八重桜(松月)z001さん撮影、クリックすると拡大します。

1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
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2006-12-27 (占領15日目)

[warなひと人][所行無情] 紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる

『毎日版支那事変画報-第14輯』
東中野修道et al.『南京事件「証拠写真を検証」する』P45より孫引き

『毎日版支那事変画報-第14輯』
東中野修道et al.『南京事件「証拠写真を検証」する』P51より孫引き。

↑第24輯というキャプションは東中野et al.の多分間違い。
 ☆戦記映画「南京」より「良民証の交付」(南京大虐殺はうそだ)
 ☆1941年香港で交付された「良民証」(伊藤孝司の仕事) 南京では写真は貼らなかっただろう

日本軍兵士の側から見た査問、剔出の方法
査問のやり方については、いくつかの証言がある。
たとえぽ、中沢第十六師団参謀長は東京裁判に提出した口供書で、
「日支人合同で委員会を構成し、住民を調査することとした。その調査の方法は日支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵たりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した」(法廷証三三九八)
と述べているが、師団副官宮本四郎大尉によると、
「一人ずつ連れ出して真の避難民か、逃亡兵かを見分ける。多勢であるので書類づくり等は一切しない。兵隊は短ズボンが制服なので太股に日焼けの横線がある――紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる」(「轍跡」)
とニュァンスが変る。

見分け方の基準も、太股の線ばかりでなく手のタコ(銃を携行するとできる)、軍帽でひたいにできる日焼けの線、坊主刈りなどで判定した場合もあったようだ。その代り、婦女子が泣きついて、近所の住人だと証言したり、日本人新聞記者が、使用人の親族だからともらいさげを頼むと、放免する例もないわけではなかった。
(秦郁彦「南京事件」P166)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] サンタクロースのまね

難民の子どもたちに二十セント硬貨を
十二月二十七日

サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに二十セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。もみくちゃにされて、ひきさかれそうになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが押しつぶされそうになっているのに気がついて、私はあわてて中止した。プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。いずれ折を見て、だれがまだもらっていないか聞いてみよう。今日、本部を片づけた。仕事もないのに、ここには怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿になった。
なおつづく屠殺
鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五ヵ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下この方法が取られている。さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにかあったのか、とうるさいからだ。
なおつづく放火
新街口(ポツダム広場)。
正面が交通銀行、その背景に紫金山が写っている。撮影は1938年か?
試行錯誤
今日、張と韓が、新街口(ポツダム広場)に日中合弁商店ができて、ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。私は韓といっしょに確かめに行った。そして――はからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ! 日本軍はこの街を破壊しようというのか!

[ヴォートリンの日記][所行無情] きょうは休息をとっている、だが

一二月二七日 月曜日
 きょうは休息をとっている。この二日間気分がすぐれず、寝ているように、と友人たちが強く勧めてくれた。メリーがここにいてくれるおかげで休息がとれた。言い訳がたってありがたかった。
昨夜も平穏
 昨夜も正門に大使館の警官一名が配置され、平穏な夜だった。外国人一人も出校して、フランシス陳のところに泊まった。どういう理由からか、実験学校の犬が夜間に激しく吠えていた。だれかうろついている者がいるのかもしれないと思うほどだ。わたしの犬がどのようにして兵士の銃剣をまぬがれたのかわからない。

 何も変わりがないか確認するために昼間憲兵がやってきた。実際、彼らは清廉で規律正しい人たちのようだし、概して優しい顔立ちをしている。

 午後、公式筋からの電話が何回かあった。一つは岡中佐という人からで、あす午前中にわたしに会いに来校するとのこと。
城内では、依然として破壊が続いている
 城内では、依然として破壊が続いている。火災の煙が濠々と立ち昇っているところを見ると、現在は北里門橋の方角が破壊されているようだ。南門から北里門橋までの間にある商店は軒並み掠奪され、焼き払われてしまったのではないかと思う。掠奪はいまやトラックを使っておこなわれ、絨毯やベッドといった大きな備品が持ち去られている。それらは句容に運ばれているらしい。
城内から郊外の新たな駐屯地への移動の為の略奪か。駐屯地を句容とする部隊はどこだ!
⇒南京地区東部警備隊に21日任ぜられた歩兵一九旅団あるいは騎兵二〇連隊。《参照》12月24日の記事 城内警備組織の変更
絨毯やベッドをトラックで運ぶのは司令部将校用か。
 けさ校門内に入ってきた女性の話では、個人の住宅での掠奪は依然として続いており、銅貨のような小銭さえも盗まれているそうだ。メリーによれば、日本兵がトラックで学院に乗り込み、少女三人を要求したが、彼女がその筋の手紙を見せると、出て行ったという。
ブルーリボン賞はむり
 金陵女子文理学院が難民収容所としてどのような状態になっているかは、わたしの筆の力ではとうてい伝えることができない。清潔さを表彰するブルーリボン賞を学院が受賞できないのは言うまでもない。

 四〇〇人の避難民を初めて受け入れたときには、清潔保持という理想をもち、毎日部屋とホールの掃き掃除をさせ、紙くずを拾わせようと努力した。しかし、いまはそうではない。一万人余の避難民がいる状況では、キャンパスをトイレ代わりに使わないよう説得するだけで精いっぱいだ。

 芝生の部分を歩かせるというハリエットの理想は完全に実現されたが、その結果、芝生はほとんど残っておらず、多くの場所に、とりわけ、粥が配られている場所には泥の水溜まりができている。
「ハリエットの理想」とは?
※John Stuart Mill の妻 Harriet Taylor Mill と関係有るか?
 樹木はいずれもむごたらしい使い方をされ、潅木のなかには、踏みつけられて跡形もないところもある。晴れた日はきまって、木という木は高い木も低い木も、手すりにも棚にもあちこちに、あらゆる種類と色のおむつやズボンが掛けられている。キャンパスにやってくる外国人たちは、このような金陵女子文理学院は見たことがない、と笑い出す。
生ましめんかな
 きょうまでに赤ちゃんの誕生が一四件、死亡が四件あった。ここでは看護婦は程先生しかおらず、先生はひどい過労に陥っている。
※"生ましめんかな" 1945年8月 栗原貞子
広島貯金局の跡

[warなひと人][所行無情] 《参考》入城式後の「捕虜殺害」

ゆうさんの小さな資料集下関の光景―入城式後の「捕虜殺害」―

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