一月六日1月6日のラーベの日記は、
ばんざい! アメリカ大使館のアリソン、エスピー、マクファディェンの三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。
午後五時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。資産を引き渡す? 冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。5、どういう提案をするか会議
「仕事を譲ることに関しては異存はありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ。」
(中略)
さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事をしたものかと相談した。また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても。日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」というわけだ。結局、自治委員会に引き渡さず、戻ってくる大使館員の後押しを織り込んで、安全区国際委員会としての責任を果たそうという結論になったようだ。
一月六日 木曜日登録は、すべて中国人によっておこなわれたため、大層はかどった。
きのう午後おそく中国人の登録計画がどうやら変更されたらしい。というのも、ひきつづき女性の登録は金陵女子文理学院で、男性の登録は金陵大学でおこなうという通知を受け取ったからだ。しかし、今度は軍ではなく行政職員の指揮でおこなわれることになった。
八時にはふたたび女性たちが押し寄せてきた。今回は訓示はなかったが、彼女たちは一二列ほどの縦隊に並ばされた。各列の先頭付近にはテーブルが二脚置かれ、最初のテーブルで許可証を、二番目のテーブルで登録カードを受け取るようになっていた。
日本の新聞記者数人がその場にいて写真を撮っていた。にっこり笑って嬉しそうな顔をするよう注文をつけられると、女性たちは努めてそうしようとしていた。考えただけで病気になった人がいるほど面倒なことが、簡単におわった。
新しい〔南京市政府〕自治委員会の責任者陶宝晋からけさ電話があった。彼は六二歳〔実際は七〇歳〕で、彼の最後の公職在任時期は、斉燮元の配下にあったころ(一九二四年ごろ)である。陶宝晋=陶錫山
比較的に年齢の高い避難民は徐々に帰宅しているが、若い人たちは大部分がいまなおキャンパスにとどまっている。賢明な選択だと思う。帰るべき家のない人たちのことを思うと胸が痛む。そのような人たちが大勢いる。
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