々はこれらの兵士達を全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。現在、彼らの望み通りに、これらの人びとを平穏な市民生活に戻してやることをどうか許可されるようお願いします。

  さらに、われわれは貴下にジョン・マギー師(米人)を委員長とする国際赤十字南京委員会をご紹介します。この国際赤十字会は、外交部・鉄道部・国防部内の旧野戦病院を管理しており、これらの場所にいた男子を昨日、全員武装解除し、これらの建物が病院としてのみ使用されるように留意いたします。負傷者全員を収容できるならば、中国人負傷者を全員外交部の建物に移したらと思います。

  当市の一般市民の保護については、いかなる方法でも喜んで協力に応じます。

  敬具(=謹んで致す崇高なる敬意)

南京国際委員会 
委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)

南京安全区国際委員会 
寧海路5号 電話 31961-32346-31641

(『日中戦争史資料9』p120)
これは感謝状ではなく、れっきとして要請状だ!
中国語版ではつづく(拙訳)
元駐南京日本領事館秘書の宋(音訳)先生が翻訳の仕事を引き受けた。60歳の宋先生は私達の下にある紅卍字会のメンバーだ。私達は6人ほどの日本将校を探したが、やっと情報をくれた。日本陸軍の谷寿夫将軍は明日か明後日にならないと到着しないと連絡があったと。
ラーベにしてみれば、この手紙は司令官に直接手渡すことに意味がある。それが安全区公認の瞬間となるからだ。
このあとは、以下、日本語版と同じ内容である。

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][戦況と民衆] 日本軍進入2日目の街

12月14日
町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。

日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。
やはりこれは、侵入2日目の光景なのだろう。日本語版「南京の真実」では、12月13日の光景になっていて、畝本正巳氏は、城内に踏み込んだ最初の日は戦々恐々で商店の掠奪などしない、と批判しているがもっともである。2日目の光景としては、他の日記の記述とも符合している。

ラーベの昨日の巡察は、南京城内の北部で安全区の近くだったが、今日はもっと東南の方も見回ったようだ。(太平路→市街地図3参照)
我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。ここはフォースターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に命中していた。近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。
連行の目撃。《掃討戦》という名目での殺戮。
二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。

元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。

外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。
最高法院は、中山北路沿いの安全区際北端、外交部は少し南でほぼその向い。
日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。
ラーベの家は最高法院の南。おおよそ直線で2キロぐらいか。昨日と違って、きょうは車ではなく歩き回ったようだ。そうした内容からいっても、これは13日の描写ではない。
被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。
いったいどんなビラだろうか?
畝本正巳氏はラーベの日記を批判する本を書いている。「こんな宣伝ビラのことは書いてあるのに、なぜ重要な9日の降伏勧告文のことが書いてないんだ。」、「だからこんな日記はいい加減だ。」というのが畝本さんの言い分であるが、見当ハズレだ。

降伏勧告文は敵軍の中枢に撒くもので、難民達に向かって撒いても仕方ない。それに対して、住民宣撫の宣伝ビラは難民区(安全区)に撒かなければ何の意味もない。可笑しなことをいう元戦車隊長さんだ。

ラーベの家から寧海路五号の本部までは、3キロほどあるのではないか。自動車で行けたのか? 下の裁判所とは安全区東南、ラーベの家に近い司法院のことか?
絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部へ戻った。あちこちで人々は飢えに苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が食べる物もなく苦しんでいる。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が七人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を撃たれた十歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。
昨日、赤十字病院として指定したばかりの外交部の野戦病院が、手の届かないものになってしまった。

このあと中国語版では、谷寿夫中将に関する訳注があり、さらに「晩上」、Poemを引用してしんみりと妻へ感謝するくだりがあり、最後に、
《ニューヨーク・タイムズ》記者のダーディン氏は車で上海に行くつもりだという。なんとしても称賛に値する。しかし私は彼が順調に通行できるとは信じられなかった。それでも私は、彼に一通の電報を上海まで託した。電文は次の通りだ:
上海のシーメンス洋行(中国)、当電文の署名者と現地の事務所の職員全員は12月14日晩9時まで全く無事です。ラーベの妻(天津、馬場道の136号)とベルリンの施莱格爾さんにも知らせて下さい。ラーベ。
たった今わたしに、ダーディン氏はすでに戻って、上海への旅は成就できなかったというニュースが届いた。残念なり!

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 12月14日ヴォートリンの日記

一二月一四日火曜日
 午前七時三〇分。昨夜、戸外は平穏だったが、人びとの心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。

 ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう。
ヴォートリンは、勝ち誇った軍隊が掠奪などするわけがない、と信じている。
 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかっただろう。
 戦争による苦難は等しく負うべきだというのであれば、宣戦を主張する人たちはみな自ら進んで戦線に赴くべきだと思った。女性は、その意志さえあれば軍の病院で奉仕できるし、衣服や慰安品を負傷兵に提供できるだろうし、女子学生でさえも、装備を供給することによって軍隊を支えるさまざまな仕事をつうじて多分に貢献できるだろう。

 男子の中学生や大学生は、軍隊、赤十字、社会奉仕団体などで奉仕することができるだろう。戦争が終わったあとでは、これらいずれのグループにも、身体障害をこうむった兵士を援助するという大事な仕事があるのは言うまでもなく、戦死した兵士たちの妻子の世話をするというやり甲斐のある仕事もある。

 戦争は国家の犯罪であり、全人類の心の奥にある創造的精神にたいする罪であると考える人びとは、無辜の被害者、たとえば、家を焼かれたり掠奪をこうむった人びとや、爆撃や砲撃によって負傷した人びとの社会復帰に力を貸すことができるであろう。

 貧しい人びとにとってきょうの天気は神の恵みだ。一〇月のように暖かくて心地よい。丘で眠ることを余儀なくされる人もいるが、それもあまり苦痛にはならない。
敗戦と絶望の中にいるであろう中国に青年たちのために、なんとか希望を見出そうとする、ミニーの優しい気持ちが伝わってくる。
 昨夜、日本兵によって無理やりに家から追い出された人の話や、さらには、けさ日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。苗さんの家にはアメリカ国旗が掲げられ、大使館の公告が掲示されていたにもかかわらず、日本兵が入り込んだ。どんな物が持ち去られたのかはわからない。苗一家は老邵の家の外で燃料の草を敷布団にして一夜を明かした。老邵とその一家はすでに引っ越していた。ひどい目にあわされた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。
果たして、日本軍の将兵は抑制のきく常識ある人たちなのだろうか? ミニーの関心はそこに向く。
 四時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。彼らが会った将校たちのなかには、きわめて丁重な者もいれば、きわめて無愛想で不作法な者もいた。

 ジョン・マギーは、国際赤十字病院を設立する件で終日外出していた。丁重で礼儀正しい者もいれば、どうしようもない者もいると、彼も同じようなことを言っている。彼らは中国兵にたいしては情け容赦がなく、アメリカ人にはあまり関心がない。
 四時三〇分、プラマー・ミルズがわたしに、長老派教会員たちの家を見回りたいから、水西門まで同行してもらいたいと言ってきた。わたしの役目は見張り番である。それらの家は、窓ガラスが数枚壊れていたほかは、まったく別状がなかった。日本兵が入り込んだ形跡はあるものの、掠奪されてはいなかった。プラマーが敷地の中に入り、門衛と話をしている間ずっと、わたしは車の中にいた。

 帰ってくる途中、ヒルクレスト学校付近の路上で死体を一体見た。凄まじい砲撃が市街に加えられていたわりには、あたりに横たわっている死体の数はきわめて少なかった。
ヒルクレスト学校付近、ここは地図上では何処なのだろうか?
 ヒルクレスト学校を少し過ぎたところでソーン氏を見かけ、彼を車に乗せた。ついさっき車が盗まれたというのだ。家の前に車を放置したまま家の中に入っていたほんの数分間の出来事だそうだ。車にはアメリカ国旗が掲げられ、鍵がかけられていた。

 貧しい人びとの家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしていたのだ。
 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が八人ぐらいいた。彼らが立ち去るまでわたしは校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師伝を彼らから奪い返すことができた。わたしがそこへ行かなかったら、日本兵は彼を案内役として連れ去ったであろう。

 学院の使い走りの魏はけさ使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。

 校門に立っていると、何人かの兵士が、わたしがつけていた国際委員会の徽章に目をやったが、その中の一人が時刻を尋ねてきた。昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。

 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。東にある地区へ移動しているようだ。
この日から、ミニーは校門に立ち内部の女性たちを守る毎日となる。彼女は、見るからに日本兵が怖気づいてしまうような大柄な女性だったのだろうか?
   ニューヨーク・タイムズ特派員のダーディンは何とかして上海に行こうとしたが、句容まで行ったところで引き返してきた。南京までの途中には何千何万という兵士がいたそうだ。
これは、ラーベの日記中国語版の12月14日分最期の記事と同じ。
 きょうは避難民は粥を二度食べることができ、わたしたちは感謝している。米が貯蔵されている建物に日本兵が入り込んでいるので、きょうは粥が食べられないのではないかと心配していた。

 わたしは、中国兵が一昨夜逃走するさいにキャンパスに投げ捨てて行った軍服を埋めることにした。ところが、大工の仕事場に出かけてみると、庭師たちのほうがわたしよりも上手であった。彼らは、すでに軍服を焼却し、手摺弾は池に投げ込んでしまっていた。陳さんは、捨てられていた銃を隠した。

 今夜は平穏無事でありますように。
安全区の中にいたヴォートリンの視野、暴風はまだ吹いていない。

[程瑞芳日記][戦況と民衆][所行無情] 程瑞芳日記12月14日

程瑞芳女史の日記を、熊猫さんは翻訳しmixi日記に掲載しています。 http://mixi.jp/list_diary.pl?id=6258915
 今日は更に多くの人が来た、皆が安全区内に逃げて来るのは、日本兵が昼間から彼らの家の中に入りお金を奪い、強姦をするからだ。街では刺し殺された人が多い、安全区内はみなそのようだ、外は更に多く思い切って出て行く人はいない、大半の青年男子は刺し殺された。
同じ職場にいてもヴォートリンよりも筆致が厳しいのは、逃げてきた難民からの生々しい体験談を、中国人である程女史はいっぱい聞いてしまうからであろうか。

安全区の外からまだなお人が逃げてくる。この日はあきらかに安全区にとっては人口増加の日である。外で掠奪と殺戮が続く限り安全区の人口は増加する。
 今日は500号棟の3階もいっぱいになった。昼ごろ7人の兵隊が300号棟の後の竹の垣根を飛び越え入って来たが、ヴォートリンさんがいないので、どこだろうと行くしかない。ちょうど粥を売る場に、彼らが難民を見たので、難民は非常に驚いた。

勇気ある数人の使用人が、彼らを連れて500号棟と100号棟を案内し、私も彼らと回った。彼が見た難民は何もなかった、彼は1人の青年男子の様子を見て気にかけたので、その兵隊は走って数人の兵隊を叫んで来た。刀を向け彼が服を脱ぐことを要求したので私が言うと彼は脱いだので無事に行ってしまった。

中庭の芝生にあるアメリカ国旗を見つけて、彼は使用人に対して、巻く必要はないと言ったので使用人はうなずくしかない。これらの兵は隊列をくみ、外で一声あげ皆行ってしまった。幸い400号棟には行かなかった、誰もいないので彼はお金を奪うことが出来る。
節度のある部隊でホッとした。しかし・・・
 今朝、鼓楼病院に手紙を届けに行った魏さんが、今晩帰って来ないので、日本軍に連れて行かれたのではないかと心配だ。街では沢山の人が連れて行かれ生死不明だ。

(金陵女子文理学院には)今4〜5千人いる。
「街では刺し殺された人が多い」
「街では沢山の人が連れて行かれ生死不明だ」
『街』とは安全区以外の街を指すのでしょうか?
[]

2007-12-15 (占領3日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][誤訳] 責任ある交渉員は誰か?

占領3日目、さまざまな日本軍人がラーベに面会して名乗る。しかし、だれがRepresentativeなのかさっぱり分からない。
十二月十五日
朝の十時、関口大尉来訪。大尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
関口鉱造少尉:原文では「関口大尉」。実際には砲艦勢多次席(副艦長)大尉。艦長に上級司令官への報告のため城内偵察を命じられた、と後年の手記でいっている。
十一時には日本大使館官員の福田氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。これらの三つの施設の機能については、韓氏も私もよく知っているので、復旧させるための技術者と労働者を得ることができるのは疑いない渡辺さんによる誤訳訂正)。交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏と会う。この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。
つづいて、外交官の福田篤泰氏。英文では "Mr. Fukuda, attache of the Japanese embassy" 。福田氏は戦後国会議員自民党の国会議員となった人物だが、「通訳として大いに役に立つだろう。」というラーベの第一印象、人物評はおもしろい。
  • 交通銀行:英訳では、"the Bank of Communication" 中国語の「交通」の意味は日本語とは違うようだ。福田氏は交通銀行ではなく「中国銀行」だと言ってるそうだが、それはうろ覚えに過ぎない。議事録という文書をラーベはしっかりと保存していたが、福田氏(外務省)はそれを紛失せしめた。
  • 左「南京市街図1937・9・1」によれば交通銀行(40)と中国銀行(44)は近傍、白下路か。
※)後世における福田篤泰氏の「証言」については、ゆうさんが「小さな資料集」で資料批判しています。今ではなく、のちのちじっくり読むといいでしょう。いずれにしても、日本側は領事館文書を消却処分してしまったのです。そのうえで南京事件否定派は、後世の福田氏のうろ覚え証言に基づいて、ラーベ達の国際委員会の活動記録を「そんなことはなかった筈だ」と批判しているのです。

武装解除した元兵士の助命!焦眉の課題!
昨日、十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。
南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃をうけております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。

我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。

捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。

敬具
ジョンラーベ、代表
この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。
議事録
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
一九三七年十二月十五日 正午

通訳:福田氏
出席者
ジョンラーベ氏:代表
スマイス博士:事務局長
シュペアリング氏
  1. 南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
  2. 安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。
  3. 避難した住民はすみやかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
  4. 武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件はわが軍に一任するよう希望する。
  5. 中国警察による安全区の巡回を認める。ただし、完全に武装解除すること。警棒の携帯も認めない。
  6. 委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用してもよいが、われわれ日本軍にとっても必要である。したがって米を買う許可を求める(地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。
  7. 電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーべ氏とともにこれらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。
  8. 明日より町を整備する予定であり、百人から二百人の作業員を必要とする。それにつき、委員会に援助を要請する。賃金は支払う。
司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、日本軍特務部長の原田将軍がやってきた。ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。
この日ラーベが折衝した人物
・関口鉱造海軍大尉(原文では関口大尉。所属・管掌ともにラーベには不明)
・福田篤泰日本大使館補
・司令官(氏名等不詳)
・特務部長の原田熊吉少将(原文では原田将軍)
司令官っていったい誰だ! 交通銀行は日本領事部と特務機関の共同事務所だったのか?
残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。

スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、作業員を集めるのは困難になるといっておいた。福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。この惨めな気持ちはたえられない。人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。
「日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。」これは、福田篤泰氏の話か?
日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者二人。イタリア人新聞記者のサンドリと梅平号の船長カールソンのふたりだ。アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷をおった。スクワイヤーズも肩をやられた。ガシーは足、アンドリューズ少尉は重傷で、ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。
『日本海軍』がラーベの傍に存在した。関口氏ではない人間も。海軍陸戦隊には上海と同じように南京の治安配備に付く意図があり、ラーベと接触していたとしても不思議はない。

実際、マギーのフィルムには、ビル屋上に配置されたセーラー服の陸戦隊員が映っている。

ビデオ『マギー牧師の証言』より mg-030.jpg
そうこうするうちに、われわれのなかからもけが人が出た。クレーガーが両手をやけどしたのだ。ガソリンの缶のすぐそばで火を使ったりするからだ。いくらもうほとんど入っていないからといって、うかつすぎる。彼は私からたっぷり油を絞られた。経営しているホテル(福昌飯店)が日本軍にめちゃめちゃにされたといってヘンペル氏がかけこんできた。カフェ・キースリングも、あらかたやられたらしい。

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] スミス記者の講演

日本語版ラーベの日記「南京の真実」12月15日の項には、「ロイター通信スミス記者の講演」が挿入されています。これは、ドイツ語版編者のヴィッケルトが、日本軍の城内侵攻の様子をおさらいするために、漢口での講演を要約して挿入したものです。

なお、(日本語版p116)「十二月十三日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。」は誤訳です。正しくは、「 十二月十二日から十三日にかけての夜・・・」です。

ここでは、要約ではない講演記録全文の日本語訳をリンクし紹介しておきます。
ゆうさん『小さな資料集』よりスミス記者の講演

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] ヴォートリンの日記12月15日

日本軍人たちとの折衝に忙しく街に出なかったラーベに代って、ヴォートリンは生々しい現実を記録している。
一ニ月一五日 水曜日

 たしか、きょうは一二月一五日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるかを覚えているのは容易でない。

 昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。けさソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。

 それからというもの、女性や子どもには制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的に年齢の高い女性にたいしては、できれば自宅にいるようつねづねお願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと三〇〇〇人以上の人がいると思う。

 いくつかの日本兵グループがやってきたが、何も問題を起こさなかったし、中に入れてくれと強要する者もいなかった。今夜はサールとリッグズ氏が南山公寓に泊まり、ルイスは、フランシス陳といっしょに門衛室で寝ることになっている。わたしは下の実験学校にいることにする。二人の警官に平服でパトロールをしてもらい、また、夜警員には、夜通し寝ないで巡回してもらっている。

 七時に男女避難民の一団を金陵大学に連れて行った。ここでは男性は受け入れていない。ただし、中央棟の教職員食堂には年寄りの男性を詰め込んでいる。前記グループのある女性は、四人家族のなかでひとり生き残ったことを話してくれた。

   きのうときょう日本軍は広い範囲にわたって掠奪をおこない、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。

 武装解除された一〇〇〇人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、たぶん、いまごろはすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。

 南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。 ( まさしく門戸開放政策だ!)

 ラーベ氏とルイスが司令官と接触している。この司令官は到着したばかりだが、印象はそれほど悪くない。彼らは、たぶんあすには事態が改善されると考えている。

 きょう四人の記者が日本の駆逐艦〔アメリカ砲艦の誤り〕で上海へ発った。外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送ることができない。あいかわらず銃声がときおり聞こえる。

[程瑞芳日記][所行無情][戦況と民衆] 程瑞芳日記12月15日

熊猫さんのmixi日記より
 昨晩ヴォートリンと私は兵隊が来るのが恐ろしくて寝たのは12時だったが、幸いにも来なかった。今朝はやって来る難民が多く、ヴォートリンはたぶん表門の入り口で世話をして、やって来た兵隊を遮る、兵隊は表門の入り口の告示を見ると行ってしまった。安全区内の全ての家に行き、お金と食べ物と姑娘をあさり、しかも姑娘を残して彼らを追い払うので、この人たちは皆ここへ逃げ、人民もあえて商売をしない。

 今日は入って来た兵士が出て行くのを見たら、兵士は南山の家に行き、門を打ち破り、西洋人が置いた物を食べ、家屋の中はトマトと別の小さい物があって、ちょうどよい具合にMr.Riggsが来たので、彼を呼んで彼らに追いつき、彼らを追い払った。ここにあった物だけでなく、国際委員会の酒と煙草さえ持ち去った。

 国際委員会は今度はメンツを失った。以前は彼らは我軍の略奪を心配し、会議をした時は、日本軍がとても良いと言ったが、今は間違いだと判断している、安全区でさえ全て承認していない。日本軍のひどさを知り、彼らも少し恐れている。

 日本兵も安全区内に住んで、少人数の日本兵も入って来て、多くの突撃隊が入って来て、全てが騒ぎ、これはどこの一国の兵か?皆このようだ!南門より入って来た兵は少なく、今は難民の袖には日の丸がある。

 一日に何度か兵士が入って来るから、西洋人のヴォートリンさんは、本当に忙しく手が回らない。あれらの男の西洋人は外で忙しいので、彼女は彼らに手伝いに来てもらうことを承知しない。

【西人】西洋人と訳した。程瑞芳は西洋人のことを西人と記述している。
【Mr.Riggs】ヴォートリンは華小姐と漢字で記述しているが、リッグスは英語で記述している。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間に小高い丘があり、その場所を南山と呼んでいたのではないかと思います。おそらくは金陵女子文理学院内部の呼称ではないかと思います。
【日本兵も安全区内に住んで】歩兵第七連隊のことでしょう。
[]

2007-12-16 (占領4日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 略奪を受けなかった店はない

十二月十六日
朝、八時四十五分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。今日の九時から、「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
菊池氏:
入れ替わり立ち代り新手の「担当者(と称する)」があらわれる。これは現代でいえば、誰が責任者なのか判らないように、会議の度に面子をかえて臨む、電通とか博報堂とか大手広告代理店の打ち合わせのようなものだ。
いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。 ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。 ただし、この手紙に記されている事件は、我々が知つた無数の事件から抜き出したホンの数例にすぎない。
"and the cases mentioned in the letter are only a few out of a great many that we know about"
在南京日本大使館福田篤泰様

拝啓
安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。

国際委員会の仲間が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がたトラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。ここに日本兵の不法行為リストを同封します。(ただし、ここにはリストは掲載されていない)

この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。

……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。日本軍最高司令官が到着すれば、街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。このままではもうどうにも耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。    敬具

代表 ジョン・ラーベ
事務局長 ルイス・S・C・スマイス
門内に入れさせてください
ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない! 私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭にいれてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。
菊池氏と下関の発電所へ
菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、四十〜四十五人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じてわが社のドイツ人技術者をこちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。
またまた武装解除した中国人兵士の連行と銃殺。
ああ、これが控えめで感じの良さそうな通訳菊地氏が通告した『中国兵の捜索』だったとは!!
たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、五十人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。
これではラーベ達の代りに処刑されたようなものだ。


実はこれ、南京事件否定派で独立軽装甲車隊小隊長だった畝本正巳氏によれば、翌日の入城式に備えた『便衣兵の摘出』であったという。
〔検証〕北部掃蕩地区(難民区)担当の歩兵第七連隊は、十六日、難民区に潜入した約七千人の便衣兵(ゲリラ)の徹底的摘発を開始した。速隊命令によると、十五日までに捕えたものは、殆んどが下土官・兵であり、将校は便衣に着替えて外国の建物に隠れており、明十七日の入城式のために安全確保が必要であった。憲兵の協力を求め、一般市民の巻き添えを防止したのである。

 ラーべの日記によると、略奪だけでなく、強姦、連行殺人、暴力が安全区内に及び、極度の恐怖におち入ったと述べているが、日本軍側の目的ぱ「便衣兵の摘出」であった。(真相・南京事件―ラーベの日記を検証してp98)
このあと畝本氏は過酷な掃蕩戦に参加した兵士の日記・私記を引用しているが、その過酷さは目に余る。追って、それらを引用するつもりだ。---ラーベの日記に戻る。
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。〓(手偏に邑)江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字どおり死屍累々(ししるいるい)だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

おそらく(その代わりに)、武装解除された中国軍兵士たちが銃殺される前に、その仕事をさせられたのかもしれない。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックの外で機関銃で撃ち殺された。
英文では、 "It may be the disarmed Chinese will be forced to do the job before they're killed" 
ドイツ語原文では"die entwaffneten chinesischen Soldaten"(Apeman さん情報)。そして "outside of the barracks"

外交官の気休めのウソ
晩に岡崎勝男総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が少数いたのはたしかだが、残り大部分は揚子江にある島の強制収容所に送られたという。

以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。
※ "a few soldiers", "the rest"

日本兵という悪霊(evil)を退治する悪魔(devil)
いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。

女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあったりしている。彼らの切なる希望は「外国の悪魔」である私が、日本兵という悪霊を追い出すことである渡辺さんによる訂正訳)。
英文では、"Their one hope is that I, the "foreign devil," will drive these evil spirits away."

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] ヴォートリンの日記12月16日

金陵女子文理学院難民所

一二月一六日 木曜日

 夜、ジョージ・フィッチに、状況はどうだつたか、城内の治安回復はどの程度進捗したかを尋ねると、「きょうは地獄だった。生涯でこの上なく暗澹たる一目だった」との答えが返ってきた。わたしにとってもまったくそのとおりだった。

 昨夜は静かで、外国人男性三人は落ち着いて過ごすことができたが、きょうの日中は平穏どころではなかった。
金陵女子文理学院にたいする査察
 けさ一〇時ごろ、金陵女子文理学院にたいする公式の査察がおこなわれた。徹底した中国兵狩りである。一〇〇人を超える日本兵がキャンパスにやってきて、まず〔一語脱落〕棟から査察を開始した。

 彼らは、すべての部屋を開示するよう要求した。鍵がすぐに間に合わなかったときのことだが、彼らはひどくいらだち、兵士の一人が、力ずくでドアを開けようと斧を手にして待ち構えていた。
焼却するに忍びなかった綿入れ軍服
 徹底した捜索が始まると、気が滅入ってしまった。というのも、二階の地理科準備室に負傷兵用の綿入れ衣類数百着が収納されていることをわたしは知っていたからだ。まだ処分していなかった全国婦人救援会製の衣類である。この冬に、貧しい中国人が暖かな衣類をたまらなく欲しくなることはわかっていたので、焼却するに忍びなかった。
日本兵の好色が危機を救った
 その運命の部屋の西隣りの部屋に兵士を案内したところ、彼らは、それに隣接するドアから中に入ろうとした。しかし、わたしは鍵を持ち合わせていなかった。幸運なことに、屋根裏部屋に兵士たちを案内すると、そこには婦女子二〇〇人ほどがいて、それが兵士たちの気をそらしてくれた。 ( 夜暗くなってから、わたしたちは問題の衣類を地中に隠した。陳さんは、彼が所持していた小銃を池に投げ捨てた。 )
収穫ゼロでは帰れない敗残兵狩り
 日本兵は学院の使用人を二度にわたって掴み、この男たちは兵隊だと言って連行しようとしたが、わたしがそこに居合わせ、「兵隊ではない、苦力です」と言ったことで、彼らは、銃殺ないしは刺殺の運命から免れた。

 日本兵は、避難民のいるすべての建物内を捜索した。根性の卑しい将校が兵士三人を連れてやってきて飲み物を要求したので、程先生の寄宿舎に連れて行った。さいわい、そのときは知らなかったことだが、六人もの兵士がキャンパスで機関銃の訓練をしており、さらに大勢の兵士がキャンパスの外で警備につき、少しでも逃げようとする者がいればいつでも発砲できる態勢をとっていた。
「婦女子しかいない」証明書
 階級がいちばん上の将校が立ち去るさいに、ここには婦女子しかいない旨の証明書を残してくれた。これがその後、小人数でやってくる日本兵たちをキャンパスに入らせないようにするのに役立った。
一からげに縄でつながれて
 正午を少し回ったころ、小人数の一団が校門を通り抜けで診療所へやってきた。わたしがそこに居合わせなかったら、彼らは唐の弟を連れ去ったことだろう。そのあと彼らは通りを先へ進んで行き、洗濯場に押し入ろうとしたが、まさにそのときわたしが追いついた。だれでも日本兵から嫌疑をかけられようものなら、一からげに縄でつながれて彼らのうしろから歩いていく四人の男と同じ運命を強いられたであろう。日本兵は四人を、キャンパスの西にある丘へ連れて行った。そして、そこから銃声が聞こえた。
ありとあらゆる罪業が今日
 おそらく、ありとあらゆる罪業がきょうこの南京でおこなわれたであろう。昨夜、語学学校から少女三〇人が連れ出された。そして、きょうは、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。そのなかの一人はわずか一二歳の少女だった。

 食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは五五ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押し入られ、金品を奪われているのではないかと思う。

 今夜トラックが一台通過した。それには八人ないし一〇人の少女が乗っていて、通過するさい彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。

 丘や街路からときどき銃声が聞こえてくると、だれかの− おそらくは兵士でない人の− 悲しい運命を思わずにはいられない。

 日本兵の一隊をキャンパスの外につれ出すよう、校内のどこかから呼び出しがかかったとき以外は、わたしは警備係として一日の大部分を正門の前に腰をおろして過ごしている。
我が家が占拠されたのか?
 夜、南山公寓の使用人の沈〔音訳〕師伝がやってきて、公寓内の電燈が全部点いていることを知らせてくれた。兵士たちにわが家が占拠されたと思い、気が滅入ってしまった。二人で行ってみると、サ ールとリッグズ氏が前の晩に電燈を消し忘れていたことが判明した。

 理科棟の管理人の姜〔音訳〕師伝の息子がけさ連行された。貌はまだ戻ってこない。何かをしてやりたいのだが、どんなことをしたらよいのかわからない。というのも、城内の秩序が回復していないので、キャンパスを離れるわけにいかないからだ。
壊れてしまった惨めな貝殻
 ジョン・ラーベ氏は、自分としては電気・水道・電話の復旧を手伝うことができるが、城内に秩序が回復されるまでは静観するつもりだ、と日本軍の司令官に伝えた。今夜の南京は、壊れてしまった惨めな貝殻にほかならない。通りに人影はなく、どの家も暗闇と恐怖に包まれている。

 きょうは無辜の勤勉な農民や苦力がいったい何人銃殺されたことだろう。わたしたちは四〇歳以上の女性すべてに、娘や嫁だけをここに残し、帰宅して夫や息子といっしょにいるようしきりに促した。

 今夜はわたしたちには、約四〇〇〇人の婦女子にたいする責任がある。こうした緊張にあとどのくらい耐えることができるのだろうか。それは、ことばでは言いあらわしがたい恐怖だ。
日本軍にとってこれは勝利か?
 軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとっては勝利とみなせるかもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である。このことは、将来中国との協力および友好関係を長く阻害するだけでなく、現在南京に住んでいる人びとの尊敬を永久に失うことになるであろう。 いま南京で起こっていることを、日本の良識ある人びとに知ってもらえさえしたらよいのだが。

 神さま、今夜は南京での日本兵による野獣のような残忍行為を制止してくださいますよう。きょう、何の罪もない息子を銃殺されて悲しみにうちひしがれている母親や父親の心を癒してくださいますよう。そして、苦しい長い一夜が明けるまで年若い女性たちを守護してくださいますよう。もはや戦争のない日の到来を早めてくださいますよう。あなたの御国が来ますように、地上に御国がなりますように。
明日の威風堂々の代償として今日の悲惨があった。

[程瑞芳日記][所行無情][戦況と民衆] 程瑞芳日記12月16日

熊猫さんの試訳
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=283587143&owner_id=6258915
ヴォートリンの日記にもあった、敗残兵狩り
 今朝の8時半に大勢の日本兵が調査にやって来たので、ヴォートリンさんの側で私も彼らを接待した、彼らが何の調査するか分からなかった。彼らは最初に中国兵を探すのだと話を始めた、兵隊がいないことを知っているので、私達は彼らが兵を探すことを恐れてはいない。しかし兵隊のみならず、もし兵隊の服と見えたならば、彼は直ぐにお前は兵とみなすと言った。

 彼らは皆300号棟にいて、自分が外から取り寄せた多くの麻袋に、多くの負傷兵の服とベストが全て300号棟の上の階の地理学系の部屋の中にあるため、私とヴォートリンさんは少し心配になった。私はその扉に立ち止まり、ヴォートリンは先に彼らを連れて別の部屋に行った。その時の難民はとても多く、それから彼らを連れて3階へ行き、あの部屋を歩かずに、彼らを連れて降りて行った、その時に私の心はやっと静まった。

 彼らはとても凶悪で、およそ灰色の服は全て兵隊が着たので、あの時の人は灰色の服を全て池の中に投げ捨てた、まったく鬼が現れたようだ。

 ヴォートリンは彼らを400号棟に連れて行きお茶を飲み、1人は私といっしょに100号棟を見て、私には方法がないので、彼といっしょに入って行った。本来なら私は彼らに会わないのだが、人が多いためヴォートリン一人では面倒見切れないからだ。

 彼らは文字を書いて、ここに兵隊はいないのかと私に聞き、私がいないと答え、ヴォートリンもいないと言った。
飢えた兵隊
 ヴォートリンはお茶だけではなく、さらに彼らが食べるお菓子を出した。私は本当にヴォートリンを恨んだ、彼らを少し接待すると、大勢の兵が寄って来る。

 彼らはまた文字を書き私達に承諾をもとめた、我兵がここに来ることを許可しない誓いを立てることを、ヴォートリンは彼らに承諾した。

 特に言葉が分かるかを、更に文字を書いて私に聞いた。彼らは表門を出て行きヴォートリンに、日本兵が来たら彼らに見せれば、日本兵は入ってこない1枚の紙を渡した、実は役に立たない。

 午後また来た兵が童ちゃんの兄弟が兵隊だと言って連れて行く、彼は少し雰囲気があるので、2度ともヴォートリンが守りに来た。

 彼ら労働者の噂によれば、長髪は日本兵が捕えていく。一部の労働者は髪を全部剃った、知らずに日本兵と会ったこのような人は更に耐え難い、彼らは髪を剃ったら敗残兵と思い込んでいる、これらの労働者は後悔しても遅い。

 この兵が行けば、またあの兵が来るので、ヴォートリンは死ぬほど忙しかった。
現金とニワトリ
 今度の兵は李さんに出会うと、彼の体を調べ彼の50元を取り上げて行き、更に彼にビンタを1発打った。彼は多くのお金を身に持つべきではなく、昼食の頃に彼にお金には注意するように言った。朝、700号棟の李師傅からも10元を取り上げ、まだ少し良心がある日本兵は1元を返して、彼は1元の残りを使う。

 また兵隊がニワトリを求めて来たので、ヴォートリンはまた駆けつけて彼と協議する。ヴォートリンは怒りを抑えられず、これらの鶏・アヒルを全部殺し、彼らが持ち帰って食べれないようにすると言った。今日一日何度も兵隊が来た、また兵は南山へ物を奪い取りに行くので、ヴォートリンは本当に死ぬほど走り回った。

 私はまた日本兵が彼女に害を及ぼすことを心配して、労働者と彼女をいっしょに行かせ、たとえ何をすることも出来なくても、人は彼らの挙動を知っていて、また私は走れないので、本当に焦る。今、難民は7,8千である。

※50元盗られた李さんと10元盗られた李師傅は別人。

【ベスト】ヴォートリンの日記では「綿入れ」と訳されています。原文は「背心(bei4xin1)」でランニングシャツのような袖の無い服を意味する言葉。中国の「ちゃんちゃんこ」か?
『掃討戦』『便衣兵狩り』の実態である。ヴォートリンさんというDevilが居なかったら、難民達はどうなっていたのだろうか? 「保護すべし」と厳重注意が行なわれた安全区ですらこのありさまである。安全区の外で家に隠れていて見つかった女たち、男たちがどうなったかは想像がつく。
[]

2007-12-17 (占領5日目)

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] ヴォートリンの日記12月17日

《写真》Ruth Chester with Minnie Vautrin at Ginling, n.d.
右のRuth Chester(金陵大学化学科主任)は大学の成都 (Chengtu)移転に同行し、南京攻略時は南京にはいない。

今日はまず、ヴォートリンの日記から紹介したい。
一二月一七日

 七時三〇分、 F ・陳といっしょに門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。
女性たちにとって最悪の夜が明けて
 疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は一二歳の少女から上は六〇歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)

 それぞれの個人の悲しい話−とりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話−を書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。門衛が言うには、明け方の六時三〇分からずっと、こうした女性たちがやってきているそうだ。
因果応報。ヴォートリンさんが書き留める時間がなかったのは残念だが、私たちは南京の少女たちの話の代わりに、サイパン、沖縄、満州での、顔を黒く塗り、髪を切り落とした日本人少女たちの話を聞いている。そうして、南京の少女たちが味わった“悲しみ”を理解するもできる。
 午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告がありしだい、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。きょうは朝食のときも夕食のときも、一度か二度はこうした移動をした。ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が三人いま理科棟にいます・・・」などと使用人が言ってこない日はない。

 食料、その他の生活用品を携えて避難民の父兄、その他の人たちがキャンパスに入ってくるのを阻止しようと思っても、人の往来を管理するのは容易なことではない。現在、四〇〇〇人以上がキャンパスにいるが、さらに四〇〇〇人が食料を持ち込むことになった場合には、とりわけ、新たに入ってくる人の選別には慎重でなければならないから、仕事が複雑になる。

 終日押し寄せる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースはあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。終夜勤務の外国人当直者一名を配置してくれることになっている。
開放してもらった寄宿舎へ
 四時から六時までの聞に大勢の婦女子の二グループを引率して行った。何と悲痛な光景だろう。怯えている少女たち、疲れきった女性たちが子どもを連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼと歩いて行く。

 彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の掠奪品を抱えて家から家へと移動して行くところに出くわしたからだ。

 幸いなことに、メリー・トゥワイネンがキャンパスにいたので、わたしは出かける気になった。わたしが戻ってきたさいにトゥワイネンが次のように報告してくれた。
アメリカ国旗を破った日本兵
 五時に日本兵二人がやってきて、中庭の中央にある大きなアメリカ国旗が目に入ると、それを杭から引きちぎって持ち去ったものの、自転車で運ぶには重すぎるし、扱いにくかったので、彼らは、折り重ねたままそれを理科棟の前に投げ捨てて行った。

 正門にいたメリーが呼ばれて駆けつけると、兵士たちは彼女を見るなり、逃走して姿を隠してしまった。彼らが発電所の一室にいるところをメリーが見つけて話しかけると、悪いことをしたと自覚していたのだろう、彼らは顔を赤らめたそうだ。

晴れの式典の夜も「掃蕩作戦」。ヴォートリンにビンタ。
きのう証明をわたしておきながら女子難民収容所をあえて執拗に捜索したのは、「掃蕩作戦」に名を借りた、部隊行動としての婦女子拉致作戦であった。
 夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。

 二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、わたしは、「中国兵はいない」と言った。いっしょにいた李さんも同じ答えをした。

 その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。わたしは脇のドアを指さし、二人を中に入れた。たぶん中国兵を捜していたのだろう、彼らは一階も二階も入念に調べていた。

 外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人三人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、わたしは、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実、そうだったからだ。

 日本兵は三人を正門のところへ連行したので、わたしもついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端に脆いていた。そのなかには、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人何人かがいた。そこには隊長の軍曹とその部下数名がいた。

 まもなく程先生とメリー・トゥワイネンが兵士に連れられてやってきた。学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。

 運の悪いことに、臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、そのなかの一人が兵士のように見えた。彼は道路の片側に荒っぽく引き立てられ、念入りに取り調べられた。

 使用人の身分についてわたしが説明していたとき、わたしを助けようとして陳さんが声を張り上げた。気の毒なことに、そのために陳さんはしたたかにビンタをくらわされたうえ、道路の反対側に手荒く連れて行かれ、脆かされた。

   こうした事態の進行のなかで助けを求めて懸命に祈っていると、フィッチ、スマイス、ミルズの乗った車が到着した。その晩はミルズがキャンパスに泊まってくれることになっていた。日本兵は彼ら三人を中に入れて一列に並ばせ、帽子を脱がせたうえで、ピストルを所持していないかどうか取り調べた。

 フィッチが軍曹と少しばかりフランス語をしゃべれたことが幸いした。軍曹と彼の部下たちは何度も相談したのち、すべての外国人、程先生、メリーの退去を一度は強く求めたが、わたしが、ここはわたしの家だから、出て行くわけにはいかないと言ったところ、やっと考えを変えてくれた。

 そのあと彼らは外国人男性を車で立ち去らせた。あとに残ったわたしたちがその場で立ったり脆いたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行していくのだろうと思った。

   あとになってわたしたちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人聞を正門のところに拘束したうえで、審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている聞に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が一二人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った。

 すべてが終わると、彼らは F ・陳を連れて正門から出て行った。わたしは、陳さんにはもう二度と会えないと思った。

 日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動く者はだれかれかまわず即座に銃撃するにちがいないと思った。

 そのときの場景はけっして忘れることができない。道端に脆いている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それにわたし。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しく坤くように吹くなかを、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。

 みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。わたしたちは彼に、自分の持ち場に戻るよう促した。陳が解放されるよう、そしてまた、連れ去られた人たち−これまでは祈ったことがなくても、その夜はきっと祈ったにちがいない人たち−のために懸命に祈った。

 銃撃されるのではないかという恐怖から、わたしたちは、永遠と思われるほど長い時間あえて動くことはしなかった。しかし、一〇時四五分、そこをあとにする決心をした。

 門衛の杜が正門から外をこっそり覗くと、あたりにはだれもいなかった。閉まっているように見えた通用門から、彼は気づかれないように入って行ったので、わたしたちもみな立ち上がり、その場を立ち去った。

 程先生、メリー 、それにわたしとで南東の寄宿舎に行ってみたが、そこにはだれもいなかった。程先生の嫁や孫たちの姿はなかった。わたしはぞっとしたが、程先生は、きっと避難民にまじって隠れていると思う、と落ちつき払って言った。

 程先生の部屋は散らかり放題で、掠奪されたことは明らかだった。このあと中央棟に行ってみると、そこには、程先生の家族、薜さん、王さん、ブランチ呉さんがいた。

 それからメリーとわたしは実験学校に行ったみた。驚いたことに、陳さんと婁さんがわたしの居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。みなで、感謝を捧げるささやかな礼拝集会をもった。わたしは、あのような祈りを聞いたことがない。

 そのあとわたしは正門まで出向き、門衛所の隣にある陳さんの家で一夜を明かした。わたしたちが床に就いたのは、夜中の一二時をとうに回っていたにちがいない。おそらく、だれもが眠れなかっただろう。
この出来事は、晴れの戦勝「南京入場式」が挙行されたあと、はたまた特務機関の肝いりで「支那兵慰霊祭」がれいれいしく行われた、その晩のことなのだ!

フィッチの手記をみよう

[フィッチの手記] 欧米人に対してすら

 十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。 ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて一〇〇〇人の婦人が強姦されました。

 ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する問、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。

 抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。たちまちのうちに病院は日本軍の残虐と蛮行の犠牲者たちで満員となりましたが。ボプ・ウィルソンは、われわれのところではたった一人の外科医だったので、手いっぱいどころではなく夜半まで働かねばなりませんでした。

 人力車・家畜・豚・ロパなど、しばしば人々の唯一の生計のもとであったものが奪われています。われわれの炊飯場や米屋も干渉を受けました。われわれは米屋を閉店しなくてはなりませんでした。

 昼食後、私はベイツを大学に、またマッカラムを病院につれてゆきましたが、彼らはそちらで泊ることになるでしょう。それから、ミルズとスミスを金陵女子文理学院へ連れてゆきました。というのは、われわれのグループのうち一人が交代で毎晩そこで寝とまりしていたからです。

 金陵女子文理学院の門のところでわれわれは探索隊と覚しきものに誰何されました。われわれは銃剣を突きつけられて乱暴に車からひきずり出され、私の車のかぎは取りあげられました。一列に並ばせられて武器の有無を調べるために身体をなでまわされ、帽子はもぎとられ、顔には懐中電灯をつきつけられ、パスポートと来訪の目的を訊ねられました。

 われわれの正面には、ミス・ヴォートリン、トゥイネム夫人、陳夫人とともに、何十人もの難民の婦人がひざまずいておりました。

 下士官は少し仏語を話す男でした(私と同じ位のものです)が、ここには兵隊がかくまわれていると主張するのでした。私は約五〇人の使用人とその他の職員以外にその場所には男はいないと主張しました。

 彼はそんなことは信じられないといい、その数をこえるものを見つけたら全員射殺するつもりだといいました。それから彼は、女性たちも含めて、われわれ全員がその場を去ることを要求したのです。

 ミス・ヴォートリンが拒絶すると、乱暴に車の方へひったてられました。それから彼の気が変わって、女性たちはとどまってもよいが、われわれは退去するようにというのです。

 われわれはわれわれのうち一人が残ることを主張しましたが、彼はそれを許可しようとしませんでした。われわれは釈放されるまで一時間以上も立たされておりました。


 翌日、われわれはこの悪党が学院から一二人の少女を誘拐したことを知りました。
わたしには、映画撮影所のベニヤ板でできたセットか歌舞伎座の書割の、「表」を「裏」をこの日同時に見た思いがする。ヴォートリンの日記やフィッチの手記が舞台裏の描写だとすると、次に紹介する新聞記事は表舞台の描写。

[warなひと人] この万歳・故国に轟け、威容堂々!大閲兵式

南京座、書割の表側できった『大見得』。
南京入場式
朝日新聞昭和12年12月18日の夕刊である。
「鳴呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚る万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜玄に爆発する雄渾壮麗な大入城式である、この軍中支に聖戦の兵を進めて四ヶ月、輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、東亜和平の基礎玄に定まって国民政府楼上に厨翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか。

荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える、南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火玄に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。……

午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。

ラッパが響き渡る、裂南の号令一下、『頭右ッ』、全将士捧銃の中を軍司令官の閲兵の列が行きすぎる部隊から各部隊長は各その幕僚を随えて閲兵の列に加わって行く、何という堂々の大進軍だ、国民政府に閲兵の列が入る、此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は各幕僚を随えてこれに加わる、午後二時、国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された、翻翻と全東洋の風をはらんではたはたと磨く日の丸の美しさ、海軍々楽隊の『君が代』が奏でられ始めた、空に爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊、正門の中に閲兵を終った松井方面軍司令官、朝香宮殿下以下参列諸員が整列、東方遥皇居を拝し奉った松井軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する『天皇陛下万歳』の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である」(『東京朝日』記事の一部)
記事引用者である前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)によれば、写真は、
南京入城式は十七日午後一時半から開始された。『朝日』は入城式の写真を大校場飛行場に待機した自社の幸風機で福岡支局上空まで3時間で飛び、フィルムを投下、即日号外写真として全国に配布した。幸風号は時速三百七十キロのスピード空輸に成功、大資本にものをいわせた速報体制を着々と築いていった。
兵は凶器なり(36)15年戦争と新聞メディア-南京虐殺を「武士道の精華」と報道した新聞(上)
ということだが、原稿は予定稿だったと筆者である今井正剛氏はのちに記している(今井正剛氏『南京城内の大量殺人』)。つまり、方面軍新聞班からもらった梗概にもとづいて書いたシナリオ。

軍馬将兵諸共に、シナリオどおりに演じたに過ぎない入城式。背景となった中山門は実物だが書割に堕した。観客としての中国の人民はエキストラとしてさえ存在しなかったという。今井によれば、行進も沿道も日本軍と報導戦士のみで、中国人はもちろん欧米第三国人の姿はなかったという。 

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 安全区は日本兵用の売春宿になった

・日本兵が塀を乗り越えて侵入
十二月十七日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。
安全区は日本兵用の売春宿になった
塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまづく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなことを言った。

「安全区は日本兵用の売春宿になった」

当らずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
昨日のヴォートリンの日記を参照してください。

アッパーカット?
仲間のハッツ(R. R.Hatz、オーストリア、安全区機械工)がひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は腰の銃剣をぬいたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。
英文では "who reaches for his sidearm" 携帯武器に手をかけたが
独語原著では "Seitengewehr"で、独和辞典によれば「(腰に帯びている)銃剣」。動詞に"ziehen"を使っていて、英語だと"draw" "pull"にあたる動詞だから、「抜いた」ようだ。(Apemanさん情報)

岡崎総領事、オイオイ
きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いてるじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。
泥棒兵も西洋大男には弱い
クレーガー(Christian Kroeger、ドイツ礼和洋行)といっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、"We friend・・・you go!"(俺たち友達ね---さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。
と思ったら、再犯。
時刻は晴れの式典が行われている頃。
このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。"I thank your present ! Nippon Army, K. SAto. "(プレゼントどうも! 日本軍、K・サトウ 写真あり)
ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!


日本兵の死体整理
軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている(日本語版口絵写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。
夜。難民たちに筵。まらまら塀のぼり兵。
午後六時、庭にいる難民たちに筵(むしろ)を六十枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
「ヒットラー」の霊験
アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ !」あるいは「ヒトラー !」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。
日本大使館に抗議の手紙
きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし),二等書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。
発電所の復旧について
私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。
ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路二四四号。
「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ
日本人は(福井、福田両氏のこと)本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官への挨拶と次のことを二人に託した。

「『市長』の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」
※日本語訳は、「日本軍」となっているが、英文では、 "the Japanese"(ドイツ語原著でも"Die Japaner"--Apemanさん情報)。つづいて、"I tell them to give commandant ---" とあるから、そこにいた二人のことだろう。「円満にことを運んでおく方がいい」と日本“軍”が考えていたとラーベが判断したわけではない。希望的観測を一縷の望みとして、ラーベは日本人が一枚岩だとは思っていない。

『福田氏』にラーベおやっさんの最大限の皮肉は通じただろうか?

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 第6号文書

ラーベの日記のドイツ語版原著と英語版の巻末には、12月17日に安全区国際委員会が日本大使館二等書記官福井淳氏宛に送った公式文書が載っている。しかし、日本語版「南京の真実」では割愛されている。
http://latemhk.tdiary.net/19371217.html
人口問題でよく引用されるが、文書の主旨はそんなところにはない。
[]

2007-12-18 (占領6日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 中国軍に勝る無統制な軍隊

きのう最高司令官松井石根を迎えて「入城式」が行なわれたことは、ラーベの耳にも入ったことだろう。しかし、昨日のヴォートリンの日記にもあるように、22人の英米人は、安全区に逃げこんだ無辜の民の命を日本軍から守るために必死で、入城式のことなど話題にもできない。中国人も参列してないのだから、噂すら聞いていない

どうしてまた、これから南京の軍政をあずかる軍司令部や特務機関は、ラーベ達を「式典」に招待しないのか? 相手が応じる応じないを別にして、招待するほうが立場は優位になるのではないか。栄えある入城式を世界に知られては拙いのか? 戦争という国際政治の極限形態を遂行しながら、国際感覚がこれっぽちもない。あきれ返った自己満足国家ではないか。 ※去年のつっこみ
十二月十八日

最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。
お腰につけた銃剣

中国人蔑視に、将校のいうことを聞かない掠奪兵。
私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがあった。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、目と鼻の先で車が盗まれたこともあった。何とか苦労して取り戻すことができたが。将校の言うことになど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。

中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで! 
日本語のお札
私は発電所の復旧の件で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に車で戻った。 
ビンタという万能薬
家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。将校はその兵に、平手打ちを食らわせ、それから放免した。
ラーベ自身も略奪の被害に
ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたという。私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。「一人で先にいってください」。次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。

しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」
この、発電所の復旧の件で話し合った将校の名前が知りたい!

ラーベ邸でも強姦未遂
十八時

危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつをただちにつまみ出した。もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。
憲兵隊
夜八時になってハッツがトラックに案内した。隊長率いる一隊の憲兵を乗せており、金陵大学を今夜ガードしにきたと思われる。日本大使館での抗議がいくらかは役に立ったようだ。
英文では、
At 8 o'clock Herr Hatz shows up in a truck with a Japanese police commissioner and a whole battery of gendarmes, who are supposed to guard Ginling College tonight. Our protest at the Japanese embassy already seems to have helped a little.

第10軍憲兵隊長上砂勝七は、上海から南京への侵攻戦での軍紀の乱れについて
何分数個師団二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは、如何とも方法が無い。補助憲兵の配属を申し出ても、駐留中ならば聞いてもくれようが、敵を前にしての攻撃前進中では、各部隊とも一兵でも多くを望んでいるのであるから、こちらの希望は容れられず、僅かに現行犯で目に余る者を取押える程度で
と書いているが、南京占領においても軍紀の乱れは僅かな憲兵の手に負えるものではなかった。 「日本軍の軍紀」ー憲兵の認識

さらに、東京裁判の日高信六郎(在南京日本大使館参事官)証言によると、12月17日現在の城内憲兵はわずか14人とある。これは上海派遣軍所属の憲兵(長、横田昌隆少佐)と思われる。(秦郁彦「南京事件」p102)

ラーベが見た、トラックに乗った憲兵の一部隊(a whole battery)とはどんな部隊だったのだろうか?
寧海路五号にある委員会本部の門を開けて、大ぜいの女の人や子どもを庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。

わが家のたった五百平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。三百人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいるかぎり、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときはけっして安全ではなかった。もらった貼り紙はあまり役に立たない。兵士たちはほとんど気にしないのだ。彼らはたいてい塀を乗り越えてやってくる。

張のかみさんの容態が夜に悪くなり、今朝もういちど鼓楼病院へ連れていかなければならなかった。悲しいことに、鼓楼病院でも看護婦が何人か暴行にあっていた。
ああ、糸の切れた皇軍。
天皇統帥権を錦の御旗にした日本軍人の独断専行。統帥権は戦場において、軍隊組織の統制の糸を切る鋏となった。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] ヴォートリンの日記12月18日

一二月一八日土曜日
 いまは毎日が同じ調子で過ぎて行くような気がする。これまで聞いたこともないような悲惨な話ばかりだ。恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子どもたちが早朝から続々とやってくる。

 彼女たちをキャンパス内に入れてやることだけはできるが、しかし、みなの落ちつく場所はない。夜は芝生の上で眠るしかない、と言い渡してある。具合の悪いことに、寒さがかなり厳しくなっているので、これまで以上の苦痛に堪えなければならないだろう。

 比較的に年齢の高い女性はもちろんのこと、小さい子どものいる女性にたいしても、未婚の少女たちに場所を譲るため、自宅へ帰るよう説得を強めているところだ。

 「アメリカの学校です。セイヨーガクインです」と叫びながらキャンパス内をあちこち走り回って毎日が明け暮れていく感じだ。たいていの場合、立ち退くように説得すればそれですむのだが、中にはふてぶてしい兵士がいて、ものすごい目付きで、ときとしては銃剣を突き付けてわたしを睨みつける。

 きょう南山公寓へ行き、掠奪を阻止しようとしたところ、そうした一人がわたしに銃を向け、次には、いっしょにいた夜警員にも銃を向けた。

   昨夜恐ろしい体験をしたことから、現在、わたしのいわば個人秘書をしているビッグ王を同伴して日本大使館へ出向くことにした。わたしたちの実状を報告すれば、何か援助をしてもらえるかもしれないと思ったからである。

 漢口路と上海路の交差点まできて立ち止まった。サール・ベイツに同行してもらおうか、自分ひとりで行こうか、それとも、アメリカ大使館へ行って、相談したほうがよいのか、どれが最善の策かわからなかったからだ。

 幸いなことに、アメリカ大使館に行ったところ、そこで中国人書記官ないしは事務員の T ・ C ・唐氏に会うことができ、大いに助かった。彼が特別の書簡を二通書いて、大使館の車で送ってくれたので、わたしは堂々と日本大使館に乗り込んだ。

 そこで、わたしたちの困難な体験のこと、また金曜日の夜の事件のことも報告し、そのあと、兵士たちを追い払うために持ち帰る書面と、校門に貼る公告文を書いてほしいと要請した。両方とも受け取ることができて、ことばでは言いあらわせないほど感謝しながら戻ってきた。

 田中氏は物わかりのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵二名に夜間の警備をさせるつもりだ、と言ってくれた。

 降車するさい大使館の運転手にチップを渡そうとすると、運転手は、「中国人が壊滅的な打撃をまぬかれたのは、ごく少数ではあるけれど外国人が南京にいてくれたからです」と言った。もしこの恐るべき破壊と残虐が抑止されないとしたら、いったいどういうことになるだろうか。昨夜はミルズと二名の憲兵が校門に詰めてくれたので、久しぶりに何の憂いもなく安らかに就寝できた。

 わたしがこの執務室でこれを書いているいま、室外から聞こえてくるわめき声や騒音をあなたたちに聞いてもらえたらよいのだが。この建物だけで六〇〇人の避難民がいると思うが、今夜はきっと五〇〇〇人がキャンパスにいるのではないだろうか。

 今夜はすべてのホールに、そしてベランダにも人が溢れていて、ほかには場所がないため、彼女たちは渡り廊下で寝ている。いまとなっては部屋を割り当てるつもりはない。初めのころは観念的な発想から、割り当てをするつもりだったが、しかし、いまは入れる場所にいっぱい入ってもらうしかない。

 メリー・トゥワイネンもブランチ呉も実験学校へ引っ越して行った。
[]

2007-12-19 (占領7日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][戦況と民衆] あいかわらず野放しの兵隊

十二月十九日

わが家では静かに夜が更けていった。寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、二十人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路八十三〜八十五号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。
南京安全区国際委員会御中

ここに署名しました五百四十人の難民は、広州路八十三〜八十五号の建物の中にぎゅうぎゅうに押しこまれて収容されています。

今月の十三日から十八日にかけて、この建物は三人から五人の日本兵のグループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまでに三十人以上が暴行されました。女性や子どもたちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません! どうか、われわれをお助けください!

   南京にて、一九三七年十ニ月十八日
      難民一同
いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。これでは発電所を復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。今日そのことでまた菊池氏がやってきた。私はいってやった。

「作業員は逃げてしまいましたよ。そりゃそうでしょう、私たちヨーロツパ人さえひどい目にあっているというのに、自分たちが安全なわけがないと思ってるんですよ」

すると菊池氏はいった。

「ベルギーでもまったくおなじ状態でした!」
菊池氏のフルネームは不明。1914年のドイツによるベルギー侵攻のことらしい。

飢えた夜盗。
十八時

日本兵が六人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。おまえらにはそれで十分だ。なにも扉を開けてやることはない。
大火事
わが家の南も北も大火事になった。水道はとまっているし、消防隊は連れていかれてしまったのだから、手の打ちようがない。国府路ではどうやら一ブロツクがそっくり燃えているようだ。空は真昼のように明るい。

庭の難民は、三百人だか四百人だか正確にはわからないのだが、筵や古いドア、ブリキ板で掘ったて小屋をつくって、少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。だがこまったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。禁止しなければ。大きい石油缶が六十四個もおいてあるので、気が気ではない。けっきょく二ヵ所だけ、料理をしても良い場所をきめることにした。

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] ヴォートリンの日記12月19日

一ニ月一九日 日曜日

 けさも怯えた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。たくさんの人が脆いて、キャンパスに入れてほしいと懇願した。入れはしたものの、今夜はどこで寝てもらうことになるのだろう。

 八時、一人の日本人が日本大使館のTeso氏といっしょにやってきた。避難民用の米が十分にはないと聞いていたので、安全区本部へ同行してほしいと頼むと、彼はそのとおりにしてくれた。安全区本部からドイツ車で、米の配給の責任者であるソーン氏のところに行くと、彼は、九時までには米を届けると約束してくれた。

 このあとわたしは車で寧海路まで戻らなければならなかった。いまや外国人が乗っていないかぎり、車の被害を防ぐことができない。

 歩いて学院へ戻ってくると、娘をもつ母親や父親、それに兄弟たちが、彼女たちを金陵女子学院に匿ってもらいたいと何度も懇願した。中華学校の生徒を娘にもつ母親は、きのう自宅が何度となく掠奪をこうむり、これ以上は娘を護りきれない、と訴えた。

 それからは、日本兵の一団を追い出してもまた別の一団がいるといった具合で、キャンパスの端から端まで行ったりきたりして午前中が過ぎてしまった。南山にはたしか三回行ったと思う。

 そのあとキャンパスの裏手まできたとき、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱したような声で言われた。その二階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎二階の五三八号室に行ってみると、その入り口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。

 日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した。卑劣な所業に及んでいるその二人を打ちのめす力がわたしにあればよいのだがと、激怒のあまりそう思った。日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。

 このあと呼び出されて北西の寄宿舎に行ってみると、そこの一室で日本兵二人がクッキーを食べていた。彼らも慌てて出て行った。

 午後おそく二つの日本軍将校グループが別々にやってきたので、ふたたび、金曜日夜の出来事やけさの事件のことを伝える機会を得た。

 今夜は四名の憲兵がキャンパスにきているが、あすは一名にしてもらいたい。今夜、城内の少なくとも三カ所で大きな火災が発生している
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2007-12-20 (占領8日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 日本軍の評判?

十二月二十日
委員会本部に日本人将校がきていた。南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。このホテルを日本軍の参謀将校たちが占領するためだという。私は十六人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、五中国ドル支払われるという約束だった。これが日本軍当局が示したはじめての真摯な対応だった。中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。
首都飯店:上海派遣軍の司令部
寧海路に戻って、棲霞山の江南セメントエ場(※)のベルンハルド・アープ・シンバーグ氏とはじめてあった。けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。ラジオで、南京は完全に落ち着いており、電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを、日本軍のトラックに拾われたという。おそらく北門から入ったのだろう。問題は、どうやって帰るかだ。
南京の東北東約20km棲霞山にも国際難民キャンプがあった。そこの指導者が、デンマーク人シンバークであった。
午後六時、ミルズ(※W.P.Mi11s、合衆国長老派教会伝道団)の紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員(※守山義雄氏のことか)が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、普通のジャーナリストらしいやり方でインタビューした。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
※英文では、"Moriyama speaks good German and English and interviews me in regular journalsitic fashion."
日本語訳の「あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。」というのはマヌケてる。質問の仕方からジャーナリストとして信頼できそうだ、とラーベは判断したのだろう。

さて、朝日新聞の守山特派員はこの日のラーベインタビューを、一体どのような記事に仕立てたのだろうか?
現実と戦時報道の落差を見てほしい。
「東京朝日新聞」 1938.1.5付夕刊

税金、物価高解消 甦つた”暗黒街”  南京外人の座談会
【南京にて三日守山特派員】

首都落城の歴史的戦火のなかに危険ををかして南京にふみとどまつた欧米人はアメリカ人十四名、ドイツ人四名、オーストリア人二名、白系露人二名、計二十二名を数えてゐるが、東亜をおほふこの大戦火が彼らの目にどううつつたか、異なつた印象のうちでも籠城外人たちが口をそろへて一様に唱へるのは南京の陥落が意外に早かつたこと、支那兵が優秀な日本軍に対して意外に頑強な抵抗を試みたことであつた。

記者は南京入城後にこれら外人に会ふごとにその談話をひろひあつめた、南京陥落をめぐる移動国際座談会である―

ベーツ氏 (略)
ラーデ氏 (ドイツ人、シーメンス商会在支代表社員、在支三十年、南京避難民国際委員会委員長)

日本の攻撃はすばらしかつた、われわれは南京がこんなに早く落城しようとは思はなかつた、私はアフリカに五年支那にすでに三十年住み数々の戦争を見てきた、しかしこんどのやうに激戦に終始してしかもわずか四ヶ月の間に大国の首都を陥落させたかがやける歴史をいまだ知らない、

私にとつては十三日のあさ堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた、

南京が完全に日本軍の手に帰してから四、五日目のある夜どこからともなく「南京はまだ陥落せず、市中には電燈がつき水道も断水してゐない」といつた内容のラヂオ放送がきこえてきたが、それは恐らく国民政府側の笑止な放送であらう。
(全文は、ゆうさんの「試行錯誤」投稿http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/ivhqrf/ucaqrf.html#ucaqrf参照
この守山義雄氏は足立和雄(元朝日新聞特派員)手記にも登場する。
朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。“便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。
「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。
(『守山義雄文集』収録の足立和雄「南京の大虐殺」守山義雄文集刊行 会・1975年刊,本多勝一『南京への道』)
なお守山義雄氏は、後にドイツの敗退過程をベルリン特派員として報じたことで知られる。
いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。そのなかにはYMCA会館も入っている。これは故意の、もしかすると日本軍当局の命令によるとすら考えられる、放火ではないか。
(英文)"One might almost believe that these fires are set with the knowledge, and the perhaps even on the order, of the Japanese military authorities."
ブリキをうちつけておいたわが家の正門を、留守中に日本兵が銃剣でこじ開けようとしたらしい。結局開かなかったものの、銃剣の傷が残っているのとブリキ板の四隅が歪んでいるのがなによりの証拠だ。できるだけまっすぐになるよう、扉をハンマーでたたかせた。銃剣のあとは残しておくことにしよう。これも何かの記念だ。クレーガーがシンバーグをつれて、韓の車を貸してもらえないかと頼みにきた。シンバーグを送っていくつもりなのだ。韓は承知したが、私は内心よせばいいのにと思っていた。車がダメになるとはいわないまでも、タイヤがすり減ってしまうにきまってるからだ。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] ヴォートリンの日記12月20日

一二月ニ〇日 月曜日
 悲惨と苦難のうちに明け暮れる近ごろでは、快晴の天気だけが唯一の天恵であるように恩われる。

 八時から九時までわたしは正門に立ち、比較的に年齢の高い女性にたいし、彼女たちの娘を保護するために金陵女子学院が使えるように、自宅へ引き返してほしいと説得に努めた。みな、建て前としては承諾してくれるものの、帰宅するのをいやがっている。彼女たちが言うには、白昼に日本兵が再三再四やってきては、ありとあらゆる物を掠奪して行くのだそうだ。

 一〇時から一二時まで執務室で、日本大使館に提出するため、キャンパスにおける日本兵の所業について公式報告書を書こうとしたが、無駄な努力だった。というのは、日本兵を追い出しにきてくれと、キャンパスのあちらからもこちらからも呼び出しがかかるからだ。

 またもや南山公寓で、兵士二人が呉博士の整理だんすとスーツケースを持ち去ろうとしているところを見つけた。日本兵を追い払うため、昼食の途中でメリーとわたしはキャンパスの三カ所へ出向いた。彼らは食事の時間にくるのが好きらしい。日中も憲兵にいてもらうようにしようと思っている。

 三時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵がきてくれることを大まじめに願っていた。
もしかすると松井石根?
清涼山に行ったのは19日だから違うかな?
 中央棟にひしめく避難民の視察をわたしたちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らはわたしたちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、脆いて助けを求めた。

 わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることはできない。
高級将校は不良兵にも、やさしい。
   午後四時、ビッグ王といっしょにアメリカ大使館に行き、そこから日本大使館に連れて行ってもらった。ふたたび実状を伝え、使用人二人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。アチソン氏の料理人の話では、彼の父親が射殺されたが、死骸を埋葬するために家へ戻る勇気のある者がいない、というのである。
 驚いたことに、夕食のすぐあと、今夜の警備要員として憲兵二五名がキャンパスに派遣されてきた。どうやら、午後発生した事件の効き目があったようだ。地図を書いてキャンパスの危険箇所−とくに北西隅の部分−を指摘した。
やっぱりあれは、かなりの高級将校だったか?
 今夜は渡り廊下にも避難民がいっぱいで、おそらく六〇〇〇人以上がいるだろう。今夜は東の空が明るい。城内では掠奪が続いている。
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2007-12-21 (占領9日目)

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][所行無情] 火災で目を醒ます

十二月二十一日
日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市中の六ヵ所で火が出た。

夜中の二時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。わが家と中山路の問にはもう一ブロックしか家が残っていない。もうすこしでそこに燃え拡がるところだったが、運良く難をのがれた。ただし、火花が舞い、飛び散っているので、藁小屋とガソリンはますます危険な状態だ。気が気ではない。何としても、ガソリンだけはどこかほかへ移さなくては。
アメリカ人は非常に苦労している
アメリカ人の絶望的な気分は次の電報をみるとよくわかる。
南京、一九三七年十二月二十日、
在上海アメリカ総領事館御中。

重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。
マギー、ミルズ、マツカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。
一九三七年十二月二十日南京日本大便館御中。
海軍基地無線を通じて転送を要請します。
M・S・ベイツ
ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。だがこれでは何もかもつつぬけだ。日本は承知するだろうか?

それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、家と車のドイツ国旗をこれ見よがしにつきつければ、いちおうのききめはあったが、アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。今朝早く、日本兵に車をとめられたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、相手はすぐに道を空けた。それにひきかえ、トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。運良く弾はそれた。だが、我々外国人に銃口が向けられたということが、そもそも言語道断だ。これでは、アメリカ人の堪忍袋の緒が切れてしまうのも無理はない。しかも彼らは何千人もの婦女子を自分たちの大学に収容して面倒をみているのだ。
日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ
昨日、スマイスはこんなことをいっていた。いったいいつまで、ハツタリをきかせていられるのだろうか。その気持ちはよくわかる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろう。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。

午前中にガソリンを残らず本部へ移させた。中山路でこれからまだ相当数の家が焼け落ちるのではない.かと心配だからだ。そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラツクが何台もやってくる。それから略奪、放火の順だ。
デモ?行進
午後二時、ドイツ人やアメリカ人全員――つまり外国人全員が鼓楼病院前に集結して、日本大使館ヘデモ行進を行った。アメリカ人十四人、ドイツ人五人、白系ロシア人二人、オーストリア人一人。日本大使館あての手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の三点を要求した。
  1. 街をこれ以上焼かないこと。
  2. 統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること。
  3. 食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序がもどるよう、必要な措置をとること。
デモ参加者は全員が署名した。

われわれは日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。 われわれは松井司令官に紹介された。彼は我々全員と握手した。大使館では私が代表して意見を言い、田中正一副領事に、日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束してくれた。だが第三点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、われわれのことなど知ったことではないというのだろう。
松井石根と会ったのか?それとも別の司令官か?この日の松井の行動を確認する必要がある。
※<英文)では、 "We are introduced Commandant Matsui, who shakes hands all round." 握手のみで会談はしてない。松井とは表敬に過ぎず、会談は田中領事と別室で、なのだろう。
コメント
そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ビーに乗っているのだが、まだ上陸を許されていない。これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。ローゼンはじめ、シャルフェンベルク・ヒュルターの両人がどうしてビーに乗っているのかわからない。福田氏にそのことをいうと、ジャーディン社の船が爆撃されて、沈没したのではないかと心配していた。


ローゼン書記官よりジョン・ラーぺあての手紙 南京を目前にして、一九三七年十二月十九日
イギリス砲艦ビー船上より

親愛なるラーべ氏、
昨日から南京市を目の前にしながら上陸することができません。
皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうか、お知らせください。
なお、ここからは大使あてに無線で連絡がとれます。
当方にもいろんなことがありました。このことはいずれお目にかかった折にお話しします。

この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、とにかくやってみます(願わくは私への返事もうまくいくといいのですが)。
よろしく。ハイル・ヒトラー!   敬具
ローゼン

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] まさか警備兵までが

一二月ニ一日 火曜日
 毎日がうんざりするほど長く感じられる。毎朝、どのようにすれば日中の一二時間を過ごせるだろうかと思案する。

 朝食のあと、例の二五人の警備兵が昨夜危害を及ぼした(女性二人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。そうしないと兵士の恨みを買うことになり、そのほうが当面している災難にもまして始末が悪いかもしれない。
昨日の午後、やってきた日本軍高級将校が、日本軍兵士による婦女子拐帯事件を目撃した。そして、夜、25人の警備兵が配備された。ヴォートリンはそれを高級将校の配慮ではないかと喜んだ。・・・・その警備兵が、婦女子を守りにやってきたはずの警備兵が、よりによって強姦事件を起こしたのである。
 メリーと程先生は、粥をもらうさいには列をつくって待つようつねづね女性たちに指導しているが、二人が根気強ければ、これから先もたぶん指導を続けることだろう。もともと十分な量の粥はないのに、必要以上に持って行く人もいる。

 一一時に王さんといっしょにアメリカ大使館へ行き、午後、車で日本大使館に送ってもらう手配をした。

 一時三〇分、アチソン氏の料理人といっしょに車でキャンパスの西の方角に向かった。料理人は、七五歳の父親が殺されたと聞いていたので、ぜひ確認したかったのだ。わたしたちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。老人の死骸を竹薮に引き入れ、上にむしろをかけた。老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護してもらうことを拒んでいた。

 二時に大使館に着いたが、領事は不在だったので、四時にまた訪れることにした。門を出ようとしたとき、運よく領事の車に出くわしたので、引き返して会見した。

 わたしたちは領事に、たいへん申し訳ないが、あんなに大勢の兵士に石炭や茶やお菓子を出すことはできないし、それに、夜間に派遣してもらう憲兵は二名だけ、昼間は一名のはずではなかったか、と言った。領事はとても察しのよい人で、昨夜は二五人もの警備兵がキャンパスにいたにもかかわらず、万事うまくいったわけではないことを理解した。

 午後、城内にいる外国人全員で、日本軍のためだけでなく南京の中国人二〇万人のためにも、南京に平和を回復するよう求める請願書を提出した。わたしは、ついさっき日本大使館から帰ってきたばかりだったので、みなに同行しなかった。
ラーベの日記にある"デモ"のこと。
 日本大使館を出てから、今度はアメリカ大使館の使用人といっしょに三牌楼にあるジェンキン氏宅へ行った。彼の家は、アメリカ国旗を掲揚し、日本文の布告や東京あて特電の文を掲示することによって護られていたにもかかわらず、徹底的な掠奪をこうむった。ジェンキン氏が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。彼は雇い主の家を出て大使館に避難することを拒んでいた。

 かつて南京に住んだことのある人なら、いまの街路がどんなありさまになっているか想像もつかないだろう。これまでに見たこともないほどひどい惨状だ。路上にはパスや乗用車が引っくり返り、すでに顔の黒ずんだ死体があちこちに転がり、捨てられた軍服がいたるところに散乱し、住宅や商店はすべて焼け落ちているか、そうでなければ、掠奪されたり打ち壊されたりしている。安全区内の街路は混雑しているが、安全区外では日本兵以外はほとんどだれも見かけない。

 車で街路を通行するときは、どこの国の国旗を掲げていても、外国人が乗っていなければ安全ではないので、大使館の車はわたしが乗って大使館に返してきた。

 王さん、老邵といっしょに−一人だけで外出するのは躊躇しているので− 歩いてキャンパスに戻る途中、悲嘆に暮れた男性が近づいてきて、助けてもらえないか、と言った。二七歳の妻が女子学院から帰宅したばかりのところに、三人の日本兵に押し入られた。彼は家から追い出され、妻は日本兵に捕らえられてしまった、という。

 今夜はきっと六〇〇〇人ないし七〇〇〇人( いや九〇〇〇人ないし一万人?) の避難民がキャンパスにいるにちがいない。わたしたちはわずかな人数で対処しており、疲れ果ててしまった。こんな激務にあとどのくらい耐えられるかわからない。

 現在、大きな火災が北東から東へ、さらに南東の空を照らし出している。毎日、夜はこうした火災が空を照らし、昼間は濠々とあがる煙によって、いまなお掠奪と破壊の行為が続いていることがわかる。戦争の産み出すものは死と荒廃である。

 わたしたちは外界との接触を完全に断たれている。何が起こっているのかまったくわからないし、こちらから外界にメッセージを送ることもできない。校門から外を眺めていると、門衛が、一日一日が一年のように思え、人生からいっさいの意味が失われてしまった、と言ったが、まったくそのとおりだ。先が見えないのが悲しい。かつては活力に溢れ、希望に満ちていた首都も、いまや空っぽの貝殻のようだ。哀れを誘う悲痛な貝殻だ。

 何日も前に作成した無線電報がいまだに送れないでいる。
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2007-12-22 (占領10日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 日本側の「難民委員会」

十二月二十二日
憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。
※「日本側の難民委員会」とは22日に成立した「城内粛清委員会」のことか
そのあいだも、軍の放火はやまない。はらはらしどおしだ。上海商業儲蓄銀行(※)そばの建物に延焼中の火事が、メインストリートを越えて安全区の一部である西側にまで拡がったらと。 そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼々に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。
※(英文)"the Skanghai Com-Sav Bank"
Shanghai Commercial and Savings Bank
(日本語版)「火事が上海商業儲蓄銀行(※)のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている」だが、
(英文)"I am constantly worried that the fire destroying buildings near the Shanghai Com-Sav Bank will spread across to the west side of the main street, which is part of the Zone."

七ヵ所で火災
わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。オフィスと庭も見わたすかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされてだれもが血のように赤く染まっている。今数えただけでも、七ヵ所で火災がおこっている。
18日の日記に、「五百平方メートルほどの庭や裏庭」とある。家を含めると600平方メートルくらいか。難民は600人というから、1メートル四方に一人という人口密度だ。

発電所作業員虐殺事件
私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。

ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ!それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。
この事件については、渡辺さんのサイトが詳しい。
資料:『ラーベと発電所復旧』。なにかの巻き添えで殺されたわけではない。国営の発電所作業員だからという理由で殺されたのである。あまりにも酷い!これを虐殺といわずに何と言うのだろうか。
畝本氏のラーベ日記批判本では、この事件は無視されている。

助けにいったクレーガーとハッツの二人も襲われた
今日の午後、酔っぱらった日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。それを知って助けにいったクレーガーとハッツの二人も襲われた。ハッツは椅子を使って身を守った。だが、クレーガーのほうは日本兵にしばられそうになった。やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうはならなかっただろうが。フィッチと私が車でかけつける途中、むこうから二人がもどってくるのに出くわした。フィッチと私は二人をのせてただちに現場にむかった。するとその兵隊は、偶然通りかかった日本の将校から平手打ちを食っていた。そばには日本大使館の田中氏もいた。

その日本兵はどうやらクレーガーたちに不利になるような報告をしたらしい。しかし、将校はかまわずなぐり続け、ついにそいつは目に涙をためた。この事件は我々にとって悪い結果にはならなかった。だが、いつもそうなるとはかぎらない。

[ヴォートリンの日記][所行無情] 昼間はできるだけ休息をとるようにした

一二月ニニ日 水曜日

 けさは機関銃や小銃の音が頻繁に聞こえる。たんなる訓練だろうか、それとも、さらに多くの無辜の民衆が射殺されているのだろうか。

 急に気力が尽きてしまい、ここ何日も続いた緊張感と悲しみで疲れ果ててしまった。きょうは午前中に日本大使館の警官と、午後は大使館付武官〔正しくは領事官補〕の福田氏と、夕方には夜間警備員の責任者と会見したほかは何もしていない。

 昼間はできるだけ休息をとるようにした。メリー・ T とビッグ王がここにいて助けてくれるのは、神からのすばらしい賜物だ。程先生の助言はすべて思慮深く、計り知れないほどありがたいが、先生もまた、疲労が激しい。
きょうは避難民に粥を出していない
 きょうは避難民に粥を出していない。理由は、処理能力が追いつかないということだけだ。目下、配給方法を改めようとしているところだ。貧しくて米を買えない人には、目印の赤い札を服に縫い付けてもらう。そうすれば、今後はその人たちが先に配給を受けることになる。毎度のことながら、列のおしまいまで行かないうちに粥は底をついてしまうことから、その日粥をもらえなかった人たちには整理券を用意した。次回の配給のときにその人たちが最優先されるようにするためだ。
キャンパスには避難民がおよそ一万人
 現在、キャンパスには避難民がおよそ一万人いるとみる人もいるが、わたしは、あえて人数を推計しようとは思わない。理科棟では、二つの部屋とホールと屋根裏だけを開放して、およそ一〇〇〇人が収容されている。そうしてみると、文科棟には二〇〇〇人を収容しているにちがいない。文科棟の屋根裏だけで一〇〇〇人近くがいるそうだ。夜間には渡り廊下に一〇〇〇人ほどがいるにちがいない。

 今夜フィッチ氏がやってきて、収容しきれない人たちのために文史資料棟を開放してもらいたいかどうか、わたしたちに尋ねてくれたので、もちろん、そうしてもらいたい、と答えた。
発電所作業員虐殺事件
 午後、アメリカ聖公会伝道団のフォースター氏が訪ねてきて、次のような悲しい話をした。日本大使館は、電燈が点燈できるように発電所の修理をさせたいと思っていた。そこでラーベ氏は従業員五〇人を集め、彼らを発電所に連れて行った。午後、彼らのうち四三人が、中国政府の官吏であるとの理由で日本兵に射殺された。

 また、フォースター氏は、土曜日に女子学院で英語によるクリスマス礼拝をおこなうことができるかどうかを知りたがっていた。外国人がそろって一堂に集まると人目につく虞れがあるので、メリーとわたしは、それは賢明でないと気乗りがしない。
二五人の警備兵
 毎晩、二五人の警備兵がキャンパスに派遣されている。彼らが配置された最初の晩、いくつかの不幸な事件が発生した。昨夜は何事もなく平穏だった。今夜も昨夜と同じ方式、つまり、日本兵には外を警備してもらい、中はわたしたちが警備するという方式をとることを上手に提案した。

 城内の状況はいくらかよくなっているらしい。火災はいまなお何件か発生しているが、たしかに、少なくなった。依然として外界と接触することはできない。

[名簿] 南京安全区国際委員会名簿

南京安全区国際委員会名簿

委員長
ラーベ(John.H.D.Rabe) ドイツ シーメンス会社

秘書
スミス博士(Lewis.S.C.Smythe) アメリカ 金陵大学

委員

フォーレ(P.H.Wunro-Faure) イギリス アジア石油会社
マギー牧師(John G. Magee) アメリカ アメリカ聖公会
シールズ(P.R.Shields) イギリス 和記洋行
ハンソン(J.M.Hanson) デンマーク テキサコ石油会社
パンティン(G.Schultze.Pantin) ドイツ 興明貿易公司
マッケイ(lvor Mackay) イギリス バターフィールド・スワイア会社
ピッカーリン(J.V.Pickering)  アメリカ スタンダード・オイル会社
スペリング(Eduard Sperling)  ドイツ 上海保険公司
ベーツ博士(M.S.Bates)  アメリカ 金陵大学
ミルス牧師(W.P.Mills) アメリカ 長老会
リーン(J.Lean)  イギリス アジア石油会社
トリマー院長(C.S.Trimmer)  アメリカ 鼓楼医院
リッグス教授(Charles H. Riggs) アメリカ 金陵大学

「チャイナネット」資料:http://www.china.org.cn/japanese/169647.htm

[名簿] 国際赤十字南京委員会委員名簿

国際紅まんじ会南京委員会委員名簿

委員長
マギー牧師(John G. Magee) アメリカ アメリカ聖公会

副委員長
李健南(音訳)
ラウエ(W. Lowe)

秘書
フォスター牧師(Ernest H. Forster)

会計
クリューゲル(Christian Krueger) ドイツ カルウェッツ会社

トウィーネム夫人(Paul Dewitt Twinem) 
ヴォートリン女史(Minnie Vautrin) アメリカ 金陵女子文理学院
ウィルソン医師(Robert O. Wilson) アメリカ 鼓楼医院
フォーレ(P.H.Wunro-Faure) イギリス アジア石油会社
トリマー院長(C.S.Trimmer) アメリカ 鼓楼医院
マッガルン牧師(James Mcgallun) 
ベーツ博士(M.S.Bates) アメリカ 金陵大学
ラーベ(John.H.D.Rabe) ドイツ シーメンス会社
スミス博士(Lewis.S.C.Smythe) アメリカ 金陵大学
ミルス牧師(W.P.Mills) アメリカ 長老会
ポドシヴォーロフ(Cola Podshivoloff)
沈玉書牧師(音訳)

「チャイナネット」資料:http://www.china.org.cn/japanese/169650.htm
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2007-12-23 (占領11日目)

[戦況と民衆][所行無情] リンク:第二次上海事変〜南京戦の戦場(再掲)

日中戦争スタディーズ
http://blog.goo.ne.jp/1937-2007/e/1cd690586e0781bde917b1e13d5ab5e4

[ラーベの日記][戦況と民衆][所行無情][国際委員会] かっぱらいが来て損害の一覧表を書く暇がない

十二月二十三日
昨夜、総領事館警察の高玉主任来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。なんと今日の昼までに、という。そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。
日本語版は「総領事館警察の高玉清親氏」とあるが、英文は "Police Chief Kakadama"
ゆうさん資料集のフィッチ手記を参照のこと
(前略)
ところが、大使館警察署長のタカタマ(訳注 Takatama,Chief of the Embassy polliceとあるが、高玉清親は南京総領事館の巡査《十二月十四日南京着》である)はわれわれを訪問し、外国人の建物全部を保護すると現に約束し、スパーリングと一緒にドイツ人資産を検分に出かけました。(後略)
どうやら高玉氏とは、威張りくさり大言壮語する典型的な警官のようだ。ラーベやフィッチには "Chief(署長)" であるかのように名乗ったのだろう。
  ※満州での領事館警察の体質については、リットン調査団を欺く関東軍が参考になります。

金庫破り
リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。
※「なにしろ、中島師団長によれば「中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがある」くらいですから。」→過去コメント

またぞろ塀登り
昼食のとき、兵隊が三人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。今度は六人。今回もやはり塀越しにご退場願った。思えば、こういう目にあうのもそろそろ二十回ちかくになる。
聞いても動じるようすもない
午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を二度とわが家に踏みこませない。命がけでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じるようすもない。肩をすくめ、それで一件落着だ。「申し訳ないが、憲兵の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができないんですよ」
火の粉が北へ舞っている
昨日も同じところで火事があった
六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。同じころ、上海商業儲蓄銀行の裏からも火の手があがっていた。これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。

わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、おそろしぺも美しく燃えさかる炎を息をのんで見つめていた。もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。かれらにとっての最後の希望、それは私だけなのだ。
明日はクリスマスイブ
張は、小さな石油ランプを四つ、モミの小枝で飾り付けた。目下のところ、照明といえばロウソクの残りのほかはこれしかない。それから赤いアドヴェントシュテルン(クリスマスに使う星形のロウソク立て)を出してきて、ロウソクに赤い絹のリボンを結びつけた。そうだ、明日は十二月二十四日、クリスマスだ。しかも娘のグレーテルの誕生日ではないか。
Adventstern 
クリスマスだからといって、友人の靴屋が古いブーツの底を張り替えてくれた。そのうえ、革の双眼鏡カバーまで作ってくれたのだ。お礼に十ドル渡した。ところが靴屋は黙って押し戻した。張がいった。「そりゃ、受け取れませんよ」私に深い恩があるから、というのだ!
靴屋の「恩」とは⇒10月17日、11月22日、11月25日の日記を参照のこと
今目、シンバーグが棲霞山から持ってきてくれた手紙には(彼は、江南セメントエ場〜南京間をふつう一時間半で往復する)、棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] クリスマスミサは中止か?

一二月二三日 木曜日
 クリスマスまであと二日。例年のこの時期のキャンパスとは大違いだ。例年なら、クリスマスの準備や期待や喜びで何から何まで忙しい。ことしは恐怖と悲しみばかりで、次の瞬間には何が起こるかわからない。
警備兵は外を向いてね
 キャンパスは、きのうときょうは比較的に平穏だった。きのうは三つの兵士グループが迷い込んできたが、きょうは一グループだけだった。ここ二日間も夜は平穏だった。警備兵は毎日交替するので、新しい警備隊がくるたびに、王さんとわたしは、彼らが外を警備してくれれば、わたしたちが中を警備するということを、あの手この手で説明している。
「高級軍事視察員」
 午後二時、高級軍事視察員が将校三名を伴って来訪し、難民が生活している建物の視察を要望した。城内が平穏になりしだい、避難民に帰宅を促すつもりであることをくりかえし伝えた。城内の事態はよくなってきているので、避難民たちはすぐに帰宅できると思う、と彼らは言っている。
虎踞関路の虐殺事件
 わたしたちの隣人で、虎踞関路からやってきた孫さんは、現在はキャンパスの東の中庭で生活している。彼女の話では、昨夜、六〇人ないし一〇〇人ほどの男性(ほとんどが若者)が金陵寺南方の小さな谷間へトラックで連れて行かれ、機関銃で射殺されたあと、一軒の家に運び込まれ、火をつけられたそうだ。
虎踞関路とは女子学院の西、安全区と清涼山との間。

火災は掠奪や殺戮の隠蔽か?
 わたしは、夜間に見られる多くの火災は、掠奪や殺戮を隠蔽するために起こされたものではないかと、ずっと以前から疑っていた。学院の使い走りの少年も生物学科の使用人の息子も殺されてしまったのではないかと、ますます心配がつのる。
クリスマスミサは中止か?
 わたしたちが不在中に何が起こるかわからないので、全員が一堂に集まってクリスマス礼拝をおこなうのは安全ではないと判断した。メリーとわたしは、そうした集会は疑惑を招くのではないかとも思っている。

 食料はますます乏しくなってきている。ここ何日間も肉は食べていない。いまや街ではどんな品物も買えない。鶏卵や鶏肉さえも、もはや手に入らない。

 今夜は八時三〇分に消燈する。人目につくといけないので、実験学校では蝋燭しか使っていない。

 道路が開通したらすぐにも、フランシス陳、李さん、陳さんを南京から脱出させたいと思っている。というのも、若い人たちはあまり安全でないと思うからだ。
メリー・トゥワイネンの家が掠奪
 メリー・トゥワイネンの家が徹底的に掠奪された。外国人が家の中にいればともかく、そうでない場合にはほとんどの住宅が掠奪をこうむった。みな忙しいので、家にいることなど不可能だ。

 きょうは雨が降っている。ベランダで寝ている人たちを、ともかく建物の中に押し込まなければならない。これまで数週間も続いた晴天は大いなる恵みだった。
メリー・トゥワイネン:中国籍の米人女性か
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2007-12-24 (占領12日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][戦況と民衆] クリスマスイブ


鼓楼病院
<news.jschina.com.cn
十二月二十四日
昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、ジーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。
鼓楼病院で
ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。
参照:「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる
地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。
参照:殺された7歳の少年のカット
この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらしい姿を見ても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほどの残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!
ラーベの家(写真上と庭)の難民総数は602人。計算してみればわかるが、畳1枚に2人。それに使用人とその家族で650人。20m×30mの中に、である。
私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。まだ当分は兵隊たちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。うちの難民は三百五十人から四百人くらいだとばかり思っていた。だが、今では全部で六百二人。なんとこれだけの人間が庭(たった五百平方メートル)と事務所に寝泊まりしているのだ。韓によると男三百二人、女三百人とのこと。そのうち十歳以下の子どもが百二十六人。ひとりは、やっと二ヵ月になったばかりだ。これにはジーメンスの従業員やわが家の使用人、またその一族は入っていないので、全部入れると六百五十人くらいになるのではないだろうか。
ボーイの張のかみさんが退院
張はうれしそうだ。かみさんが今朝退院したのだ。さっき車でつれてきたが、それからずっと屋根裏部屋で子どもたちと眠っている。そこしかあいていない。
クリスマス気分を味わわせようと
私に少しでもクリスマス気分を味わわせようとして、みながはりあっている。見ていると胸があつくなる!

張はクリスマスローズを買ってきて家をかざりつけた。小さなモミの木も。私のためにクリスマスツリーを飾ろうというのだ。どこかで長いロウソクを六本買ってきて、ついさっき上機嫌で帰ってきた。突如みなが私を好いてくれるようになった。昔は、だれにも好かれていないように思ったが。はて、あれは私の思い違いだったのかな? ふしぎだ。ドーラ、子どもたち、孫たち! 今日、私のために祈ってくれていることだろう。私にはちゃんとわかっているよ。おまえたちの深い愛に包まれているのを感じる。それを思うと私はかぎりなく癒されるのだ。この二週間、ただ苦しみしか味わわなかったのだから。私もおまえたちのために心で祈っている。世にもおそろしい光景を目にして、私たちはふたたび子どものころの無垢な信仰へと立ち返った。神、ただ神だけが、この恥ずべき輩、人を辱め、殺し、火を放っている無法集団から我々をお守りくださるだろう、と。
日本軍の城内警備の組織が変わったのか
今日、新たな部隊が着任するという知らせが届いた。これでようやくいくらか混乱がおさまるだろう。法にそむく行為はすべて、みせしめのために罰せられるにちがいない。ぜひそうであってほしい! その時が来ているのだ! 我々はじきに力尽きてしまう!

神よ守りたまえ。私たちがいま味わっている苦しみを、いつの日かおまえたちが味わうことのないように! この祈りを胸に、今日の日記を終えよう。ここに残ったことを悔いてはいない。そのために、多くの人命が救われたのだから。だが、それでも、この苦しみはとうてい言葉につくせはしない。

[warなひと人] 城内警備組織の変更

秦郁彦「南京事件」(P161-162)によれば、日本軍部隊は12月16日頃から新配置に向かう移動を開始した。
  • 第10軍主力は杭州占領作戦のため反転。24日杭州占領の後、南京―蕪湖間に分散駐留
  • 上海派遣軍第13師団は津南線に沿い北上
  • 第101師団は上海地区
  • 第9師団は蘇州地区
  • 天谷支隊は楊州地区に分散駐留
  • 南京地区には第16師団と若干の軍直属部隊が残った。
南京城内の警備と軍政は十二月二十一日、南京地区西部警備司令官(*)に就任、城内粛清委員長(二十二日付)と宣撫工作委員長(二十六日付)を兼ねた佐々木到一少将に一任される形となった。
  • 南京地区西部警備隊(歩三〇旅団、独立機関銃2大隊など)は主力を南京城内に、一部を江寧鎮、麟麟門、尭化門付近に配置、東部警備隊(歩一九旅団、騎二〇連隊など)は主力を湯水鎮に、一部を句容、淳化鎮などに配置した(中沢三夫資料)。
佐々木はかつて南京駐在武官の経歴を持ち『支那軍隊改造論』の著書もある中国通であり、適任者と見なされたのであろう。

ところが、この人選はとんでもたいミスキャストであった。往年は、陸軍随一の国民党通とされ、その同情者でもあった佐々木は、いつの間にか熱烈な反蒋論者、中国人嫌いに変っていたのである。城内警傭に関し、南京憲兵隊と特務機関、その他の軍直轄都隊を指揮下に入れ、第十六師団を実働部隊として与えられた佐々木は、すでにその必要はなくなったと思われるのに、苛烈な便衣狩りを再開した。
(秦郁彦「南京事件」P164-165)
第16師団(中島今朝吾中将)
 −歩19旅団(草場 辰巳少将)
     −歩兵第9連隊(京都)
     −歩兵第20連隊(福知山)
 −歩30旅団(佐々木到一少将)
     −歩兵第33連隊(久居)
     −歩兵第38連隊(奈良)

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] 女子学院のクリスマス

一二月ニ四日 金曜日
 あしたはクリスマス。一〇時ごろわたしの執務室に呼び出されて、一師団の高級軍事顧問と会見することになった。さいわい、大使館付の年配の中国人通訳を同伴してきた。
「高級軍事顧問」、売春婦100人を選別したい、と
 ここの避難民一万人のなかから売春婦一〇〇人を選別させてもらいたいというのが日本軍側の要求であった。彼らの考えでは、兵士が利用するための正規の認可慰安所を開設することができれば、何の罪もない慎みある女性にみだらな行為を働くことはなくなるだろう、というのだ。

 以後は女性を連行しないことを彼らが約束したので、物色を始めることを承知した。その間、軍事顧問はわたしの執務室で腰を掛けて待っていた。かなりの時間が経過してから、彼らはようやく二一人を確保した。

 こうした物色がおこなわれることを聞きつけて逃げ出した女性や、いまなお身を隠している女性もいると彼らは考えている。大勢の少女が次つぎにわたしのところへやってきて、残り七九人は品行正しい少女のなかから選ぶのか、と質したが、わたしとしては、わたしが言って阻止できるのであれば、そういうことにはならないはずだ、と答えるのが精いっぱいだ。
兵士用売春宿、つまり軍慰安所設置の責任者は、上海派遣軍参謀二課長・長勇中佐だが、この「高級軍事顧問」すなわち参謀とはだれだろうか。

ささやかなクリスマス礼拝
 クリスマス礼拝のため、メリーは午後ずっとクリスマスツリーと部屋の飾り付けをしている。二階の北向きの部屋を選んだ。その部屋の窓のグリーンの厚手のカーテンが使えるからだ。いま部屋は、美しい竹やクリスマスツリー、それに赤い飾り紐で飾られ、とてもすばらしい。

夜六時三〇分からその部屋で、わたしたちのほか、程先生の嫁とその子ども四人だけのささやかなクリスマス礼拝をおこなった。子どもたちはほんの気持ちばかりの贈り物をもらって大喜びだった。子どもたちのおばあちゃんは賛成しなかったけれども、何もプレゼントを用意しないのは感心しない。あすは別のグループのためにその部屋を四回使用する予定になっている。
多くの女性が恐ろしい窮地に直面している
 何人かの女性が涙ながらに話してくれた報告を確認するため、四時三〇分、金陵大学に出向いた。避難民のなかから何人かの男性が選別されたが、彼らは、すぐに身分が確認されない場合には殺される運命にある、というのだ。

 多くの女性が恐ろしい窮地に直面している。夫といっしょに家にとどまれば、夫は銃剣を突き付けられて家から追い出され、妻は兵士に強姦される。夫を家に残して金陵女子文理学院にくればきたで、夫は連行されて殺害される危険にさらされる。

 校門に警備隊や警邏隊を配置してからは、うろうろと入ってくる兵士のグループはほとんどなくなった。おかげで精神的負担が大いに減った。

 大きな火災がいまだに南と東の空を照らし出している。どうやら、どの商店も徹底的に掠奪され、焼き払われたようだ。南京を見たいとは思わない。荒れ果てた街になっているにちがいないからだ。

 城内の状況はいくらかよくなっているそうだ。きょうアメリカ大使館を訪れてわかったが、外界との接触は依然として断たれている。
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2007-12-25 (占領13日目)

[you&me] ja2047さんの死を悼む

http://latemhk.tdiary.net/20061225.html#p01
ja2047さんのWEB上の足跡です。みなさんが掲示板などに挙げたものです。 みなさんが言葉を寄せています。
  • http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3718;id=sikousakugo#atop
  • http://mixi.jp/view_diary.pl?id=300060139&owner_id=1229043
  • http://mixi.jp/view_diary.pl?id=300180630&owner_id=4968376
  • http://mixi.jp/view_diary.pl?id=300761792&owner_id=935361

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] ポケットから手を出すな

リッグス氏暴行に対する抗議書
ラーベの日記の英語版の12月15日の項の冒頭には、スマイスが日本大使館に送った抗議文が掲載されている。

日本軍兵士達によって拉致された中国人女性を救い出し、難民収容所に送り届けようとしたリッグス氏(Charles H. Riggs アメリカ人 金陵大学 )に、巡検将校が暴行を加えたという事件である。リッグス氏は殴られても蹴られてもオーバーコートに手を突っ込んだまま無抵抗であった。

日本軍将校の傍にいた日本人通訳に依れば、将校はリッグスが頭を下げれば許すということだったらしいが、リッグスは自分は米国人で日本人ではないから、と頭を下げなかったようだ。

Letter from the International Committee to the Japanese Embassy

Nanking, December 25th, 1937.
To the Officers of the Imperial Japanese Embassy Nanking.

  This morning about 10:00, Mr. Riggs found several Japanese soldiers in the house at No. 29 Hankow Road and heard a woman cry. The woman, who was about 25-30 years old, tapped herself and motioned for Mr. Riggs to come. One soldier had her in tow. Other soldiers were in the house. She grabbed Riggs's arm. The other soldiers came out of the house and all of them went on and left the woman with Mr. Riggs. The woman had been out buying things and the soldiers took her.  Her husband was taken four days ago and had not returned. She wanted Mr. Riggs to escort her back to the Refugee Camp at the Military College on Hankow Road. So Mr. Riggs escorted her east on Hankow Road and almost to the University Gardens, there they met an inspection officer with two soldiers and an interpreter. The officer grabbed Mr. Riggs hands out of his pockets and grabbed his armband, which had been issued him by the Japanese Embassy. He swatted Mr. Riggs hands when he tried to put them back in his pocket. As near as he could tell, the officer asked Mr. Riggs who he was, but neither could understand the other. He then hit Mr. Riggs on the chest hard. Mr. Riggs asked him what he meant and that made the officer angry. The officer motioned for his passport but Mr. Riggs did not have it with him. He wanted to know what Riggs was doing. Mr. Riggs told him he was taking this woman home. So the officer hit Riggs again. Mr. Riggs looked to see what armband the officer was wearing and the officer slapped Mr. Riggs in the face hard. The officer then pointed to the ground and grabbed Mr. Riggs' hat so Mr. Riggs thought the officer wanted him to kowtow to him. But Mr. Riggs would not. So the officer gave Mr. Riggs another slap in the face. Then the interpreter explained that the ofiicer wanted a card. Mr. Riggs explained he was taking the woman home because she was afraid. The officer gave an order to the soldiers and they came to either side of Mr. Riggs with guns at attention. Then the interpreter explained that the officer wanted Mr. Riggs to bow to the ofiicer. Mr. Riggs refused because he was an American. The officer finally told Mr. Riggs to go home. Meanwhile, the Chinese woman had been so frightened when she saw Mr. Riggs so treated, she ran off down Hankow Road.

  Mr. Riggs explained that he did not touch the officer and simply had his hands in his pockets (of his overcoat) walking down the road, bothering no one. The woman was walking a short distance ahead of him.

  We hope that there will speedily be such a restitution of order and discipline among the soldiers that foreign nationals going peacefully about the streets need no longer fear being molested.

        Most respectfully yours,
        LEWIS S. C. SMYTHE

こういう文章では、"Mr. Riggs" を "he" とか "him" とか代名詞にしてはいけないのだ!

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][戦況と民衆] クリスマス

十二月二十五日
昨日の午後、日記を書いているとき、張と中国人の友人たちがひっそりと小さなクリスマスツリーの飾り付けをしていた。そういえば以前、張はよくこれを手伝っていた。

小さいというのを別にすれば、このツリーは、前に飾っていたのとそっくり同じだ。なんとクリスマスの庭(キリスト誕生の瞬間を再現した厩の模型)まであった。厩をとりかこむ動物たちも。人になれているのも野生のも入り混じっている。私たち家族はみなこれを見て喜んだものだった。食堂のまん中の扉が開いて、わずかばかりのロウソクが部屋に貧弱な光を投げかけると、それでもそこはかとなくクリスマスの気分が漂った。
クリスマスの庭:"the Nativity scene"
人になれているのも野生のも:"higgledy-piggledy=ごた混ぜの"
クレーガーとシュペアリングがクリスマスツリーを見にきた。南京広しといえどもツりーがあるのはここだけだ。クレーガーは白ワインを一本提げてきた。シャルフェンベルク家の瓦礫から「救出された」ものだ。残念ながら漏れてしまって半分しか残っていなかったが。遠く離れた家族の幸福を願って、私たちは黙ってグラスを傾けた。

そのあとクレーガーとシュペアリングは平倉巷のアメリカ人の家へ向かった。そこのクリスマスディナーに招待されていたのだ。が、私は家を空けられない。
福井氏がハバナ葉巻を一箱持ってきてくれた
六百二人の難民を保護者なしでおいていくわけにはいかない。ただ、仲間がとちゅうでしばらく交代してくれることになっていた。そうすれば私もアメリカ人の同志たちとしばし楽しい時が過ごせる。入れちがいに、福井氏がやってきた。目下この人が日本大便館で一番上のポストにいる。高玉氏もいっしょだ。大使館の人たちに、クリスマスプレゼントだといってジーメンスのカレンダーを贈ったので、お返しにハバナ葉巻を一箱持ってきてくれたのだ。うーん、残念。タバコをやめてしまった! タバコ類は、いまやひじょうな貴重品だ。以前は八十五セントだった紙巻タバコ一缶が、いまでは六ドル以下では手に入らない。クリスマスのお祝いに、私はこの二人とワインを一杯飲んだ。二人ともクリスマスツリーと花を見てびっくりしていた。うちにあった花をわけると、たいそう喜んだようだった。日本人はとても花が好きだ。わが家の難民のために、この人たちとある程度親しくなっておきたい。なにしろ発言権があるからだ。
ラーベ家のクリスマス晩餐、まさかのレープクーヘン
二人が帰った後、ロウソクを飾った食堂で、クリスマスの晩餐をとった。塩づけ肉にキャベツ。これがとびきり上等の肉料理のようにおいしく思えた。韓一家がきたので、アドヴェンツクランツ(クリスマスリースの一種、テーブルに置いてロウソクを立てる)を贈った。ロウソクが四本ついている。奥さんと子どもたちには、それぞれ、モミの木にぶらさがっている贈り物から一つずつ選んでもらった。色とりどりの飾り玉、象、小さなサンタクロース。それで私が用意したプレゼントはすべてなくなった。それにしても張には驚いた。思いもよらない素晴らしいものをもって現れたのだ。ハート形のレープクーヘン(クリスマスに食べるはちみつと香料入りのクツキー)! 四つあった。私はわれとわが目を疑った。ハート形のレープクーヘンが四つも。ドーラが赤い絹のリボンで飾っておいたものに、張が若いモミの小枝をそえて持ってきた。ということは、使用人たちが一年間しっかり保管しておいてくれたことになる。私と客は大喜びで、レープクーヘンをまたたくまに飲みこんでしまった。すると、あまり行儀のいい話ではないが、のどにつかえてしまったのだ。もちろん菓子のせいではない。レープクーヘンは文句なくおいしかった。そう、のどがおかしかったのさ。
レープクーヘン
ドーラ、私たちはみな心から君を懐かしんでいる。なかにひとり、うっすら涙を浮かべていた男がいたよ。
アメリカ人の家へ
ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。果てしない闇、死体だらけの道を。もう十二日間も野ざらしになっている。
※アメリカ人の家:ロッシング・バックの大邸宅を使用してベイツ、スマイス、ウィルソン、ミルズらの金陵大学の関係者が共同生活をしていた。
仲間たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。ただ暖炉の赤い小さな旗に、使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。私たちは難民登録というさしせまった問題について話し合った。心配でたまらない。
難民登録についての悲惨な情報
難民は一人残らず登録して「良民証」を受けとらなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。

早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられた=剔出(てきしゅつ)=のだ(※)。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分などふきとんでしまう。
※日本語版では口絵写真13としているが、この写真は12月16日撮影のものです。マギーのフィルムから、東中野本写真116。マギーフィルムの解説書二の(二)。
半時間ほどして、また悪臭ふんぷんたる道を戻る。だが私の小さな収容所には平和とやすらぎがあった。見張りが十二人、交代で壁づたいに歩き回り、ときどきささやきあっている。眠っている仲間を起こさないよう、ちょっとした合図をしたり、とぎれとぎれの言葉をかわすだけだ。ミルズは家に帰った。私もやっと眠れる。いつものように、そのまま飛び出せるかっこうだが。日本兵が入ってきたら、すぐに放り出さなければならない。だがありがたいことに、今晩は平穏無事だった。苦しそうな息づかいやいびきがほうぼうから聞こえてきて、なかなか寝つかれなかった。合間には病人の咳。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 女子学院のクリスマス

平穏な一夜
一二月ニ五日 土曜日
 クリスマス−ディナーのときにサール・ベイツが、「地獄のクリスマス」と題して記事を書いているところだ、と言った。実際のところ、この金陵女子文理学院ではそのようなことはない。このキャンパスは多少なりとも天国である。とはいえ、ことしのクリスマスは、これまで金陵で経験したクリスマスとはたしかに違う。

 昨夜も平穏な一夜だった。校門に警備兵二五人が配置され、漢口路と寧海路を巡回してくれた。ここ何週もの間で初めて朝までぐっすり眠った。

 午前七時三〇分から南音楽教室で、フランシス陳が主宰してたいへんすばらしい礼拝集会がおこなわれた。歌った賛美歌はいずれも、いまのわたしたちには意義深く、心に慰めと勇気をあたえてくれた。ビッグ王を含めてわたしたち九人が出席した。近ごろは祈祷会で語る話をあらかじめ用意することなどだれも考えない。わたしたちは、心の奥の深い思いのままに祈っている。

 八時三〇分から九時三〇分までの聞に二つの兵士グループがやってきたが、何も問題は起こさなかった。彼らは、主として発電所に関心があった。
パックの家のクリスマスディナー
 一二時三〇分、クリスマス− ディナーに招かれてブランチ〔呉〕といっしょにパックの家(※)へ出かけた。グレイス・パウアーも招待されていた。サールと C ・リッグズは再三呼び出されて、トラックや中国人男女グループなどの救出のために金陵大学や住宅へ出かけて行った。彼らは近ごろ、連日このような仕事をしている。
※(訳注)バックの家:平倉巷三号にあったロッシング・バック邸。ロッシング・バックは金陵大学農業経済学部長であったが、当時戦火を避けてアメリカに帰国していた。「大地」の作者パール・バックは彼の夫人であった。ロッシング・バックの大邸宅を使用してベイツ、スマイス、ウィルソン、ミルズらの 金陵大学の関係者が共同生活をしていた。

連れ出された少女を助ける
 出かけるさいに興味深い経験をした。校門を出ようとしたちょうどそのとき、一人の女性がやってきて、娘を救出してほしい、ついさつき家から連れ去られた、と懇願した。彼女が指し示したとおり上海路を大急ぎで南へ向かったところ、兵士たちは進路を北に変えた、と言われた。北へ向かって行こうとしたちょうどそのとき、車に乗っているミルズを見かけたので停車してもらい、母親、ブランチともども乗り込んだ。

 まもなく、兵士二人が少女を連れて歩いているところを見かけた。少女はわたしの姿を見るやいなや、引き返してきて助けを求め、そして母親の姿が目に入ると、飛び込むようにして車に乗った。兵士は事態に気づくと、わたしたちが彼に無礼を働いた、としつこく言い張り、ミルズの席に座ったまま、どうしても車から降りようとしなかった。

 英語が多少わかる将校が通りかかったが、彼は、不必要と思われるくらい丁寧な態度でくだんの兵士に車から降りてもらうと、わたしたちを通してくれた。ただし、わたしたちが少女を連れ出したのが悪かった、とミルズが言ったことで、ようやく通してくれたのだ。
避難民家族のためのクリスマス礼拝
 午後二時から、例の小さなクリスマス礼拝堂で王さんの主宰により、キャンパスの使用人たちのために、とてもよいクリスマスができた。三時から婁さんが、近隣のクリスチャンやキャンパスにいる避難民家族のためのクリスマス礼拝をおこなった。午後七時からハウチさんが、昼間学校の生徒や奉仕団で彼女の手伝いをしている子どもたちのためのクリスマス礼拝をおこなった。大人数を手がけるのは不可能なため、大多数の避難民には何もしてあげられなかった。
日本兵は城外へ撤収しているところ
 今夜は警備兵はいない。大使館から警官一名が派遣された。日本兵は城外へ撤収しているところだ。M・S・ベイツによれば、女性の拉致にかんするかぎり、金陵大学では不運な一日であったようだが、女子学院の避難民のなかには自宅に帰る者も出てきている。
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2007-12-26 (占領14日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 査問、登録はじまる

ラーベ家の難民は全員パス
十二月二十六日十七時
素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって六百人をこす人々の命なのだから。

新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という擬いで処刑されるのだという。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。将校が決定した以上、 もうひっぱられる心配はないのだから。 それの変更はないだろう。
(英語版)"and there'll be no altering that"

「わが軍にも、なかには酷い連中がいましてね」
忙しく葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校にあげていたら、百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた。庭は灰の雨だ。藁小屋は大丈夫だろうか。いくぶん考え深げにその様子を眺めながら、その将校はフランス語であっけらかんと言った。「わが軍にも、なかには酷い連中がいましてね」。
そう、なかには、ね。 彼自身は何も悪くないという顔して、そこに居た。
百子亭:英訳本では、"the Pei-Tze Ting"。中国側南京防衛軍司令官であった唐智生の公館があったとされる、玄武湖に面した城内の高台。

二週間ではじめて日本兵が押し入ってこなかった
昨日からは日本兵が押し入ってきていない。この二週間ではじめてのことだ。やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。ここの登録は昼に終わった。しかも後から こっそりもぐりこませた もぐりこんだ二十人の新入りにも気前よく良民証(mingto)が与えられた。
英文では "since yesterday"
「こっそり潜り込ませた」は英文では、"20 more people who have smuggled themselves in here." で、ラーベが潜り込ませたのではない。

「こっそりもぐりこませたのは便衣兵に違いない」、というトンデモな人がいるけど、まあそれは日記をちゃんと読まない人だね。ラーベ達は非武装地帯化や武装解除、そして暴動防止にいかに努力をしてきたか、体を張り日記にめんめんと綴ってきた。
使用人の劉と劉の子どもが、病気になったので、鼓楼病院のウィルソン先生のところに連れていった。トリマー先生が病気で、いまはこのウィルソン先生一人で病院を切り盛りしている。先生から、新しい患者を見せられた。若い娘を世話できなかったという理由で撃たれた中年婦人だ。下腹部を銃弾がかすめており、手のひら三つぶんくらいの肉がもぎとられている。助かるかどうかわからないという話だ
安全区本部での登録
安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。安全区の他の区域から、何百人かずつ、追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。今までにすでに二万人が連行されたという。一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。なんというむごいことを……。我々はただ黙って肩をすくめるしかない。くやしいが、しょせん無力なのだ。
領事館警察の高玉氏は信用できない
高玉が車を貸してくれと言ってきた。借用書を書くとか言っていたが、どうせ返しゃしないだろう。

そこいらじゅうに転がっている死体、どうかこれを片づけてくれ!担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を十日前に家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。だれも死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。

ヨーロッパ人の家をのこらずリストアップし、とられた品物の「完全なリスト」を作って提出してくれと、高玉が言ってきた。私は断った。大使館の仕事じゃないか。第一、そんな面倒なことを引き受けて貧乏くじをひくのはまっぴらだ。最後まで無事だった家があるのかどうか、あるとしたらどの家なのか、それさえ正確に知らないというのに。
難民達の状況、米は足りるか?
クリスマスの二日目の今日、私はあいかわらず家にいた。難民が心配で、家を空けられない。だが、あしたにはまた本部で仕事がある。

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しかもたないだろうとスマイスはいっているが、私はそれほど悲観的には見ていない。

米を探して安全区にまわしてくれるよう、何度も軍当局に申請しているのだが、なしのつぶてだ。日本軍は、中国人を安全区から出して、家に帰らせようとしている。そのくせいつ汽車や船で上海にいけるようになるのかと聞いても、肩をすくめるだけだ。「それは当方にもわかりません。川には水雷がばらまかれているので、定期的に船を出すのはとうてい無理でしょうな」
我が家の食事
うちのポーイやコックが、食べものをいまだにちゃんと調達しているのにはいつも驚かされる。とくに私の家では奇跡に近いほどだった。二週間ほど前から中国人を三人泊めているので、その人たちにも食事を出している。幸運にもそれでもまだ足りているのだ。ひょっとすると、いまや私を心から愛してくれている難民たちが、いざとなると食べ物を手に入れる手伝いをしてくれているのかもしれない。私は毎日目玉焼きを食べているが、卵がどんな形をしていたかさえわすれてしまった人もいるのだ。
ヴォートリンのこと
ミス・ミニ・ヴォートリン。実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、アメリカ人で、金陵女子文理学院の教授らしい。大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、びっくり仰天して反対したそうだ。最終的には、男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。
彼女にとっての恐ろしい事件
ところで、この人に恐ろしい事件が起こった! 彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。

さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。
24日のヴォートリンの日記を思い出してください。

[飯村守日記] 長中佐、大親分黄金栄に面会

ラーベの日記にある「社会の暗部」とは裏社会のことだ。慰安所設置工作の責任者、長勇中佐の行動について、派遣軍参謀長飯沼守少将は12月25日の日記に書いている。
◇十二月二十五日 快晴
(略)
 長中佐上海より帰る。青幇(チンパン)の大親分黄金栄に面会 上海市政府建設等の打合せを為し先方も大乗気、又女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整ひ年末には開業せしめ得る段取りとなれり。

 黄金栄の部下虞洽卿、王一亭等は中南支の一流の財界巨頭なりと。塩は彼等に売却し阿片を何とかして入手せしむる様考慮する筈。吐月笙等は黄の子分なるも今にては真に蒋の部下にて到底望なし、黄は之等をも討伐すへしと。
虞洽卿、王一亭は南京の人だろうか?
質問しました。 日中戦争スタディーズ
思考錯誤

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] クリスマスが過ぎて

体力が尽きてしまった。ヴォートリン自身にはクリスマスは来なかったようだ。
(前略)
けさ魏が戻ってきたが、自分の体験したことを語れないほど疲れ果てていた。

 午後、またもや体力が尽きてしまい、休息をとった。

 金陵大学のキャンパスにいる避難民全員がきょう登録をした。たぶん、一両日中には女子学院でも同じ手続きがおこなわれるだろうから、今夜、陳さんに名簿の作成を始めてもらった。

 昼間はいまでも晴れていて暖かい。依然として外界の情報は入ってこないし、わたしたちが知るかぎりでは、こちらの情報も、同盟〔通信社〕が提供するもの以外は伝わっていない。

ことしは、クリスマスなしの年になるだろう。友人たちのことを考える時間さえなかった。
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2007-12-27 (占領15日目)

[warなひと人][所行無情] 紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる

『毎日版支那事変画報-第14輯』
東中野修道et al.『南京事件「証拠写真を検証」する』P45より孫引き

『毎日版支那事変画報-第14輯』
東中野修道et al.『南京事件「証拠写真を検証」する』P51より孫引き。

↑第24輯というキャプションは東中野et al.の多分間違い。
 ☆戦記映画「南京」より「良民証の交付」(南京大虐殺はうそだ)
 ☆1941年香港で交付された「良民証」(伊藤孝司の仕事) 南京では写真は貼らなかっただろう

日本軍兵士の側から見た査問、剔出の方法
査問のやり方については、いくつかの証言がある。
たとえぽ、中沢第十六師団参謀長は東京裁判に提出した口供書で、
「日支人合同で委員会を構成し、住民を調査することとした。その調査の方法は日支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵たりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した」(法廷証三三九八)
と述べているが、師団副官宮本四郎大尉によると、
「一人ずつ連れ出して真の避難民か、逃亡兵かを見分ける。多勢であるので書類づくり等は一切しない。兵隊は短ズボンが制服なので太股に日焼けの横線がある――紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる」(「轍跡」)
とニュァンスが変る。

見分け方の基準も、太股の線ばかりでなく手のタコ(銃を携行するとできる)、軍帽でひたいにできる日焼けの線、坊主刈りなどで判定した場合もあったようだ。その代り、婦女子が泣きついて、近所の住人だと証言したり、日本人新聞記者が、使用人の親族だからともらいさげを頼むと、放免する例もないわけではなかった。
(秦郁彦「南京事件」P166)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] サンタクロースのまね

難民の子どもたちに二十セント硬貨を
十二月二十七日

サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに二十セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。もみくちゃにされて、ひきさかれそうになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが押しつぶされそうになっているのに気がついて、私はあわてて中止した。プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。いずれ折を見て、だれがまだもらっていないか聞いてみよう。今日、本部を片づけた。仕事もないのに、ここには怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿になった。
なおつづく屠殺
鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五ヵ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下この方法が取られている。さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにかあったのか、とうるさいからだ。
なおつづく放火
新街口(ポツダム広場)。
正面が交通銀行、その背景に紫金山が写っている。撮影は1938年か?
試行錯誤
今日、張と韓が、新街口(ポツダム広場)に日中合弁商店ができて、ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。私は韓といっしょに確かめに行った。そして――はからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ! 日本軍はこの街を破壊しようというのか!

[ヴォートリンの日記][所行無情] きょうは休息をとっている、だが

一二月二七日 月曜日
 きょうは休息をとっている。この二日間気分がすぐれず、寝ているように、と友人たちが強く勧めてくれた。メリーがここにいてくれるおかげで休息がとれた。言い訳がたってありがたかった。
昨夜も平穏
 昨夜も正門に大使館の警官一名が配置され、平穏な夜だった。外国人一人も出校して、フランシス陳のところに泊まった。どういう理由からか、実験学校の犬が夜間に激しく吠えていた。だれかうろついている者がいるのかもしれないと思うほどだ。わたしの犬がどのようにして兵士の銃剣をまぬがれたのかわからない。

 何も変わりがないか確認するために昼間憲兵がやってきた。実際、彼らは清廉で規律正しい人たちのようだし、概して優しい顔立ちをしている。

 午後、公式筋からの電話が何回かあった。一つは岡中佐という人からで、あす午前中にわたしに会いに来校するとのこと。
城内では、依然として破壊が続いている
 城内では、依然として破壊が続いている。火災の煙が濠々と立ち昇っているところを見ると、現在は北里門橋の方角が破壊されているようだ。南門から北里門橋までの間にある商店は軒並み掠奪され、焼き払われてしまったのではないかと思う。掠奪はいまやトラックを使っておこなわれ、絨毯やベッドといった大きな備品が持ち去られている。それらは句容に運ばれているらしい。
城内から郊外の新たな駐屯地への移動の為の略奪か。駐屯地を句容とする部隊はどこだ!
⇒南京地区東部警備隊に21日任ぜられた歩兵一九旅団あるいは騎兵二〇連隊。《参照》12月24日の記事 城内警備組織の変更
絨毯やベッドをトラックで運ぶのは司令部将校用か。
 けさ校門内に入ってきた女性の話では、個人の住宅での掠奪は依然として続いており、銅貨のような小銭さえも盗まれているそうだ。メリーによれば、日本兵がトラックで学院に乗り込み、少女三人を要求したが、彼女がその筋の手紙を見せると、出て行ったという。
ブルーリボン賞はむり
 金陵女子文理学院が難民収容所としてどのような状態になっているかは、わたしの筆の力ではとうてい伝えることができない。清潔さを表彰するブルーリボン賞を学院が受賞できないのは言うまでもない。

 四〇〇人の避難民を初めて受け入れたときには、清潔保持という理想をもち、毎日部屋とホールの掃き掃除をさせ、紙くずを拾わせようと努力した。しかし、いまはそうではない。一万人余の避難民がいる状況では、キャンパスをトイレ代わりに使わないよう説得するだけで精いっぱいだ。

 芝生の部分を歩かせるというハリエットの理想は完全に実現されたが、その結果、芝生はほとんど残っておらず、多くの場所に、とりわけ、粥が配られている場所には泥の水溜まりができている。
「ハリエットの理想」とは?
※John Stuart Mill の妻 Harriet Taylor Mill と関係有るか?
 樹木はいずれもむごたらしい使い方をされ、潅木のなかには、踏みつけられて跡形もないところもある。晴れた日はきまって、木という木は高い木も低い木も、手すりにも棚にもあちこちに、あらゆる種類と色のおむつやズボンが掛けられている。キャンパスにやってくる外国人たちは、このような金陵女子文理学院は見たことがない、と笑い出す。
生ましめんかな
 きょうまでに赤ちゃんの誕生が一四件、死亡が四件あった。ここでは看護婦は程先生しかおらず、先生はひどい過労に陥っている。
※"生ましめんかな" 1945年8月 栗原貞子
広島貯金局の跡

[warなひと人][所行無情] 《参考》入城式後の「捕虜殺害」

ゆうさんの小さな資料集下関の光景―入城式後の「捕虜殺害」―

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2007-12-28 (占領16日目)

[ラーベの日記][国際委員会][戦況と民衆][所行無情] 元兵士への騙まし討ち

十二月二十八日
あいもかわらず、放火がくりかえされる!

まるで重い病いにでもかかっているようだ。おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから!
今日が登録の最終日だといううわさ
誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。そのため何万人もの人が登録所につめかけた。安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。私の車が通ったとたん、過ぎたところはあっというまに元通り埋まってしまう。車が停止でもさせられたら、ここから抜け出すのは並大抵のことではないだろう。
下線部分は誤訳と思われるので試訳した部分です。

保護してやるという約束が
今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、五十人くらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、一組ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げこんだというのだ。そのうちの十人が逃げのびて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服をくれたという。
偽計をもって捕虜を処断するとは、国際法違反であり、武士道にももとる。中国人は国際法の対象でも武士道の対象でもないのだろうか?

同じ内容の報告が三方面からあった。元兵士が申し出れば保護するという約束が破られたという内容。
これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。ただ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、よくよく気をつけなければならない。知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。
この問題についてのベイツの報告は探索中です。
※古代の墓地跡(英文では)"in the graveyards in the West City"。どこだろう?

日本軍は誰も南京に入れようとしない
フィッチが上海から手紙を受け取った。委員会に三万五千ドルの寄付が集まったというロータリークラブからの報告だ。金をもらってもしかたがない。必要なのは、人間、それもこちらに来て協力してくれる外国人なのだ。だが日本軍は誰も南京に入れようとしない。
大使館員は軍部に歯が立たない
日本大使館の役人はわれわれの立場をもう少しましなものにしたいと思っているようだ。だが同じ日本人同士でも、こと軍部が相手だと歯が立たないらしい。すでに我々の耳に入っていることだが、軍部は日本人=中国人委員会( the Japanese-Chinese Committee )を認めていない。これは、日本大使館が設けたもので、ちょうど我々の委員会のような性格のものだ。初めてここへ来たとき、いみじくも福田氏がいっていた。「軍部は南京を踏みにじろうとしています。けれども、我々はなんとかしてそれを防ぎたいと考えています!」

残念ながら、福田、田中、福井もだれひとり、軍部の考えを変えさせることはできなかった!
軍人の横暴を防ぎきれなくなったこと。それはなぜだ?
宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙

ジョージヘ!
鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ? もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
よろしく!
鳴羊街:中華門(南門)から南京城内に入って直ぐの西。
フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。
“岡少佐”と会う
スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。そうすればこちらとしても保護しやすい。もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱり言った。

「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や他のドイツ人といっしょにさっさとクトゥー号で逃げていましたよ」

岡少佐はいった。
「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」

それについては、ただ次のように答えるしかなかった。
「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、ドイツ人の家も持ち物も無事でした。略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからです。誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家は僅かであり、それも太平路ぞいだけでした。太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」
  ※(英文) "The few buildings that had been looted by retreating Chinese troops were on Taiping Lui. "

気の毒?な護衛兵・・・
七時半ごろ、下士官が一人、私の衛兵を連れてやってきた。二人は皮ひもを掛け銃には着剣し、おそろしく泥だらけの軍靴を履いていた。カーペットをすっかり汚しながら私の護衛をするようだ。きっと彼らは直ぐにまた外へ行けと命ぜられ、この雨や雪のなかを前へ後ろへと行進を命じられる。それを思うと、外はひどい天気なので、さすがにちょっと気の毒になった。
※(英文)"At 7:30 p.m. a noncommissioned officer arrives with my guard of honor: two strapping soldiers with bayonets fixed and horribly muddy atandard-issue boots, who are ruining all my carpets and are supposed to protect me. They are immediately sent back outside and told to march back and forth in the snow and rain. Actually I feel a little sorry for them because the weather is so rotten. "

・・・が、泥テキと一緒にトンヅラした
夜の九時ころ、日本のこそ泥兵が二人、突如裏の塀を乗り越え、誰も気がつかなかった。出かけようとした私が、食料貯蔵室で彼らを見つけた。私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。ところがどうだ、衛兵は二人はどちらもとっくにドロンしていた!クレーガーが私に知らせにきたときには、こっちの二人盗賊も同様で、必死で塀を乗り越えて逃げだしていた。
※(英文)

At 9 o'clock this evening two Japanese soldier-bandits suddenly climb over my back garden wall without anyone noticing, and on my way outside I discover them in the pantry. I try to hold them there. Kröger is sent to fetch the men on guard; but they have both vanished! And when Kröger tells me that, the two intruders hastily swing themselves back up over the wall as well.


「南京のことは黙っていてください」
南京のことはどうか上海には黙っていてください、と福井氏から頼み込まれた。大使館にとって具合の悪いことは知らせないでくれということなのだ。私は請け合った。そうするほかないじゃないか? 日本大使館を通さなければ手紙が出せないのだから。だが、いつの日かきっと、真実が白日のもとにさらされる日が来る。

このときとばかり私は福井氏に、十二月十三日に射殺された中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。
頼りにならない衛兵
それから、今後安全区に衛兵を派遣することになったと聞かされた。日本兵が入りこまないようするためだというのだ。あるとき私は、その衛兵とやらをじっくり観察してみた。だれ一人呼びとめられるでもなく尋問されるでもない。それどころか、奪ったものをかかえて日本兵が出てくるのを見て見ぬふりしていることもある。どうせそんなことだろうと思っていた。これで「保護します」とは聞いて呆れる!
上海にいる妻ドーラヘ
上海にいる妻にあてたジョン・ラーぺの手紙
一九三七年十一一月三十日 於南京

ドーラヘ
昨日十二月二十九日、日本大使館から君の心のこもった手紙を受け取った。十二月六日、十二日、十五日、二十二日の分だ。私がここでどんな目にあったか、いまのところ話すわけにはいかない。けれども我々二十二人の欧米人はみな元気だ。韓一家も。だから安心してくれ。インシュリンはまだ予備がある。こちらも心配はいらない! クトウー号の荷物はどうなった? その後なにか分かったかい? なくなっていなければよいのだが。 なにしろ、日記が全部そのなかに入っているのだから。

やらなければならないことがたくさんある。すぐにまた「市長のポスト」を取り上げられてもちっとも悲しくないよ。いや、そうできるなら喜んで! さっき言ったように、私たちは肉体的には元気だが、気持ちの上では疲れきっている。近いうちに君に会えるといいのだが。

心からの挨拶とキスを(検閲なんかくそくらえだ!)
                ジョニー

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] "正直に申し出ること"

一二月ニ八日 火曜日
 現在、登録期間という新しい段階を迎えようとしている。午前八時、女子学院が安全区第五地区の登録所になった。男性が先に登録されることになるらしい。

 キャンパスにいる男性を集めた。まず最初に、通訳を介して彼らに訓示があり、そのあと、以前兵士だった者は正直に申し出ること、その場合、危害を加えられることはないが、労働隊に入れられると説明があった。最近まで兵士であったという意味なのか、かつて兵士であったという意味なのか、わたしにははっきりはわからない。

 最初に申し出た男は、Y・H・陳の奉仕者仲間の一人だった。彼が兵士だったのは最近のことではないということがその後わかったので、解放してもらうよう目下努力しているところだ。

 男性は四列縦隊に並び、登録票を渡されたあと、登録場所になっている陳春芳の家(キャンパスの北東隅にある)へ向かって行進した。わたしは興味があったので、男性の顔つきをしげしげと観察した。概して、彼らは、老人か大怪我をした人か、そうでなければ、足の不自由な人たちだった。 なぜなら、登録に行かれるような若者たちは、みな死んでしまっていないからだ。

   そうこうしているうちに岡中佐が来訪した。彼は、すべてのアメリカ人を保護することを上海で約束してきたと強調したあと、わたしたちが一カ所にまとまって生活することを要求した。わたしたちとしては、責任ある各自の部署を離れるわけにはいかない、と彼に伝えた。中佐もわたしも、互いに穏やかに丁重にふるまいながらも、きちんと主張し合い、これまでのところでは、わたしのほうがこの戦いに勝利した。
親切な岡中佐(少佐)はヴォートリンのところにもやってきた。「安全」のために、ドイツ人やアメリカ人を中国人から切り放したいらしい。
 正午前、学院の教職員は、混雑があまりにもひどかったために、登録しないで引き返してきた。いまは雪が降っており、南京のこの地域は、荒涼とした様相を呈している。もっとも、南部地域ほどではないが。
もしもわたしが一度に四カ所ほど回ることができたなら
 午後、P・ミルズが来訪した。彼の報告によれば、中国人の財産だけでなくあらゆる外国人の財産が、程度の差こそあれ、ほとんどすべて掠奪されたそうだ。わたしたちの住宅にかんしては被害は軽いほうだ。もしもわたしが一度に四カ所ほど回ることができたなら、たぶんそれらも持ち去られなかったろう。わたしたちが掠奪をこうむったその責任は、すべてわたしにある。わたしの行動がのろすぎたからだ。
南山公寓=大学教職員住宅の家具
 南山公寓のことをよく知っている人に現在の状況を見てもらいたいものだ。塗装職人が床や壁を塗装できるよう、夏に備えて家具はすべて屋根裏か大食堂に保管したことは記憶に新しいと思う。

 食堂には少なくとも整理だんす四棹と洋服だんす一棹が運び込まれた。それらは、忙しく働く蜂を誘う蜜のようなものだった。兵士の集団が次つぎと食堂にやってきた。わたしは、たんすの中を物色している大勢の兵士を制止した。いまのところ、きちんと整頓するつもりはない。扉に鍵をかけておいたのが誤りで、物置の扉には大きな穴が開けられ、食料や罐詰が少しばかり盗まれていた。
家具やベッドの持ち去りは、日本軍部隊の再配備のためか
 エルミオン〔建物の名前〕はひどい光景を呈しているそうだ。三つの階すべてで、いろいろな物が一フィートほども重なって散乱している。最近になってベッド二脚とマットレスも持ち去られた。
実験学校には
 奇妙な話だが、実験学校には二度しか押し入られていない。一二月一七日のあの運命の夜、一人がやってきた。使用人が居間でお茶を出した。わたしが知るかぎり、何も盗まれた物はなかった。それ以後、また一人きたが、台所以外には行かなかった。犬がわたしたちを大いに守ってくれたと思っている。それに、夜は電燈を点けずに蝋燭を使っているのもよかったようだ
[]

2007-12-29 (占領17日目)

[ラーベの日記] 12月29日の項はなし

日本語版ラーベの日記「南京の真実」には、12月29日の項はなし。但し、中文にはあります。 中文12月29日

内容は、
・発電所復旧の為に日本人技師の下へ工人50人を派遣
・浄水場復旧の為に工人30人を派遣
・大使館に行き福井氏に石炭と米の輸送許可を求める
・福井氏と高玉氏が上海からの手紙を持ってきた
・私的な手紙のほかに上海ドイツ総領事館からの公文書もある
公文書とは、“ラーベ家の無事を日本大使館から聞いた。他のドイツ人住居はどうか?”という照会。その後に手紙や公文書、12月30日付のラーベの返事などがファイルされている。

なお、中文12月28日には、前日に発電所復旧の為に日本人技師から要請を受けたことなど、独英日語版にはない事柄(赤字部分)が記されています。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 男性の登録が続いている

一ニ月ニ九日 水曜日
 この地区および、城内全域の多数の男性の登録が続いている。九時になるずっと前から校門のはるか向こうまで長蛇の列がつながっている。
選び出された多くの者は兵士ではなかった
 日本兵の態度は、きょうはきのうにもまして厳しかった。きのうは、兵士であったことを自ら申告するよう求め、その場合には労働をさせて賃金を支払うことを約束した。きょうは男性の手を調べて、疑わしいと思う者を選び出していた。

 もちろん、選び出された多くの者は兵士ではなかった。よろしくとりなしてほしいと頼みにきた母親や妻は数えきれない。彼女たちの息子は仕立て職人であったり、製パン職人であったり、商人であった。残念ながら、わたしには何もしてやることができなかった。
登録票は一般の日本兵士にたいしてはさはど効果がなく
 王さん、夏さん、弓さん (イーヴァ、あなたの先生で、いまは東の中庭で生活している)の三人は七時前に出かけて、一〇時に登録をし終わった。その他の人はあす午前六時三〇分に出かけるつもりでいる。全員何も問題はないように思われた。登録票は一般の日本兵士にたいしてはさはど効果がなく、彼らに破り捨てられた事例が何件かあるそうだ。
アメリカ大使館へ出かけた
 午後、アメリカ大使館へ出かけた。いまのところ外国人はまだだれも南京に戻っていなかったし、彼らがいつ帰任できるのか、大使館は正確な情報を得ていない。きょうに至るまで、わたしたちは依然として外界から遮断されているし、大使館員であれ商社員であれ、外部からはいかなる外国人も入ってくることができない。

 南京が陥落してから二週間以上が経っている。軍用物資の輸送のため、上海への列車運行が開始されるそうだ。
石炭を手に入れるのに一役買ってやろうと
 けさ、キャンパスで湯を売っているグループに付き合って、荷車一台分の石炭を手に入れるのに一役買ってやろうと、いっしょに出かけた。荷車ごと連れ去られはしないかと、彼らだけでは怖くて出かけることができないのだ。
孝陵衛からやってきた女性の話
孝陵衛とは、古くは明孝陵の衛士たちの屯所か、紫金山の南麓の街。
 石炭の積み込みが終わるのを店の前で待っていると、一人の女性が話しかけてきた。彼女は、郊外の国立競技場に近い孝陵衛からやってきた、と言った。彼女の話では、町は中国軍によって最初は一部が焼失し、そのあと日本兵によって完全に焼き払われたそうだ。

 一〇人家族のうち、あとに残されたのは彼女と彼女の夫、それに孫一人の三人だけである。息子二人、娘三人、嫁一人と孫一人は散りぢりになってしまい、どこにいるのか見当もつかないという。これは、毎日わたしたちが耳にする数多くの悲惨な話の一つにすぎない。
掠奪も減ってきている
   城内にいる兵士は少なくなっているので、掠奪も減ってきている。もっとも、多少の掠奪と焼き払いはあいかわらず続いている。ここの避難民もわずかながら減少している。登録のため、きょうは粥の提供は一回しかできなかった。キャンパスは泥の海になっている。

  今夜も大使館の警官一名と女子学院の警備員三名が任務に就いている。
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2007-12-30 (占領18日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情][戦況と民衆] 自治委員会って?

青天白日旗から五色旗へ
十二月三十日
新しく設立された自治委員会は、五色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。一月一日に大がかりな公示がある。そのとき、この旗が振られることになっている。この「自治委員会」は我々に取って代わろうとしている。仕事を引き継いでくれるというのなら文句はない。だが、どうも金目当てのような気がしてしかたがないのだ。
1937年12月30日のラーベの日記の内容は、
  • 日本軍のお膳立てで発足した「自治委員会」のこと。
  • 通称ジーメンス・キャンプのわが庭で二晩続けて子供が生れたこと
  • 日本人への年賀の用意
ラーベの日記に対して、重要事項である「自治委員会」に触れてないから、インチキ日記だという人がいるが、ラーベは「自治委員会」に賛同していないだけで充分に気にしている。日記でも頻繁に記述している。ラーベの関心は、「自治委員会」と名のつくものが果たして中国人難民の生命と福祉に役立つものかどうかである。
こちらからは何ひとつ引き渡さない。あくまでも、ごり押しされた場合にかぎる。ただし、そのときもねばれるだけねばるつもりだ。思うに、日本の外交官たちは日本軍のやり方を恥ずかしく思っているらしい。だからドイツの旗がついた家が四十軒も略奪にあい、しかもそのうち何軒も焼き払われたなどということはうやむやにしておきたいのだ。
二晩続けて生れた赤ん坊には、女の子は「ドーラ」、男の子は「ジョニー」と名づけられた。
(前略)
医者も、助産婦も、看護婦もいない。おむつもない。親たちの手には汚れたぼろ切れ数枚だけ。私はそれぞれの親に十ドル贈った。「お礼に」と、女の子は「ドーラ」、男の子は「ジョニー」と名づけられた。いやあ、うれしいね!
福井氏と南京地区西部警備司令官の佐々木到一少将に渡す年賀として、松の盆栽を二つ買った。そして、手作りの年賀状をこしらえた。表には安全区のマークとラーベの署名、裏には南京にいる二十二人の欧米人全員の署名。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆] 男性の登録はいまも続いている

一二月三〇日 木曜日
 男性の登録はいまも続いている。五時前、寧海路に整列する人たちの声が聞こえた。わたしは六時三〇分に起床して、そして、すでに六時にはキャンパスの外で並んでいた男性教職員や使用人たちの列に加わった。
1937年12月30日のヴォートリンの日記は、
  • 延々とつづく登録のための行列
  • 数日中にアメリカ大使館員が戻ってくるというニュース。ただし、翻訳文面ではアチソンとあるが、1月6日に戻ってきたのはアリソン。
    ※二等書記官アチソン(Geoge Atcheson Jr)or 三等書記官アリソン(John M. Allison)?
  • 上海路の市の情景
  • 登録をすませたばかりの青年“登録番号は二万八七〇〇番”
  • 日本兵が“二四歳の娘を連れ去った”
  • あすは女性の登録
  • 日本大使館で開かれた宴会のこと
といった内容である。

上海路の市は興味深い。
 上海路を見ておかなければいけない。安全区外は「無人地帯」さながらに人通りがないとすれば、安全区内の通りはまさしく「大きな市」の日のように見えるにちがいない。人で雑踏し、ありとあらゆる商売がおこなわれている。上海路には定期的に市が立つようになってきているそうだ。日本兵が少ないときには「老百姓」(庶民)が多い。
日本にも闇市の時代があったことは知られている。市が立つのは戦闘がそこでない証拠だが、だからといって治安がいい証とはならない。

“二四歳の娘を連れ去った”
 校門を入ると、一人の母親がやってきてわたしの前に脆き、きょうキャンパスで服務していた兵士が二四歳の娘を連れ去った、と訴えた。わたしは、すぐに母親を連れて藥瓩硫箸鯔ね、そのことを報告した。農民も日本大使館員も、今夜のうちに娘を見つけるのは無理だが、あすの朝その兵士が特定されたら、厳しく処分されるだろう、と言った。

 大使館員によれば、六人の兵士がすでに厳しく懲罰されたそうだ。「処刑された」という意味で彼はそう言ったと思うが、定かではない。
実際には、婦女子の暴行や拐帯で軍紀違反で「処刑された」日本兵はいない。処罰に大甘だったことは、小川第10軍法務部長の日記にも記されている。
尚お一体人間は戦争等生命を擲たんとするが如き一大衝動線に直面したる場合には最後の一つとして婦女に接せんとするにあらずや 従って却って休戦なるとも増加を左程憂うるの必要なきと思わると答えたり
http://blog.goo.ne.jp/1937-2007/e/f4b45792c2028964cb98cbb2eabd46ba
「自治委員会」のこと。熱狂的な歓迎をするよう、根回し。
 午後、王さんと弓さんは、日本大使館で開かれた会合に出席した。元日に大掛かりな宴会、つまり歓迎会がおこなわれるらしく、熱狂的な歓迎ぶりが中国人民に期待されているようだ。各地区からかなりの数の代表を出してもらいたいそうだ。目下、「自治政府」樹立に向けて準備が進んでいる。旧来の五色旗〔中華民国旗〕が使用されるらしい。あす古い旗を探してみよう。
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2007-12-31 (占領19日目)

[ラーベの日記][戦況と民衆][所行無情] 連れていかれた難民の救出

12月31日。1937年大晦日の日記である。

「うちの人を助けて!」
十二月三十一日
今日、うちの難民がふたり、外をぶらついていたところを日本兵に連れていかれて、略奪品を運ばせられた。昼、家にもどると、かみさんのひとりがひざまずいて訴えた。「お願いです! うちの人を連れ戻してください。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。
《参考写真》「買い込んだ食料品を支那人に運ばせて帰営する兵隊さん。1月20日撮影」(東中野et sl.「南京事件」証拠写真を検証するp67)

上海戦役から南京占領まで、日本軍が“徴発”したのは、「食糧」「燃料」「女性」そして、「苦力(クーリー)」。この頃、年末年始のラーベの日記とヴォートリンの日記には、拉致された男性の話が頻繁に出てくる。
武装した兵隊二十人とむきあう。案の定二人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。なんとか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。
二人のおろか者をみなの前で叱りとばした
家に戻ってから難民を集めて、この二人のおろか者をみなの前で叱りとばした。ばかなことをして捕まっても知らんからな。六百三十人もいる人間のあとをそのたびに追っかけちゃいられない。いったい何のためにここに逃げてきたんだ? また私が助けに行くと思ったら大まちがいだ。こんなことが続いたら、いずれ取り返しのつかないことになる……。
きょうもラーベは「自治委員会」のことを記述している。ラーベの日記を非難する人たちは、ラーベが「自治委員会バンザイ」を三唱しないことが気に食わないのだろうか?
日本兵は、新年に三日、休みをもらう。兵たちがうろつかないように安全区を封鎖するとかいっていたが、あてになるもんか。明日は、一九三八年一月一日。いよいよ「自治委員会」がおごそかに樹立される。
「目出度さも中ぐらいなりオラが春」と詠んだ俳人がわが国にもいたが、1938年の南京の正月もせめて、中ぐらいとまではいかなくても、多少の目出度さは、あって欲しい!

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] 避難民女性の登録

ヴォートリンの大晦日の日記は、
  • 女性の登録
  • 男性の登録も再開
  • 糸を巻き取る作業以外は何もしなかった(疲労と倦怠感)
  • 太平路の花牌楼の現状
  • 旧年を送り出し新年を迎え入れる礼拝
  • 遠藤という憲兵がきた
といった内容である。

女性の登録の情景は初めてだから引用しよう。
一二月三一日 金曜日
 けさ登録がおこなわれた。学院にいる女性二六〇人ではなく、一七歳から三〇歳までの避難民女性およそ一〇〇〇人の登録だ。彼女たちは九時には中央棟の前に整列させられ、まず日本軍将校の、次には蕷標氏の訓示(いずれも中国語)を聞かされた。いろいろな事項が申し渡されたが、わたしには聞こえなかった。

 ただ、こんなことが耳に入った。「結婚にさいしては旧来の慣習に従い、両親に段取りを決めてもらわなければならない。劇場へ行ったり、英語を学んではならない・・・・。中国と日本が一体になることによって強くなるのだ・・・・。」

 訓示が終わると、彼女たちは一列縦隊で一部は南に、一部は、米飯売り場としてわたしたちが囲いをした場所を通過して北へ進んで行った。ほとんどの婦女子が第一段階の切符をもらったが、髪の毛がカールしていたり、身なりがよすぎるなど、目立って見えるという理由で二〇人ほどが選び出された。

 母親か、さもなければ他のだれかが保証人になるということで、後に、全員が解放された。おりにふれて「神の御意みを感じる」ことがある。きょうの御意みは、女子学院の学生や女子中学校の生徒がキャンパスに一人もいなかったことだ。
英語を学んではならない、という訓示にはあきれかえる。

そんなヴォートリンだが、日本人の中にも希望を見出したいと願っている。
 けさ、とてもすばらしい日本人がやってきた。遠藤という人で、彼の司令部は、かつての首都飯店にある。遠藤氏だけでなく、いっしょにきた憲兵もたいへん好感が持てた。両人とも、やさしく思慮深そうな顔つきをしていた。遠藤氏は、難民救済の業務に深い関心があると言い、援助を申し出てくれた。

 新年には中国に、南京に、そして金陵女子文理学院にどんなことが起こるのだろうか。信念を失ってはいけない。

[you&me] 先をお読みになる方は、

ラーベの日記(日本語訳)「南京の真実」講談社
ラーベの日記(英語訳)The Good Man of Nanking
ラーベの日記(ドイツ語原著)Der gute Mensch von Nanking
ヴォートリンの日記南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記

映画「南京」プロモートサイト
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