
正月休みは昨日で終ったようです。「登録」が再開されました。午前中に金陵大学に行ったところ、そこでも農学部棟で登録がおこなわれていることを知ったが、群衆の人数は女子学院に比べると少ない。そのために、女子学院では粥の配給が一日一回に減らされており、子どもたちにはとてもつらい思いをさせている。しかし、兵士であるとして連行されそうになった場合、ここでは、自分の連れ合いに兵士ではないことを証言してもらえるせいか、男性たちは、女子学院で登録するほうがよいと思っているようだ。五人の女性の夫を捜し出すのに嘆願書を書いた
キャンパスで登録がおこなわれているかぎり、うろつき回る兵士による事件は起きていない。五人の女性の夫を捜し出すのに力を貸したいと思い、きょうは彼女たちのために手紙というか、嘆願書を書いた。夫たちだけでなく少年たちも。安全区委員会のメッセンジャーボーイだった魏少年も被害を受けた。
今夜、使い走りの魏少年が彼の体験をつぶさに話してくれた。拉致された魏少年の足取り
一二月一四日、少年は最初に国際委員会に、次に大学病院に手紙を持って行く途中のことだった。鼓楼の近くで二人の兵士に制止された。一人が腹部に銃剣を突き付け、もう一人が背後で銃を構えていた。彼らは、少年が腕に巻いていたアメリカ大使館の腕章を引きちぎり、わたしの書いた手紙を奪い取って破り捨て、少年が携帯していた身分証明書を投げ捨ててしまった。そして、もちろん、自転車は取り上げられた。
少年は無理やりに下関へ行かされ、そこでは一〇日間、彼らのためにもっぱら掠奪を働いたり、盗品をトラックに積み込んだりして過ごした。少年は、何百人という中国人が殺害されるのを目撃したそうだ。兵士もいれば民間人もいるし、老人もいれば若者もいた。いたるところに死体が転がっていた。
倒壊をまぬがれた建物はほとんど残っていないようだ。残っているものとしては揚子江賓館と聖公会の建物を少年は記憶していた。運び出されなかった家具は薪に使われたそうだ。ストーブで燃やすのではなく、焚き火に使ったようだ。
その後二日間、少年は中央大学のすぐ西隣りの家に連れて行かれ、またもや掠奪品の運搬をすることになった。最後は掠奪品を句容に運ばされた。夜明け前に出発し、まる一日飲まず食わずで、日がとっぶり暮れてから句容に到着した。
そこに到着してから、男性一八人に放免が通告されて、南京に戻ってもよいと言われた。暗闇の中を移動するのは危険だったが、彼らは思いきって出発することにした。何度となく銃剣を突き付けられて制止されながらも、ついに南京に到着した。結局のところ、彼らのうち二人以外はみな、またもや運搬の仕事をさせられるために連行された。
道すがら、沼はどこも、人間や動物の死体でいっぱいだったが、それでも、喉の渇きを癒すためにはその水を飲まなければならなかった、と少年は語った。一二月二八日、彼は、痩せ細り憔悴して帰宅した。いまなお疲れがとれず、動くこともできないでいる。
午後、若い女性二人がわたしの執務室にきて、夫を捜し出すのに力を貸してほしい、と訴えた。三人兄弟のうち二人が一二月一四日に連行されたという。その一家は、南門の近くで鴨肉屋を経営していた。この日のあと、日記には連日のように夫探しの記事が出てくる。彼女達に諦めなさいといえないヴォートリン女史の苦しみ。
きょう、女子学院に近い上海路は、さながら中国の旧正月の夫子廟のようだった。いまでは食品によっては買えるものもある。わたしたちと使用人が食べるため、袁〔音訳〕博士の山羊を殺した。肉はいまだに買えない。夫子廟:中華門から約1Km北東にある孔子廟。周囲は南京有数の歓楽街。
新年の2日目だというのに、ラーベの日記もむごたらしい事件の聞き取りから始っている。
一月三日計画的で残虐な犯行である。もし、この事件がラーベの言う通りの経過をたどったものなら、一罰百戒、この日本兵は憲兵隊が逮捕し、軍法会議にかけて処刑すべきではなかったか。
きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に医者の許伝音氏のところからやってきた。フィツチ様!本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。田中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。これは実に計画的で残虐な犯行だ。
本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして日本兵に射殺されました。
近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、逃げてきた婦人たちでいっぱいです。私はシュペアリング氏に手紙を書き、すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願いしました。シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか? 敬具
許伝音
劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。五人の子どもがいる。夫がかけつけ、日本兵の横っ面をはって追い払った。午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、台所に隠れていた劉をひきずりだした。近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。だが日本兵は聞き入れなかった。
田中氏は、ただちに軍部に報告すると約束した。私も氏が約束を果たさなかったとは思っていない。だが結局、沙汰やみだ。兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。それ以上こらしめたという話を聞いたことがない。
今日は二階の風呂場で水がでた。正午には、ところどころ、電気もついたのだが、一時ごろになってまたとまってしまった。たぶん、我々にラジオのニュースを聞かせないためだろう。そういえば、日本人の要請で、工人50人を派遣したのは12月29日だったはず。日本に送る正月のニュースに電気の復旧を載せたかったのだろう。『平和甦る南京』というプロパガンダに欠かせない要素として。
| 前 | 2008年 1月 |
次 | ||||
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | ||