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1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
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2006-12-17 (占領5日目)

[ヴォートリンの日記][所行無情][戦況と民衆] ヴォートリンの日記12月17日

《写真》Ruth Chester with Minnie Vautrin at Ginling, n.d.
右のRuth Chester(金陵大学化学科主任)は大学の成都 (Chengtu)移転に同行し、南京攻略時は南京にはいない。

今日はまず、ヴォートリンの日記から紹介したい。
一二月一七日

 七時三〇分、 F ・陳といっしょに門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。
女性たちにとって最悪の夜が明けて
 疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は一二歳の少女から上は六〇歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)

 それぞれの個人の悲しい話−とりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話−を書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。門衛が言うには、明け方の六時三〇分からずっと、こうした女性たちがやってきているそうだ。
因果応報。ヴォートリンさんが書き留める時間がなかったのは残念だが、私たちは南京の少女たちの話の代わりに、サイパン、沖縄、満州での、顔を黒く塗り、髪を切り落とした日本人少女たちの話を聞いている。そうして、南京の少女たちが味わった“悲しみ”を理解するもできる。
 午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告がありしだい、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。きょうは朝食のときも夕食のときも、一度か二度はこうした移動をした。ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が三人いま理科棟にいます・・・」などと使用人が言ってこない日はない。

 食料、その他の生活用品を携えて避難民の父兄、その他の人たちがキャンパスに入ってくるのを阻止しようと思っても、人の往来を管理するのは容易なことではない。現在、四〇〇〇人以上がキャンパスにいるが、さらに四〇〇〇人が食料を持ち込むことになった場合には、とりわけ、新たに入ってくる人の選別には慎重でなければならないから、仕事が複雑になる。

 終日押し寄せる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースはあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。終夜勤務の外国人当直者一名を配置してくれることになっている。
開放してもらった寄宿舎へ
 四時から六時までの聞に大勢の婦女子の二グループを引率して行った。何と悲痛な光景だろう。怯えている少女たち、疲れきった女性たちが子どもを連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼと歩いて行く。

 彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の掠奪品を抱えて家から家へと移動して行くところに出くわしたからだ。

 幸いなことに、メリー・トゥワイネンがキャンパスにいたので、わたしは出かける気になった。わたしが戻ってきたさいにトゥワイネンが次のように報告してくれた。
アメリカ国旗を破った日本兵
 五時に日本兵二人がやってきて、中庭の中央にある大きなアメリカ国旗が目に入ると、それを杭から引きちぎって持ち去ったものの、自転車で運ぶには重すぎるし、扱いにくかったので、彼らは、折り重ねたままそれを理科棟の前に投げ捨てて行った。

 正門にいたメリーが呼ばれて駆けつけると、兵士たちは彼女を見るなり、逃走して姿を隠してしまった。彼らが発電所の一室にいるところをメリーが見つけて話しかけると、悪いことをしたと自覚していたのだろう、彼らは顔を赤らめたそうだ。

晴れの式典の夜も「掃蕩作戦」。ヴォートリンにビンタ。
きのう証明をわたしておきながら女子難民収容所をあえて執拗に捜索したのは、「掃蕩作戦」に名を借りた、部隊行動としての婦女子拉致作戦であった。
 夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。

 二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、わたしは、「中国兵はいない」と言った。いっしょにいた李さんも同じ答えをした。

 その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。わたしは脇のドアを指さし、二人を中に入れた。たぶん中国兵を捜していたのだろう、彼らは一階も二階も入念に調べていた。

 外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人三人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、わたしは、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実、そうだったからだ。

 日本兵は三人を正門のところへ連行したので、わたしもついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端に脆いていた。そのなかには、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人何人かがいた。そこには隊長の軍曹とその部下数名がいた。

 まもなく程先生とメリー・トゥワイネンが兵士に連れられてやってきた。学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。

 運の悪いことに、臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、そのなかの一人が兵士のように見えた。彼は道路の片側に荒っぽく引き立てられ、念入りに取り調べられた。

 使用人の身分についてわたしが説明していたとき、わたしを助けようとして陳さんが声を張り上げた。気の毒なことに、そのために陳さんはしたたかにビンタをくらわされたうえ、道路の反対側に手荒く連れて行かれ、脆かされた。

   こうした事態の進行のなかで助けを求めて懸命に祈っていると、フィッチ、スマイス、ミルズの乗った車が到着した。その晩はミルズがキャンパスに泊まってくれることになっていた。日本兵は彼ら三人を中に入れて一列に並ばせ、帽子を脱がせたうえで、ピストルを所持していないかどうか取り調べた。

 フィッチが軍曹と少しばかりフランス語をしゃべれたことが幸いした。軍曹と彼の部下たちは何度も相談したのち、すべての外国人、程先生、メリーの退去を一度は強く求めたが、わたしが、ここはわたしの家だから、出て行くわけにはいかないと言ったところ、やっと考えを変えてくれた。

 そのあと彼らは外国人男性を車で立ち去らせた。あとに残ったわたしたちがその場で立ったり脆いたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行していくのだろうと思った。

   あとになってわたしたちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人聞を正門のところに拘束したうえで、審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている聞に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が一二人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った。

 すべてが終わると、彼らは F ・陳を連れて正門から出て行った。わたしは、陳さんにはもう二度と会えないと思った。

 日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動く者はだれかれかまわず即座に銃撃するにちがいないと思った。

 そのときの場景はけっして忘れることができない。道端に脆いている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それにわたし。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しく坤くように吹くなかを、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。

 みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。わたしたちは彼に、自分の持ち場に戻るよう促した。陳が解放されるよう、そしてまた、連れ去られた人たち−これまでは祈ったことがなくても、その夜はきっと祈ったにちがいない人たち−のために懸命に祈った。

 銃撃されるのではないかという恐怖から、わたしたちは、永遠と思われるほど長い時間あえて動くことはしなかった。しかし、一〇時四五分、そこをあとにする決心をした。

 門衛の杜が正門から外をこっそり覗くと、あたりにはだれもいなかった。閉まっているように見えた通用門から、彼は気づかれないように入って行ったので、わたしたちもみな立ち上がり、その場を立ち去った。

 程先生、メリー 、それにわたしとで南東の寄宿舎に行ってみたが、そこにはだれもいなかった。程先生の嫁や孫たちの姿はなかった。わたしはぞっとしたが、程先生は、きっと避難民にまじって隠れていると思う、と落ちつき払って言った。

 程先生の部屋は散らかり放題で、掠奪されたことは明らかだった。このあと中央棟に行ってみると、そこには、程先生の家族、薜さん、王さん、ブランチ呉さんがいた。

 それからメリーとわたしは実験学校に行ったみた。驚いたことに、陳さんと婁さんがわたしの居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。みなで、感謝を捧げるささやかな礼拝集会をもった。わたしは、あのような祈りを聞いたことがない。

 そのあとわたしは正門まで出向き、門衛所の隣にある陳さんの家で一夜を明かした。わたしたちが床に就いたのは、夜中の一二時をとうに回っていたにちがいない。おそらく、だれもが眠れなかっただろう。
この出来事は、晴れの戦勝「南京入場式」が挙行されたあと、はたまた特務機関の肝いりで「支那兵慰霊祭」がれいれいしく行われた、その晩のことなのだ!

フィッチの手記をみよう

[フィッチの手記] 欧米人に対してすら

 十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。 ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて一〇〇〇人の婦人が強姦されました。

 ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する問、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。

 抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。たちまちのうちに病院は日本軍の残虐と蛮行の犠牲者たちで満員となりましたが。ボプ・ウィルソンは、われわれのところではたった一人の外科医だったので、手いっぱいどころではなく夜半まで働かねばなりませんでした。

 人力車・家畜・豚・ロパなど、しばしば人々の唯一の生計のもとであったものが奪われています。われわれの炊飯場や米屋も干渉を受けました。われわれは米屋を閉店しなくてはなりませんでした。

 昼食後、私はベイツを大学に、またマッカラムを病院につれてゆきましたが、彼らはそちらで泊ることになるでしょう。それから、ミルズとスミスを金陵女子文理学院へ連れてゆきました。というのは、われわれのグループのうち一人が交代で毎晩そこで寝とまりしていたからです。

 金陵女子文理学院の門のところでわれわれは探索隊と覚しきものに誰何されました。われわれは銃剣を突きつけられて乱暴に車からひきずり出され、私の車のかぎは取りあげられました。一列に並ばせられて武器の有無を調べるために身体をなでまわされ、帽子はもぎとられ、顔には懐中電灯をつきつけられ、パスポートと来訪の目的を訊ねられました。

 われわれの正面には、ミス・ヴォートリン、トゥイネム夫人、陳夫人とともに、何十人もの難民の婦人がひざまずいておりました。

 下士官は少し仏語を話す男でした(私と同じ位のものです)が、ここには兵隊がかくまわれていると主張するのでした。私は約五〇人の使用人とその他の職員以外にその場所には男はいないと主張しました。

 彼はそんなことは信じられないといい、その数をこえるものを見つけたら全員射殺するつもりだといいました。それから彼は、女性たちも含めて、われわれ全員がその場を去ることを要求したのです。

 ミス・ヴォートリンが拒絶すると、乱暴に車の方へひったてられました。それから彼の気が変わって、女性たちはとどまってもよいが、われわれは退去するようにというのです。

 われわれはわれわれのうち一人が残ることを主張しましたが、彼はそれを許可しようとしませんでした。われわれは釈放されるまで一時間以上も立たされておりました。


 翌日、われわれはこの悪党が学院から一二人の少女を誘拐したことを知りました。
わたしには、映画撮影所のベニヤ板でできたセットか歌舞伎座の書割の、「表」を「裏」をこの日同時に見た思いがする。ヴォートリンの日記やフィッチの手記が舞台裏の描写だとすると、次に紹介する新聞記事は表舞台の描写。

[warなひと人] この万歳・故国に轟け、威容堂々!大閲兵式

南京座、書割の表側できった『大見得』。
南京入場式
朝日新聞昭和12年12月18日の夕刊である。
「鳴呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚る万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜玄に爆発する雄渾壮麗な大入城式である、この軍中支に聖戦の兵を進めて四ヶ月、輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、東亜和平の基礎玄に定まって国民政府楼上に厨翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか。

荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える、南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火玄に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。……

午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。

ラッパが響き渡る、裂南の号令一下、『頭右ッ』、全将士捧銃の中を軍司令官の閲兵の列が行きすぎる部隊から各部隊長は各その幕僚を随えて閲兵の列に加わって行く、何という堂々の大進軍だ、国民政府に閲兵の列が入る、此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は各幕僚を随えてこれに加わる、午後二時、国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された、翻翻と全東洋の風をはらんではたはたと磨く日の丸の美しさ、海軍々楽隊の『君が代』が奏でられ始めた、空に爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊、正門の中に閲兵を終った松井方面軍司令官、朝香宮殿下以下参列諸員が整列、東方遥皇居を拝し奉った松井軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する『天皇陛下万歳』の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である」(『東京朝日』記事の一部)
記事引用者である前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)によれば、写真は、
南京入城式は十七日午後一時半から開始された。『朝日』は入城式の写真を大校場飛行場に待機した自社の幸風機で福岡支局上空まで3時間で飛び、フィルムを投下、即日号外写真として全国に配布した。幸風号は時速三百七十キロのスピード空輸に成功、大資本にものをいわせた速報体制を着々と築いていった。
兵は凶器なり(36)15年戦争と新聞メディア-南京虐殺を「武士道の精華」と報道した新聞(上)
ということだが、原稿は予定稿だったと筆者である今井正剛氏はのちに記している(今井正剛氏『南京城内の大量殺人』)。つまり、方面軍新聞班からもらった梗概にもとづいて書いたシナリオ。

軍馬将兵諸共に、シナリオどおりに演じたに過ぎない入城式。背景となった中山門は実物だが書割に堕した。観客としての中国の人民はエキストラとしてさえ存在しなかったという。今井によれば、行進も沿道も日本軍と報導戦士のみで、中国人はもちろん欧米第三国人の姿はなかったという。 

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 安全区は日本兵用の売春宿になった

・日本兵が塀を乗り越えて侵入
十二月十七日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。
安全区は日本兵用の売春宿になった
塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまづく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなことを言った。

「安全区は日本兵用の売春宿になった」

当らずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
昨日のヴォートリンの日記を参照してください。

アッパーカット?
仲間のハッツ(R. R.Hatz、オーストリア、安全区機械工)がひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は腰の銃剣をぬいたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。
英文では "who reaches for his sidearm" 携帯武器に手をかけたが
独語原著では "Seitengewehr"で、独和辞典によれば「(腰に帯びている)銃剣」。動詞に"ziehen"を使っていて、英語だと"draw" "pull"にあたる動詞だから、「抜いた」ようだ。(Apemanさん情報)

岡崎総領事、オイオイ
きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いてるじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。
泥棒兵も西洋大男には弱い
クレーガー(Christian Kroeger、ドイツ礼和洋行)といっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、"We friend・・・you go!"(俺たち友達ね---さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。
と思ったら、再犯。
時刻は晴れの式典が行われている頃。
このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。"I thank your present ! Nippon Army, K. SAto. "(プレゼントどうも! 日本軍、K・サトウ 写真あり)
ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!


日本兵の死体整理
軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている(日本語版口絵写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。
夜。難民たちに筵。まらまら塀のぼり兵。
午後六時、庭にいる難民たちに筵(むしろ)を六十枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
「ヒットラー」の霊験
アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ !」あるいは「ヒトラー !」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。
日本大使館に抗議の手紙
きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし),二等書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。
発電所の復旧について
私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。
ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路二四四号。
「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ
日本人は(福井、福田両氏のこと)本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官への挨拶と次のことを二人に託した。

「『市長』の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」
※日本語訳は、「日本軍」となっているが、英文では、 "the Japanese"(ドイツ語原著でも"Die Japaner"--Apemanさん情報)。つづいて、"I tell them to give commandant ---" とあるから、そこにいた二人のことだろう。「円満にことを運んでおく方がいい」と日本“軍”が考えていたとラーベが判断したわけではない。希望的観測を一縷の望みとして、ラーベは日本人が一枚岩だとは思っていない。

『福田氏』にラーベおやっさんの最大限の皮肉は通じただろうか?

[ラーベの日記][国際委員会][所行無情] 第6号文書

ラーベの日記のドイツ語版原著と英語版の巻末には、12月17日に安全区国際委員会が日本大使館二等書記官福井淳氏宛に送った公式文書が載っている。しかし、日本語版「南京の真実」では割愛されている。
http://latemhk.tdiary.net/19371217.html
人口問題でよく引用されるが、文書の主旨はそんなところにはない。
[]

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南京附近1937・12・1
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