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1937年
秋冬コレクション

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"Don't kill, don't be killed"
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2006-12-09

[warなひと人][事実誤認] 降伏勧告ビラの怪1

12月9日この日、日本軍は、総攻撃まで24時間猶予付きの、松井石根中支那方面軍司令官名による「降伏勧告ビラ」を飛行機から撒いたという。

ラーベ日記を批判する人たちは、そのことが書いてないからラーベの日記は「信用ならん」という。しかし、ラーベは本当に知らなかったのかもしれない。ラーベの家の周りにもビラを降らしたのか大いに疑問だからである。南京安全区にいた他の人たちの日記の中に「降伏勧告文」の記述はあるかな?

「降伏勧告文書」だから当然、中国側防衛軍司令部(※)の上にビラを撒いただろう。でも安全区には撒いてない可能性はある。笠原『南京事件』には「日本軍機から城内八箇所に投下した」とある(p121)。
(※)城内東部の玄武湖を望む高台、百子亭(玄武門に近い)にあった司令官唐智生の公館

南京の城内の面積は、東京なら山手線の内側よりちょっと狭いぐらいの広さだそうだ。城内全市にビラをゆきわたらせるには、いったいどのくらいの数の飛行機が必要なのだろうか?

こういう飛行機(※)で、


新宿でビラを撒いても文京区の人は気がつかない。

(※)これは実は米砲艦パナイ号を襲った複葉飛行機で、海軍機ならこれかもしれない。
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln2/TW017.html
陸軍機だと・・・
九二式偵察機とか

[warなひと人][事実誤認] 降伏勧告ビラの怪2

南京事件、南京アトロシティーズを否定しようとする人たちは、松井大将の降伏勧告文を中国側が拒否したから、全ての結果の責任は中国側にある、といっている。その割には、どのようにして確実にそれを中国側に手交したのか、詳しく書かれたものを見てはいない。また、それほど重要な文書なのに、降伏勧告文の全文を正確に掲載しているWEBサイトを見たことがない。

私の捜し方が悪いのだろうか? 正確な文書があるとすれば、東京裁判の弁護側証拠だが?

ありました、ありました。日本陸軍士官OB会である偕行社の『証言による南京戦史』第3章 南京総攻撃開始に

[ラーベの日記][国際委員会][空襲] ラーベの停戦案?

国と国、軍と軍が、停戦する自己能力がないのなら、市民の発想で!
十二月九日

いまだに米を運ぶ作業で忙しい。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。
(英訳版):"We are still busy transporting rice from outside the city."
さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。

午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。作戦上火をつけたのだ。町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。照準が狂っていたのか、幸か不幸か、それらは命中しなかった。とにかく日本は同盟国なのだから。 今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったとヒトラー総統に電報を打つといってやった。大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。
これは訳者による妄想加筆なので削除しました。⇒参照
そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。ところが、なんと唐は承知したのだ。そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。
〔編者註〕
そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれてアメリカの砲艦パナイに赴いた。彼らは二通の電報を打った。一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。
アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベは次のように記している。
「国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの日本軍当局による確約を望んでいる。もしこれが得られれば、委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する」
---これらの電報には署名がある「代表 ジョン・ラーベ」
燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終る直前、夜の七時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区じゅうに響いている。(※)明かりが消され、暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。兵器と爆弾を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と兵器を差し出した。
(※)英文では
We hear that in the meantime the Japanese have advanced to the gates of Nanking, or just outside them. You can hear thundering cannon and machine-gun fire at the Sourh Gate and across from Goan Hoa Men.
the Sourh Gate:南大門=中華門
Goan Hoa Men:光華門
「光華門のそばからも」が日本誤訳から消えている。

こうした都市殲滅戦回避の努力を読むと、最近の事例として2004年に発生した2次に亘るイラク・ファルージャの戦闘を思い出す。
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