八重桜(松月)z001さん撮影、クリックすると拡大します。

1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
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2006-12-20 (占領8日目)

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 日本軍の評判?

十二月二十日
委員会本部に日本人将校がきていた。南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。このホテルを日本軍の参謀将校たちが占領するためだという。私は十六人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、五中国ドル支払われるという約束だった。これが日本軍当局が示したはじめての真摯な対応だった。中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。
首都飯店:上海派遣軍の司令部
寧海路に戻って、棲霞山の江南セメントエ場(※)のベルンハルド・アープ・シンバーグ氏とはじめてあった。けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。ラジオで、南京は完全に落ち着いており、電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを、日本軍のトラックに拾われたという。おそらく北門から入ったのだろう。問題は、どうやって帰るかだ。
南京の東北東約20km棲霞山にも国際難民キャンプがあった。そこの指導者が、デンマーク人シンバークであった。
午後六時、ミルズ(※W.P.Mi11s、合衆国長老派教会伝道団)の紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員(※守山義雄氏のことか)が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、普通のジャーナリストらしいやり方でインタビューした。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
※英文では、"Moriyama speaks good German and English and interviews me in regular journalsitic fashion."
日本語訳の「あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。」というのはマヌケてる。質問の仕方からジャーナリストとして信頼できそうだ、とラーベは判断したのだろう。

さて、朝日新聞の守山特派員はこの日のラーベインタビューを、一体どのような記事に仕立てたのだろうか?
現実と戦時報道の落差を見てほしい。
「東京朝日新聞」 1938.1.5付夕刊

税金、物価高解消 甦つた”暗黒街”  南京外人の座談会
【南京にて三日守山特派員】

首都落城の歴史的戦火のなかに危険ををかして南京にふみとどまつた欧米人はアメリカ人十四名、ドイツ人四名、オーストリア人二名、白系露人二名、計二十二名を数えてゐるが、東亜をおほふこの大戦火が彼らの目にどううつつたか、異なつた印象のうちでも籠城外人たちが口をそろへて一様に唱へるのは南京の陥落が意外に早かつたこと、支那兵が優秀な日本軍に対して意外に頑強な抵抗を試みたことであつた。

記者は南京入城後にこれら外人に会ふごとにその談話をひろひあつめた、南京陥落をめぐる移動国際座談会である―

ベーツ氏 (略)
ラーデ氏 (ドイツ人、シーメンス商会在支代表社員、在支三十年、南京避難民国際委員会委員長)

日本の攻撃はすばらしかつた、われわれは南京がこんなに早く落城しようとは思はなかつた、私はアフリカに五年支那にすでに三十年住み数々の戦争を見てきた、しかしこんどのやうに激戦に終始してしかもわずか四ヶ月の間に大国の首都を陥落させたかがやける歴史をいまだ知らない、

私にとつては十三日のあさ堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた、

南京が完全に日本軍の手に帰してから四、五日目のある夜どこからともなく「南京はまだ陥落せず、市中には電燈がつき水道も断水してゐない」といつた内容のラヂオ放送がきこえてきたが、それは恐らく国民政府側の笑止な放送であらう。
(全文は、ゆうさんの「試行錯誤」投稿http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/ivhqrf/ucaqrf.html#ucaqrf参照
この守山義雄氏は足立和雄(元朝日新聞特派員)手記にも登場する。
朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。“便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。
「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。
(『守山義雄文集』収録の足立和雄「南京の大虐殺」守山義雄文集刊行 会・1975年刊,本多勝一『南京への道』)
なお守山義雄氏は、後にドイツの敗退過程をベルリン特派員として報じたことで知られる。
いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。そのなかにはYMCA会館も入っている。これは故意の、もしかすると日本軍当局の命令によるとすら考えられる、放火ではないか。
(英文)"One might almost believe that these fires are set with the knowledge, and the perhaps even on the order, of the Japanese military authorities."
ブリキをうちつけておいたわが家の正門を、留守中に日本兵が銃剣でこじ開けようとしたらしい。結局開かなかったものの、銃剣の傷が残っているのとブリキ板の四隅が歪んでいるのがなによりの証拠だ。できるだけまっすぐになるよう、扉をハンマーでたたかせた。銃剣のあとは残しておくことにしよう。これも何かの記念だ。クレーガーがシンバーグをつれて、韓の車を貸してもらえないかと頼みにきた。シンバーグを送っていくつもりなのだ。韓は承知したが、私は内心よせばいいのにと思っていた。車がダメになるとはいわないまでも、タイヤがすり減ってしまうにきまってるからだ。

[ヴォートリンの日記][戦況と民衆][所行無情] ヴォートリンの日記12月20日

一二月ニ〇日 月曜日
 悲惨と苦難のうちに明け暮れる近ごろでは、快晴の天気だけが唯一の天恵であるように恩われる。

 八時から九時までわたしは正門に立ち、比較的に年齢の高い女性にたいし、彼女たちの娘を保護するために金陵女子学院が使えるように、自宅へ引き返してほしいと説得に努めた。みな、建て前としては承諾してくれるものの、帰宅するのをいやがっている。彼女たちが言うには、白昼に日本兵が再三再四やってきては、ありとあらゆる物を掠奪して行くのだそうだ。

 一〇時から一二時まで執務室で、日本大使館に提出するため、キャンパスにおける日本兵の所業について公式報告書を書こうとしたが、無駄な努力だった。というのは、日本兵を追い出しにきてくれと、キャンパスのあちらからもこちらからも呼び出しがかかるからだ。

 またもや南山公寓で、兵士二人が呉博士の整理だんすとスーツケースを持ち去ろうとしているところを見つけた。日本兵を追い払うため、昼食の途中でメリーとわたしはキャンパスの三カ所へ出向いた。彼らは食事の時間にくるのが好きらしい。日中も憲兵にいてもらうようにしようと思っている。

 三時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵がきてくれることを大まじめに願っていた。
もしかすると松井石根?
清涼山に行ったのは19日だから違うかな?
 中央棟にひしめく避難民の視察をわたしたちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らはわたしたちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、脆いて助けを求めた。

 わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることはできない。
高級将校は不良兵にも、やさしい。
   午後四時、ビッグ王といっしょにアメリカ大使館に行き、そこから日本大使館に連れて行ってもらった。ふたたび実状を伝え、使用人二人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。アチソン氏の料理人の話では、彼の父親が射殺されたが、死骸を埋葬するために家へ戻る勇気のある者がいない、というのである。
 驚いたことに、夕食のすぐあと、今夜の警備要員として憲兵二五名がキャンパスに派遣されてきた。どうやら、午後発生した事件の効き目があったようだ。地図を書いてキャンパスの危険箇所−とくに北西隅の部分−を指摘した。
やっぱりあれは、かなりの高級将校だったか?
 今夜は渡り廊下にも避難民がいっぱいで、おそらく六〇〇〇人以上がいるだろう。今夜は東の空が明るい。城内では掠奪が続いている。
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