
一二月一七日女性たちにとって最悪の夜が明けて
七時三〇分、 F ・陳といっしょに門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。
疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は一二歳の少女から上は六〇歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)因果応報。ヴォートリンさんが書き留める時間がなかったのは残念だが、私たちは南京の少女たちの話の代わりに、サイパン、沖縄、満州での、顔を黒く塗り、髪を切り落とした日本人少女たちの話を聞いている。そうして、南京の少女たちが味わった“悲しみ”を理解するもできる。
それぞれの個人の悲しい話−とりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話−を書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。門衛が言うには、明け方の六時三〇分からずっと、こうした女性たちがやってきているそうだ。
午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告がありしだい、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。きょうは朝食のときも夕食のときも、一度か二度はこうした移動をした。ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が三人いま理科棟にいます・・・」などと使用人が言ってこない日はない。開放してもらった寄宿舎へ
食料、その他の生活用品を携えて避難民の父兄、その他の人たちがキャンパスに入ってくるのを阻止しようと思っても、人の往来を管理するのは容易なことではない。現在、四〇〇〇人以上がキャンパスにいるが、さらに四〇〇〇人が食料を持ち込むことになった場合には、とりわけ、新たに入ってくる人の選別には慎重でなければならないから、仕事が複雑になる。
終日押し寄せる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースはあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。終夜勤務の外国人当直者一名を配置してくれることになっている。
四時から六時までの聞に大勢の婦女子の二グループを引率して行った。何と悲痛な光景だろう。怯えている少女たち、疲れきった女性たちが子どもを連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼと歩いて行く。アメリカ国旗を破った日本兵
彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の掠奪品を抱えて家から家へと移動して行くところに出くわしたからだ。
幸いなことに、メリー・トゥワイネンがキャンパスにいたので、わたしは出かける気になった。わたしが戻ってきたさいにトゥワイネンが次のように報告してくれた。
五時に日本兵二人がやってきて、中庭の中央にある大きなアメリカ国旗が目に入ると、それを杭から引きちぎって持ち去ったものの、自転車で運ぶには重すぎるし、扱いにくかったので、彼らは、折り重ねたままそれを理科棟の前に投げ捨てて行った。
正門にいたメリーが呼ばれて駆けつけると、兵士たちは彼女を見るなり、逃走して姿を隠してしまった。彼らが発電所の一室にいるところをメリーが見つけて話しかけると、悪いことをしたと自覚していたのだろう、彼らは顔を赤らめたそうだ。
夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。この出来事は、晴れの戦勝「南京入場式」が挙行されたあと、はたまた特務機関の肝いりで「支那兵慰霊祭」がれいれいしく行われた、その晩のことなのだ!
二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、わたしは、「中国兵はいない」と言った。いっしょにいた李さんも同じ答えをした。
その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。わたしは脇のドアを指さし、二人を中に入れた。たぶん中国兵を捜していたのだろう、彼らは一階も二階も入念に調べていた。
外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人三人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、わたしは、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実、そうだったからだ。
日本兵は三人を正門のところへ連行したので、わたしもついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端に脆いていた。そのなかには、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人何人かがいた。そこには隊長の軍曹とその部下数名がいた。
まもなく程先生とメリー・トゥワイネンが兵士に連れられてやってきた。学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。
運の悪いことに、臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、そのなかの一人が兵士のように見えた。彼は道路の片側に荒っぽく引き立てられ、念入りに取り調べられた。
使用人の身分についてわたしが説明していたとき、わたしを助けようとして陳さんが声を張り上げた。気の毒なことに、そのために陳さんはしたたかにビンタをくらわされたうえ、道路の反対側に手荒く連れて行かれ、脆かされた。
こうした事態の進行のなかで助けを求めて懸命に祈っていると、フィッチ、スマイス、ミルズの乗った車が到着した。その晩はミルズがキャンパスに泊まってくれることになっていた。日本兵は彼ら三人を中に入れて一列に並ばせ、帽子を脱がせたうえで、ピストルを所持していないかどうか取り調べた。
フィッチが軍曹と少しばかりフランス語をしゃべれたことが幸いした。軍曹と彼の部下たちは何度も相談したのち、すべての外国人、程先生、メリーの退去を一度は強く求めたが、わたしが、ここはわたしの家だから、出て行くわけにはいかないと言ったところ、やっと考えを変えてくれた。
そのあと彼らは外国人男性を車で立ち去らせた。あとに残ったわたしたちがその場で立ったり脆いたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行していくのだろうと思った。
あとになってわたしたちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人聞を正門のところに拘束したうえで、審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている聞に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が一二人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った。
すべてが終わると、彼らは F ・陳を連れて正門から出て行った。わたしは、陳さんにはもう二度と会えないと思った。
日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動く者はだれかれかまわず即座に銃撃するにちがいないと思った。
そのときの場景はけっして忘れることができない。道端に脆いている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それにわたし。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しく坤くように吹くなかを、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。
みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。わたしたちは彼に、自分の持ち場に戻るよう促した。陳が解放されるよう、そしてまた、連れ去られた人たち−これまでは祈ったことがなくても、その夜はきっと祈ったにちがいない人たち−のために懸命に祈った。
銃撃されるのではないかという恐怖から、わたしたちは、永遠と思われるほど長い時間あえて動くことはしなかった。しかし、一〇時四五分、そこをあとにする決心をした。
門衛の杜が正門から外をこっそり覗くと、あたりにはだれもいなかった。閉まっているように見えた通用門から、彼は気づかれないように入って行ったので、わたしたちもみな立ち上がり、その場を立ち去った。
程先生、メリー 、それにわたしとで南東の寄宿舎に行ってみたが、そこにはだれもいなかった。程先生の嫁や孫たちの姿はなかった。わたしはぞっとしたが、程先生は、きっと避難民にまじって隠れていると思う、と落ちつき払って言った。
程先生の部屋は散らかり放題で、掠奪されたことは明らかだった。このあと中央棟に行ってみると、そこには、程先生の家族、薜さん、王さん、ブランチ呉さんがいた。
それからメリーとわたしは実験学校に行ったみた。驚いたことに、陳さんと婁さんがわたしの居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。みなで、感謝を捧げるささやかな礼拝集会をもった。わたしは、あのような祈りを聞いたことがない。
そのあとわたしは正門まで出向き、門衛所の隣にある陳さんの家で一夜を明かした。わたしたちが床に就いたのは、夜中の一二時をとうに回っていたにちがいない。おそらく、だれもが眠れなかっただろう。
十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。 ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて一〇〇〇人の婦人が強姦されました。わたしには、映画撮影所のベニヤ板でできたセットか歌舞伎座の書割の、「表」を「裏」をこの日同時に見た思いがする。ヴォートリンの日記やフィッチの手記が舞台裏の描写だとすると、次に紹介する新聞記事は表舞台の描写。
ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する問、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。
抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。たちまちのうちに病院は日本軍の残虐と蛮行の犠牲者たちで満員となりましたが。ボプ・ウィルソンは、われわれのところではたった一人の外科医だったので、手いっぱいどころではなく夜半まで働かねばなりませんでした。
人力車・家畜・豚・ロパなど、しばしば人々の唯一の生計のもとであったものが奪われています。われわれの炊飯場や米屋も干渉を受けました。われわれは米屋を閉店しなくてはなりませんでした。
昼食後、私はベイツを大学に、またマッカラムを病院につれてゆきましたが、彼らはそちらで泊ることになるでしょう。それから、ミルズとスミスを金陵女子文理学院へ連れてゆきました。というのは、われわれのグループのうち一人が交代で毎晩そこで寝とまりしていたからです。
金陵女子文理学院の門のところでわれわれは探索隊と覚しきものに誰何されました。われわれは銃剣を突きつけられて乱暴に車からひきずり出され、私の車のかぎは取りあげられました。一列に並ばせられて武器の有無を調べるために身体をなでまわされ、帽子はもぎとられ、顔には懐中電灯をつきつけられ、パスポートと来訪の目的を訊ねられました。
われわれの正面には、ミス・ヴォートリン、トゥイネム夫人、陳夫人とともに、何十人もの難民の婦人がひざまずいておりました。
下士官は少し仏語を話す男でした(私と同じ位のものです)が、ここには兵隊がかくまわれていると主張するのでした。私は約五〇人の使用人とその他の職員以外にその場所には男はいないと主張しました。
彼はそんなことは信じられないといい、その数をこえるものを見つけたら全員射殺するつもりだといいました。それから彼は、女性たちも含めて、われわれ全員がその場を去ることを要求したのです。
ミス・ヴォートリンが拒絶すると、乱暴に車の方へひったてられました。それから彼の気が変わって、女性たちはとどまってもよいが、われわれは退去するようにというのです。
われわれはわれわれのうち一人が残ることを主張しましたが、彼はそれを許可しようとしませんでした。われわれは釈放されるまで一時間以上も立たされておりました。
翌日、われわれはこの悪党が学院から一二人の少女を誘拐したことを知りました。

「鳴呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚る万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜玄に爆発する雄渾壮麗な大入城式である、この軍中支に聖戦の兵を進めて四ヶ月、輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、東亜和平の基礎玄に定まって国民政府楼上に厨翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか。記事引用者である前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)によれば、写真は、
荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える、南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火玄に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。……
午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。
ラッパが響き渡る、裂南の号令一下、『頭右ッ』、全将士捧銃の中を軍司令官の閲兵の列が行きすぎる部隊から各部隊長は各その幕僚を随えて閲兵の列に加わって行く、何という堂々の大進軍だ、国民政府に閲兵の列が入る、此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は各幕僚を随えてこれに加わる、午後二時、国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された、翻翻と全東洋の風をはらんではたはたと磨く日の丸の美しさ、海軍々楽隊の『君が代』が奏でられ始めた、空に爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊、正門の中に閲兵を終った松井方面軍司令官、朝香宮殿下以下参列諸員が整列、東方遥皇居を拝し奉った松井軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する『天皇陛下万歳』の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である」(『東京朝日』記事の一部)
南京入城式は十七日午後一時半から開始された。『朝日』は入城式の写真を大校場飛行場に待機した自社の幸風機で福岡支局上空まで3時間で飛び、フィルムを投下、即日号外写真として全国に配布した。幸風号は時速三百七十キロのスピード空輸に成功、大資本にものをいわせた速報体制を着々と築いていった。ということだが、原稿は予定稿だったと筆者である今井正剛氏はのちに記している(今井正剛氏『南京城内の大量殺人』)。つまり、方面軍新聞班からもらった梗概にもとづいて書いたシナリオ。
(兵は凶器なり(36)15年戦争と新聞メディア-南京虐殺を「武士道の精華」と報道した新聞(上) )
十二月十七日安全区は日本兵用の売春宿になった
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。
塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまづく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなことを言った。昨日のヴォートリンの日記を参照してください。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
当らずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
仲間のハッツ(R. R.Hatz、オーストリア、安全区機械工)がひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は腰の銃剣をぬいたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。英文では "who reaches for his sidearm" 携帯武器に手をかけたが
きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いてるじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。泥棒兵も西洋大男には弱い
クレーガー(Christian Kroeger、ドイツ礼和洋行)といっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、"We friend・・・you go!"(俺たち友達ね---さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。と思ったら、再犯。
このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。"I thank your present ! Nippon Army, K. SAto. "(プレゼントどうも! 日本軍、K・サトウ 写真あり)
ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
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軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている(日本語版口絵写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。夜。難民たちに筵。まらまら塀のぼり兵。
午後六時、庭にいる難民たちに筵(むしろ)を六十枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。「ヒットラー」の霊験
アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ !」あるいは「ヒトラー !」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。日本大使館に抗議の手紙
きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし),二等書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。発電所の復旧について
私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。※日本語訳は、「日本軍」となっているが、英文では、 "the Japanese"(ドイツ語原著でも"Die Japaner"--Apemanさん情報)。つづいて、"I tell them to give commandant ---" とあるから、そこにいた二人のことだろう。「円満にことを運んでおく方がいい」と日本“軍”が考えていたとラーベが判断したわけではない。希望的観測を一縷の望みとして、ラーベは日本人が一枚岩だとは思っていない。ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路二四四号。日本人は(福井、福田両氏のこと)本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官への挨拶と次のことを二人に託した。
「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ
「『市長』の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」
十二月十六日菊池氏:
朝、八時四十五分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。今日の九時から、「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。"and the cases mentioned in the letter are only a few out of a great many that we know about"ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。ただし、この手紙に記されている事件は、我々が知つた無数の事件から抜き出したホンの数例にすぎない。
門内に入れさせてください在南京日本大使館福田篤泰様
拝啓
安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。
国際委員会の仲間が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がたトラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。ここに日本兵の不法行為リストを同封します。(ただし、ここにはリストは掲載されていない)
この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。
……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。日本軍最高司令官が到着すれば、街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。このままではもうどうにも耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。 敬具
代表 ジョン・ラーベ
事務局長 ルイス・S・C・スマイス
ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない! 私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭にいれてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。菊池氏と下関の発電所へ
菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、四十〜四十五人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じてわが社のドイツ人技術者をこちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。またまた武装解除した中国人兵士の連行と銃殺。
たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、五十人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。これではラーベ達の代りに処刑されたようなものだ。

〔検証〕北部掃蕩地区(難民区)担当の歩兵第七連隊は、十六日、難民区に潜入した約七千人の便衣兵(ゲリラ)の徹底的摘発を開始した。速隊命令によると、十五日までに捕えたものは、殆んどが下土官・兵であり、将校は便衣に着替えて外国の建物に隠れており、明十七日の入城式のために安全確保が必要であった。憲兵の協力を求め、一般市民の巻き添えを防止したのである。このあと畝本氏は過酷な掃蕩戦に参加した兵士の日記・私記を引用しているが、その過酷さは目に余る。追って、それらを引用するつもりだ。---ラーベの日記に戻る。
ラーべの日記によると、略奪だけでなく、強姦、連行殺人、暴力が安全区内に及び、極度の恐怖におち入ったと述べているが、日本軍側の目的ぱ「便衣兵の摘出」であった。(真相・南京事件―ラーベの日記を検証してp98)
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。〓(手偏に邑)江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字どおり死屍累々(ししるいるい)だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。英文では、 "It may be the disarmed Chinese will be forced to do the job before they're killed"
おそらく(その代わりに)、武装解除された中国軍兵士たちが銃殺される前に、その仕事をさせられたのかもしれない。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックの外で機関銃で撃ち殺された。
晩に岡崎勝男総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が少数いたのはたしかだが、残り大部分は揚子江にある島の強制収容所に送られたという。※ "a few soldiers", "the rest"
以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。
いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。英文では、"Their one hope is that I, the "foreign devil," will drive these evil spirits away."
女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあったりしている。彼らの切なる希望は「外国の悪魔」である私が、日本兵という悪霊を追い出すことである(渡辺さんによる訂正訳)。

一二月一六日 木曜日金陵女子文理学院にたいする査察
夜、ジョージ・フィッチに、状況はどうだつたか、城内の治安回復はどの程度進捗したかを尋ねると、「きょうは地獄だった。生涯でこの上なく暗澹たる一目だった」との答えが返ってきた。わたしにとってもまったくそのとおりだった。
昨夜は静かで、外国人男性三人は落ち着いて過ごすことができたが、きょうの日中は平穏どころではなかった。
けさ一〇時ごろ、金陵女子文理学院にたいする公式の査察がおこなわれた。徹底した中国兵狩りである。一〇〇人を超える日本兵がキャンパスにやってきて、まず〔一語脱落〕棟から査察を開始した。焼却するに忍びなかった綿入れ軍服
彼らは、すべての部屋を開示するよう要求した。鍵がすぐに間に合わなかったときのことだが、彼らはひどくいらだち、兵士の一人が、力ずくでドアを開けようと斧を手にして待ち構えていた。
徹底した捜索が始まると、気が滅入ってしまった。というのも、二階の地理科準備室に負傷兵用の綿入れ衣類数百着が収納されていることをわたしは知っていたからだ。まだ処分していなかった全国婦人救援会製の衣類である。この冬に、貧しい中国人が暖かな衣類をたまらなく欲しくなることはわかっていたので、焼却するに忍びなかった。日本兵の好色が危機を救った
その運命の部屋の西隣りの部屋に兵士を案内したところ、彼らは、それに隣接するドアから中に入ろうとした。しかし、わたしは鍵を持ち合わせていなかった。幸運なことに、屋根裏部屋に兵士たちを案内すると、そこには婦女子二〇〇人ほどがいて、それが兵士たちの気をそらしてくれた。 ( 夜暗くなってから、わたしたちは問題の衣類を地中に隠した。陳さんは、彼が所持していた小銃を池に投げ捨てた。 )収穫ゼロでは帰れない敗残兵狩り
日本兵は学院の使用人を二度にわたって掴み、この男たちは兵隊だと言って連行しようとしたが、わたしがそこに居合わせ、「兵隊ではない、苦力です」と言ったことで、彼らは、銃殺ないしは刺殺の運命から免れた。「婦女子しかいない」証明書
日本兵は、避難民のいるすべての建物内を捜索した。根性の卑しい将校が兵士三人を連れてやってきて飲み物を要求したので、程先生の寄宿舎に連れて行った。さいわい、そのときは知らなかったことだが、六人もの兵士がキャンパスで機関銃の訓練をしており、さらに大勢の兵士がキャンパスの外で警備につき、少しでも逃げようとする者がいればいつでも発砲できる態勢をとっていた。
階級がいちばん上の将校が立ち去るさいに、ここには婦女子しかいない旨の証明書を残してくれた。これがその後、小人数でやってくる日本兵たちをキャンパスに入らせないようにするのに役立った。一からげに縄でつながれて
正午を少し回ったころ、小人数の一団が校門を通り抜けで診療所へやってきた。わたしがそこに居合わせなかったら、彼らは唐の弟を連れ去ったことだろう。そのあと彼らは通りを先へ進んで行き、洗濯場に押し入ろうとしたが、まさにそのときわたしが追いついた。だれでも日本兵から嫌疑をかけられようものなら、一からげに縄でつながれて彼らのうしろから歩いていく四人の男と同じ運命を強いられたであろう。日本兵は四人を、キャンパスの西にある丘へ連れて行った。そして、そこから銃声が聞こえた。ありとあらゆる罪業が今日
おそらく、ありとあらゆる罪業がきょうこの南京でおこなわれたであろう。昨夜、語学学校から少女三〇人が連れ出された。そして、きょうは、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。そのなかの一人はわずか一二歳の少女だった。我が家が占拠されたのか?
食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは五五ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押し入られ、金品を奪われているのではないかと思う。
今夜トラックが一台通過した。それには八人ないし一〇人の少女が乗っていて、通過するさい彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。
丘や街路からときどき銃声が聞こえてくると、だれかの− おそらくは兵士でない人の− 悲しい運命を思わずにはいられない。
日本兵の一隊をキャンパスの外につれ出すよう、校内のどこかから呼び出しがかかったとき以外は、わたしは警備係として一日の大部分を正門の前に腰をおろして過ごしている。
夜、南山公寓の使用人の沈〔音訳〕師伝がやってきて、公寓内の電燈が全部点いていることを知らせてくれた。兵士たちにわが家が占拠されたと思い、気が滅入ってしまった。二人で行ってみると、サ ールとリッグズ氏が前の晩に電燈を消し忘れていたことが判明した。壊れてしまった惨めな貝殻
理科棟の管理人の姜〔音訳〕師伝の息子がけさ連行された。貌はまだ戻ってこない。何かをしてやりたいのだが、どんなことをしたらよいのかわからない。というのも、城内の秩序が回復していないので、キャンパスを離れるわけにいかないからだ。
ジョン・ラーベ氏は、自分としては電気・水道・電話の復旧を手伝うことができるが、城内に秩序が回復されるまでは静観するつもりだ、と日本軍の司令官に伝えた。今夜の南京は、壊れてしまった惨めな貝殻にほかならない。通りに人影はなく、どの家も暗闇と恐怖に包まれている。日本軍にとってこれは勝利か?
きょうは無辜の勤勉な農民や苦力がいったい何人銃殺されたことだろう。わたしたちは四〇歳以上の女性すべてに、娘や嫁だけをここに残し、帰宅して夫や息子といっしょにいるようしきりに促した。
今夜はわたしたちには、約四〇〇〇人の婦女子にたいする責任がある。こうした緊張にあとどのくらい耐えることができるのだろうか。それは、ことばでは言いあらわしがたい恐怖だ。
軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとっては勝利とみなせるかもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である。このことは、将来中国との協力および友好関係を長く阻害するだけでなく、現在南京に住んでいる人びとの尊敬を永久に失うことになるであろう。 いま南京で起こっていることを、日本の良識ある人びとに知ってもらえさえしたらよいのだが。明日の威風堂々の代償として今日の悲惨があった。
神さま、今夜は南京での日本兵による野獣のような残忍行為を制止してくださいますよう。きょう、何の罪もない息子を銃殺されて悲しみにうちひしがれている母親や父親の心を癒してくださいますよう。そして、苦しい長い一夜が明けるまで年若い女性たちを守護してくださいますよう。もはや戦争のない日の到来を早めてくださいますよう。あなたの御国が来ますように、地上に御国がなりますように。
今朝の8時半に大勢の日本兵が調査にやって来たので、ヴォートリンさんの側で私も彼らを接待した、彼らが何の調査するか分からなかった。彼らは最初に中国兵を探すのだと話を始めた、兵隊がいないことを知っているので、私達は彼らが兵を探すことを恐れてはいない。しかし兵隊のみならず、もし兵隊の服と見えたならば、彼は直ぐにお前は兵とみなすと言った。飢えた兵隊
彼らは皆300号棟にいて、自分が外から取り寄せた多くの麻袋に、多くの負傷兵の服とベストが全て300号棟の上の階の地理学系の部屋の中にあるため、私とヴォートリンさんは少し心配になった。私はその扉に立ち止まり、ヴォートリンは先に彼らを連れて別の部屋に行った。その時の難民はとても多く、それから彼らを連れて3階へ行き、あの部屋を歩かずに、彼らを連れて降りて行った、その時に私の心はやっと静まった。
彼らはとても凶悪で、およそ灰色の服は全て兵隊が着たので、あの時の人は灰色の服を全て池の中に投げ捨てた、まったく鬼が現れたようだ。
ヴォートリンは彼らを400号棟に連れて行きお茶を飲み、1人は私といっしょに100号棟を見て、私には方法がないので、彼といっしょに入って行った。本来なら私は彼らに会わないのだが、人が多いためヴォートリン一人では面倒見切れないからだ。
彼らは文字を書いて、ここに兵隊はいないのかと私に聞き、私がいないと答え、ヴォートリンもいないと言った。
ヴォートリンはお茶だけではなく、さらに彼らが食べるお菓子を出した。私は本当にヴォートリンを恨んだ、彼らを少し接待すると、大勢の兵が寄って来る。現金とニワトリ
彼らはまた文字を書き私達に承諾をもとめた、我兵がここに来ることを許可しない誓いを立てることを、ヴォートリンは彼らに承諾した。
特に言葉が分かるかを、更に文字を書いて私に聞いた。彼らは表門を出て行きヴォートリンに、日本兵が来たら彼らに見せれば、日本兵は入ってこない1枚の紙を渡した、実は役に立たない。
午後また来た兵が童ちゃんの兄弟が兵隊だと言って連れて行く、彼は少し雰囲気があるので、2度ともヴォートリンが守りに来た。
彼ら労働者の噂によれば、長髪は日本兵が捕えていく。一部の労働者は髪を全部剃った、知らずに日本兵と会ったこのような人は更に耐え難い、彼らは髪を剃ったら敗残兵と思い込んでいる、これらの労働者は後悔しても遅い。
この兵が行けば、またあの兵が来るので、ヴォートリンは死ぬほど忙しかった。
今度の兵は李さんに出会うと、彼の体を調べ彼の50元を取り上げて行き、更に彼にビンタを1発打った。彼は多くのお金を身に持つべきではなく、昼食の頃に彼にお金には注意するように言った。朝、700号棟の李師傅からも10元を取り上げ、まだ少し良心がある日本兵は1元を返して、彼は1元の残りを使う。『掃討戦』『便衣兵狩り』の実態である。ヴォートリンさんというDevilが居なかったら、難民達はどうなっていたのだろうか? 「保護すべし」と厳重注意が行なわれた安全区ですらこのありさまである。安全区の外で家に隠れていて見つかった女たち、男たちがどうなったかは想像がつく。
また兵隊がニワトリを求めて来たので、ヴォートリンはまた駆けつけて彼と協議する。ヴォートリンは怒りを抑えられず、これらの鶏・アヒルを全部殺し、彼らが持ち帰って食べれないようにすると言った。今日一日何度も兵隊が来た、また兵は南山へ物を奪い取りに行くので、ヴォートリンは本当に死ぬほど走り回った。
私はまた日本兵が彼女に害を及ぼすことを心配して、労働者と彼女をいっしょに行かせ、たとえ何をすることも出来なくても、人は彼らの挙動を知っていて、また私は走れないので、本当に焦る。今、難民は7,8千である。
※50元盗られた李さんと10元盗られた李師傅は別人。
【ベスト】ヴォートリンの日記では「綿入れ」と訳されています。原文は「背心(bei4xin1)」でランニングシャツのような袖の無い服を意味する言葉。中国の「ちゃんちゃんこ」か?
十二月十五日関口鉱造少尉:原文では「関口大尉」。実際には砲艦勢多次席(副艦長)大尉。艦長に上級司令官への報告のため城内偵察を命じられた、と後年の手記でいっている。
朝の十時、関口大尉来訪。大尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
十一時には日本大使館官員の福田氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。これらの三つの施設の機能については、韓氏も私もよく知っているので、復旧させるための技術者と労働者を得ることができるのは疑いない(渡辺さんによる誤訳訂正)。交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏と会う。この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。つづいて、外交官の福田篤泰氏。英文では "Mr. Fukuda, attache of the Japanese embassy" 。福田氏は戦後国会議員自民党の国会議員となった人物だが、「通訳として大いに役に立つだろう。」というラーベの第一印象、人物評はおもしろい。
昨日、十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。この日ラーベが折衝した人物南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃をうけております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。
我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。
捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。
敬具
ジョンラーベ、代表
議事録司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、日本軍特務部長の原田将軍がやってきた。ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
一九三七年十二月十五日 正午
通訳:福田氏
出席者
ジョンラーベ氏:代表
スマイス博士:事務局長
シュペアリング氏
- 南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
- 安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。
- 避難した住民はすみやかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
- 武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件はわが軍に一任するよう希望する。
- 中国警察による安全区の巡回を認める。ただし、完全に武装解除すること。警棒の携帯も認めない。
- 委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用してもよいが、われわれ日本軍にとっても必要である。したがって米を買う許可を求める(地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。
- 電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーべ氏とともにこれらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。
- 明日より町を整備する予定であり、百人から二百人の作業員を必要とする。それにつき、委員会に援助を要請する。賃金は支払う。
残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。「日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。」これは、福田篤泰氏の話か?
スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、作業員を集めるのは困難になるといっておいた。福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。この惨めな気持ちはたえられない。人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。
日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者二人。イタリア人新聞記者のサンドリと梅平号の船長カールソンのふたりだ。アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷をおった。スクワイヤーズも肩をやられた。ガシーは足、アンドリューズ少尉は重傷で、ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。『日本海軍』がラーベの傍に存在した。関口氏ではない人間も。海軍陸戦隊には上海と同じように南京の治安配備に付く意図があり、ラーベと接触していたとしても不思議はない。

そうこうするうちに、われわれのなかからもけが人が出た。クレーガーが両手をやけどしたのだ。ガソリンの缶のすぐそばで火を使ったりするからだ。いくらもうほとんど入っていないからといって、うかつすぎる。彼は私からたっぷり油を絞られた。経営しているホテル(福昌飯店)が日本軍にめちゃめちゃにされたといってヘンペル氏がかけこんできた。カフェ・キースリングも、あらかたやられたらしい。
一ニ月一五日 水曜日
たしか、きょうは一二月一五日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるかを覚えているのは容易でない。
昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。けさソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。
それからというもの、女性や子どもには制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的に年齢の高い女性にたいしては、できれば自宅にいるようつねづねお願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと三〇〇〇人以上の人がいると思う。
いくつかの日本兵グループがやってきたが、何も問題を起こさなかったし、中に入れてくれと強要する者もいなかった。今夜はサールとリッグズ氏が南山公寓に泊まり、ルイスは、フランシス陳といっしょに門衛室で寝ることになっている。わたしは下の実験学校にいることにする。二人の警官に平服でパトロールをしてもらい、また、夜警員には、夜通し寝ないで巡回してもらっている。
七時に男女避難民の一団を金陵大学に連れて行った。ここでは男性は受け入れていない。ただし、中央棟の教職員食堂には年寄りの男性を詰め込んでいる。前記グループのある女性は、四人家族のなかでひとり生き残ったことを話してくれた。
きのうときょう日本軍は広い範囲にわたって掠奪をおこない、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。
武装解除された一〇〇〇人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、たぶん、いまごろはすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。
南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。 ( まさしく門戸開放政策だ!)
ラーベ氏とルイスが司令官と接触している。この司令官は到着したばかりだが、印象はそれほど悪くない。彼らは、たぶんあすには事態が改善されると考えている。
きょう四人の記者が日本の駆逐艦〔アメリカ砲艦の誤り〕で上海へ発った。外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送ることができない。あいかわらず銃声がときおり聞こえる。
昨晩ヴォートリンと私は兵隊が来るのが恐ろしくて寝たのは12時だったが、幸いにも来なかった。今朝はやって来る難民が多く、ヴォートリンはたぶん表門の入り口で世話をして、やって来た兵隊を遮る、兵隊は表門の入り口の告示を見ると行ってしまった。安全区内の全ての家に行き、お金と食べ物と姑娘をあさり、しかも姑娘を残して彼らを追い払うので、この人たちは皆ここへ逃げ、人民もあえて商売をしない。
今日は入って来た兵士が出て行くのを見たら、兵士は南山の家に行き、門を打ち破り、西洋人が置いた物を食べ、家屋の中はトマトと別の小さい物があって、ちょうどよい具合にMr.Riggsが来たので、彼を呼んで彼らに追いつき、彼らを追い払った。ここにあった物だけでなく、国際委員会の酒と煙草さえ持ち去った。
国際委員会は今度はメンツを失った。以前は彼らは我軍の略奪を心配し、会議をした時は、日本軍がとても良いと言ったが、今は間違いだと判断している、安全区でさえ全て承認していない。日本軍のひどさを知り、彼らも少し恐れている。
日本兵も安全区内に住んで、少人数の日本兵も入って来て、多くの突撃隊が入って来て、全てが騒ぎ、これはどこの一国の兵か?皆このようだ!南門より入って来た兵は少なく、今は難民の袖には日の丸がある。
一日に何度か兵士が入って来るから、西洋人のヴォートリンさんは、本当に忙しく手が回らない。あれらの男の西洋人は外で忙しいので、彼女は彼らに手伝いに来てもらうことを承知しない。
【西人】西洋人と訳した。程瑞芳は西洋人のことを西人と記述している。
【Mr.Riggs】ヴォートリンは華小姐と漢字で記述しているが、リッグスは英語で記述している。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間に小高い丘があり、その場所を南山と呼んでいたのではないかと思います。おそらくは金陵女子文理学院内部の呼称ではないかと思います。
【日本兵も安全区内に住んで】歩兵第七連隊のことでしょう。
12月14日実はこの手紙、南京事件否定派が「ラーベの感謝状」だと歪曲して呼ぶ有名な書簡だ。すでに訳文があるのでそれを引用する。
私達は、英語と日本語それぞれの手紙を立案して、日本の指揮官にじかに手渡すつもりだ。次はこの手紙の訳文だ:
『南京安全区档案』 第1号文書(Z1)これは感謝状ではなく、れっきとして要請状だ!
南京安全区国際委員会
寧海路5号
1937年12月14日
南京日本軍司令官殿(=閣下)
拝啓
貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。
国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面 、住民に食を与えるために米と小麦を貯蔵し、地域内の民警の管理に当たっております。
以下のことを委員会の手でおこなうことを要請します。昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。そのうち若干名は当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表達は貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、我々はこれらの兵士達を全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。現在、彼らの望み通りに、これらの人びとを平穏な市民生活に戻してやることをどうか許可されるようお願いします。
- 安全区の入口各所に日本軍衛兵各一名を配備されたい。
- ピストルのみを携行する地区内民警によって地区内を警備することを許可されたい。
- 地区内において米の販売と無料食堂の営業を続行することを許可されたい。
- a われわれは市内の他の場所に米の倉庫を幾つかもっているので、貯蔵所を確保するためにトラックを自由に通 行させて頂きたい。
- 一般市民が帰宅することができるまで、現在の住宅上の配慮を続けることを許されたい。(たとえ、帰宅できるようになったとしても、多数の帰るところもない難民の保護をすることになろう。)
- 電話・電灯・水道の便をできるだけ早く復旧するよう貴下と協力する機会を与えられたい。
さらに、われわれは貴下にジョン・マギー師(米人)を委員長とする国際赤十字南京委員会をご紹介します。この国際赤十字会は、外交部・鉄道部・国防部内の旧野戦病院を管理しており、これらの場所にいた男子を昨日、全員武装解除し、これらの建物が病院としてのみ使用されるように留意いたします。負傷者全員を収容できるならば、中国人負傷者を全員外交部の建物に移したらと思います。
当市の一般市民の保護については、いかなる方法でも喜んで協力に応じます。
敬具(=謹んで致す崇高なる敬意)
南京国際委員会
委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)
南京安全区国際委員会
寧海路5号 電話 31961-32346-31641
(『日中戦争史資料9』p120)
元駐南京日本領事館秘書の宋(音訳)先生が翻訳の仕事を引き受けた。60歳の宋先生は私達の下にある紅卍字会のメンバーだ。私達は6人ほどの日本将校を探したが、やっと情報をくれた。日本陸軍の谷寿夫将軍は明日か明後日にならないと到着しないと連絡があったと。ラーベにしてみれば、この手紙は司令官に直接手渡すことに意味がある。それが安全区公認の瞬間となるからだ。
12月14日やはりこれは、侵入2日目の光景なのだろう。日本語版「南京の真実」では、12月13日の光景になっていて、畝本正巳氏は、城内に踏み込んだ最初の日は戦々恐々で商店の掠奪などしない、と批判しているがもっともである。2日目の光景としては、他の日記の記述とも符合している。
町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。
日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。
我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。ここはフォースターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に命中していた。近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。連行の目撃。《掃討戦》という名目での殺戮。
二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。最高法院は、中山北路沿いの安全区際北端、外交部は少し南でほぼその向い。
元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。
外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。
日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。ラーベの家は最高法院の南。おおよそ直線で2キロぐらいか。昨日と違って、きょうは車ではなく歩き回ったようだ。そうした内容からいっても、これは13日の描写ではない。
被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。いったいどんなビラだろうか?
絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部へ戻った。あちこちで人々は飢えに苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が食べる物もなく苦しんでいる。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が七人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を撃たれた十歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。昨日、赤十字病院として指定したばかりの外交部の野戦病院が、手の届かないものになってしまった。
《ニューヨーク・タイムズ》記者のダーディン氏は車で上海に行くつもりだという。なんとしても称賛に値する。しかし私は彼が順調に通行できるとは信じられなかった。それでも私は、彼に一通の電報を上海まで託した。電文は次の通りだ:
上海のシーメンス洋行(中国)、当電文の署名者と現地の事務所の職員全員は12月14日晩9時まで全く無事です。ラーベの妻(天津、馬場道の136号)とベルリンの施莱格爾さんにも知らせて下さい。ラーベ。たった今わたしに、ダーディン氏はすでに戻って、上海への旅は成就できなかったというニュースが届いた。残念なり!
一二月一四日火曜日ヴォートリンは、勝ち誇った軍隊が掠奪などするわけがない、と信じている。
午前七時三〇分。昨夜、戸外は平穏だったが、人びとの心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。
ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう。
下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかっただろう。
戦争による苦難は等しく負うべきだというのであれば、宣戦を主張する人たちはみな自ら進んで戦線に赴くべきだと思った。女性は、その意志さえあれば軍の病院で奉仕できるし、衣服や慰安品を負傷兵に提供できるだろうし、女子学生でさえも、装備を供給することによって軍隊を支えるさまざまな仕事をつうじて多分に貢献できるだろう。敗戦と絶望の中にいるであろう中国に青年たちのために、なんとか希望を見出そうとする、ミニーの優しい気持ちが伝わってくる。
男子の中学生や大学生は、軍隊、赤十字、社会奉仕団体などで奉仕することができるだろう。戦争が終わったあとでは、これらいずれのグループにも、身体障害をこうむった兵士を援助するという大事な仕事があるのは言うまでもなく、戦死した兵士たちの妻子の世話をするというやり甲斐のある仕事もある。
戦争は国家の犯罪であり、全人類の心の奥にある創造的精神にたいする罪であると考える人びとは、無辜の被害者、たとえば、家を焼かれたり掠奪をこうむった人びとや、爆撃や砲撃によって負傷した人びとの社会復帰に力を貸すことができるであろう。
貧しい人びとにとってきょうの天気は神の恵みだ。一〇月のように暖かくて心地よい。丘で眠ることを余儀なくされる人もいるが、それもあまり苦痛にはならない。
昨夜、日本兵によって無理やりに家から追い出された人の話や、さらには、けさ日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。苗さんの家にはアメリカ国旗が掲げられ、大使館の公告が掲示されていたにもかかわらず、日本兵が入り込んだ。どんな物が持ち去られたのかはわからない。苗一家は老邵の家の外で燃料の草を敷布団にして一夜を明かした。老邵とその一家はすでに引っ越していた。ひどい目にあわされた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。果たして、日本軍の将兵は抑制のきく常識ある人たちなのだろうか? ミニーの関心はそこに向く。
四時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。彼らが会った将校たちのなかには、きわめて丁重な者もいれば、きわめて無愛想で不作法な者もいた。
ジョン・マギーは、国際赤十字病院を設立する件で終日外出していた。丁重で礼儀正しい者もいれば、どうしようもない者もいると、彼も同じようなことを言っている。彼らは中国兵にたいしては情け容赦がなく、アメリカ人にはあまり関心がない。
四時三〇分、プラマー・ミルズがわたしに、長老派教会員たちの家を見回りたいから、水西門まで同行してもらいたいと言ってきた。わたしの役目は見張り番である。それらの家は、窓ガラスが数枚壊れていたほかは、まったく別状がなかった。日本兵が入り込んだ形跡はあるものの、掠奪されてはいなかった。プラマーが敷地の中に入り、門衛と話をしている間ずっと、わたしは車の中にいた。ヒルクレスト学校付近、ここは地図上では何処なのだろうか?
帰ってくる途中、ヒルクレスト学校付近の路上で死体を一体見た。凄まじい砲撃が市街に加えられていたわりには、あたりに横たわっている死体の数はきわめて少なかった。
ヒルクレスト学校を少し過ぎたところでソーン氏を見かけ、彼を車に乗せた。ついさっき車が盗まれたというのだ。家の前に車を放置したまま家の中に入っていたほんの数分間の出来事だそうだ。車にはアメリカ国旗が掲げられ、鍵がかけられていた。
貧しい人びとの家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしていたのだ。
金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が八人ぐらいいた。彼らが立ち去るまでわたしは校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師伝を彼らから奪い返すことができた。わたしがそこへ行かなかったら、日本兵は彼を案内役として連れ去ったであろう。この日から、ミニーは校門に立ち内部の女性たちを守る毎日となる。彼女は、見るからに日本兵が怖気づいてしまうような大柄な女性だったのだろうか?
学院の使い走りの魏はけさ使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。
校門に立っていると、何人かの兵士が、わたしがつけていた国際委員会の徽章に目をやったが、その中の一人が時刻を尋ねてきた。昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。
今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。東にある地区へ移動しているようだ。
ニューヨーク・タイムズ特派員のダーディンは何とかして上海に行こうとしたが、句容まで行ったところで引き返してきた。南京までの途中には何千何万という兵士がいたそうだ。これは、ラーベの日記中国語版の12月14日分最期の記事と同じ。
きょうは避難民は粥を二度食べることができ、わたしたちは感謝している。米が貯蔵されている建物に日本兵が入り込んでいるので、きょうは粥が食べられないのではないかと心配していた。安全区の中にいたヴォートリンの視野、暴風はまだ吹いていない。
わたしは、中国兵が一昨夜逃走するさいにキャンパスに投げ捨てて行った軍服を埋めることにした。ところが、大工の仕事場に出かけてみると、庭師たちのほうがわたしよりも上手であった。彼らは、すでに軍服を焼却し、手摺弾は池に投げ込んでしまっていた。陳さんは、捨てられていた銃を隠した。
今夜は平穏無事でありますように。
今日は更に多くの人が来た、皆が安全区内に逃げて来るのは、日本兵が昼間から彼らの家の中に入りお金を奪い、強姦をするからだ。街では刺し殺された人が多い、安全区内はみなそのようだ、外は更に多く思い切って出て行く人はいない、大半の青年男子は刺し殺された。同じ職場にいてもヴォートリンよりも筆致が厳しいのは、逃げてきた難民からの生々しい体験談を、中国人である程女史はいっぱい聞いてしまうからであろうか。
今日は500号棟の3階もいっぱいになった。昼ごろ7人の兵隊が300号棟の後の竹の垣根を飛び越え入って来たが、ヴォートリンさんがいないので、どこだろうと行くしかない。ちょうど粥を売る場に、彼らが難民を見たので、難民は非常に驚いた。節度のある部隊でホッとした。しかし・・・
勇気ある数人の使用人が、彼らを連れて500号棟と100号棟を案内し、私も彼らと回った。彼が見た難民は何もなかった、彼は1人の青年男子の様子を見て気にかけたので、その兵隊は走って数人の兵隊を叫んで来た。刀を向け彼が服を脱ぐことを要求したので私が言うと彼は脱いだので無事に行ってしまった。
中庭の芝生にあるアメリカ国旗を見つけて、彼は使用人に対して、巻く必要はないと言ったので使用人はうなずくしかない。これらの兵は隊列をくみ、外で一声あげ皆行ってしまった。幸い400号棟には行かなかった、誰もいないので彼はお金を奪うことが出来る。
今朝、鼓楼病院に手紙を届けに行った魏さんが、今晩帰って来ないので、日本軍に連れて行かれたのではないかと心配だ。街では沢山の人が連れて行かれ生死不明だ。「街では刺し殺された人が多い」
(金陵女子文理学院には)今4〜5千人いる。
・国際赤十字支部を設立しその資格で野戦病院をまわる
十二月十三日国際赤十字の支部を立ち上げたのは、管理者である防衛軍が消滅して放置された野戦病院に対処するためだろう。最初の対処が「視察」であった。中山路(北路)を鉄道部、軍政部、外交部と北から車で廻ったのか?⇒市街地図参照
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。
本部に着くとすぐ、我々はたった十分で国際赤十字の支部を設立し、私も執行委員名簿に加わった。赤十字をつくらねばと何週間も思案していたマギー君が会長になった。
委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。
軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。
(12月13日つづき)(※1)訳本は「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。」だが、渡辺氏の訂正訳によった。
外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。
我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を礫いてしまったが最後、ふっとんでしまう。 上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転がっていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。(※1) 日本軍の伝令(分遣)隊には、ドイツ語を話す軍医がいて、日本軍司令官は二日間はまだやって来ないだろうと告げた。(※2)
我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!北へ向かう大勢の部隊を見たのは新街口近くであったらしい。
しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。
日本軍は北へ向かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の中国兵を武装解除して助けることができた(※2)。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ !ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊減とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。ラーベ達は、中国兵を武装解除さえすれば、捕虜として寛大な扱いがされると信じていた。国際法の常識でそう考えたのであるが。
我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。
本部に入ると入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍にひき渡さなければならない。日本語版の12月13日の日記はまだ続く。しかし14日の日記の項目はない。英語版とドイツ語版原著も同様に14日分は欠項である。この14日分の欠項を、13日の分と14日の分が一緒になって13日となってしまったのだと、私は解釈した。
DOCUMENT 10いかに「国際安全区」と言えども、軍事占領下の武力支配に抗することなどできない!!
14 December i937: Important Notice to the Refugees in the Safety Zone 安全区の避難民諸兄への重要注意
- From now on people should stay off the streets as much as possible. 今からは、できるかぎり街路上に留まらないようにしてください。
- At the most dangerous moment, everyone should get in houses or out of sight. もっとも危険と感じたときは家屋の中に入るか身をひそめてください。
- The Safery Zone is for Refugees. Sorry, the Safety Zone has no power to give protection to soldiers. 安全区は避難民諸兄のためにある。しかし許されよ、安全区は兵士からのあなた方を守る手段を何一つ持ちません。
- If there is any searching or inspection, give full freedom for such search.No opposition at all. 捜索や訊問をうけるような時は、相手のいうがままにして決して抵抗してはなりません。
一二月一三日月曜日・日本軍部隊が、安全区の難民用の食糧を真先に差し押さえにやって来た。「人間が大勢集まるところに食糧あり」。すでに情報を手に入れていたのだろうか。
( 日本軍が午前四時に光華門から進入したそうだ。 )
激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。南の方角だ、と人びとは言っているが、わたしには西の方角からのように聞こえた。城内でもさかんに銃撃がおこなわれた。実際、わたしはぐっすりと眠りにつくこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、だれもが服を着たままだった。
五時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。けさキャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。
近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、わたしたちとしては、キャンパスの中でなくても安全区内にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らにわからせようと努力してきた。
粥場、つまり炊き出し所でけさ初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。一〇時三〇分には粥はすっかりなくなっていた。午後、二回目の給食がある予定だ。
一一時ごろにサール・ベイツがやってきて、交通部の建物が中国軍の命令できのう破壊されたこと、次に破壊される建物は鉄道部であることを知らせてくれた。それを聞いて胸が痛む。そんなことをしても何の益はなく、それは間違ったことであり、日本軍を困らせるよりも中国軍に与える損害のほうが大きいと思うからだ。
軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。
午後四時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人がわたしを呼びにきて、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鷲鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。
あれだけの爆撃や砲撃のあとにしては、城内は奇妙なほどに静かだ。中国兵の掠奪、戦闘機による爆撃、大砲による砲撃という三つの危険は去ったものの、四番目の危険がいまなお目の前に立ちはだかっている。わたしたちの運命は勝利軍の手中にあるのだ。今夜はみなとても不安で、どんなことになるのか予想がつかない。
プラマー・ミルズの今夜の報告によると、これまでに接触した日本兵たちは感じがよかったそうだ。しかし、接触した日本兵は、いかにも少数だ。
午後七時三〇分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。
後に、このことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致している。
今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。わたしたちは、透過不可能な地帯に隔てられてまったく孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つことにしよう。
金陵女子文理学院にかんしては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。わたしたちはほとんどいつも、全身に染み込んだ疲労に耐えきれずに、太くて低い坤き声を発している。 ( 今夜は武装を解いた兵士が安全区に大勢いる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない)
(『南京事件の日々』より)
昨夜、我が軍は撤退し朝から砲声すら聞こえない。日本兵は午後2時に水西門より城内に入った。すでにこの日、日本軍部隊は安全区の中に入り、食糧「徴発」を行なおうとしている。さらには、安全区内で住民を家から追い出し寝具を奪い、宿を「調達」している。
私達の黄警官は南山で日本兵が広州路にいるのを見て、彼は警官の制服を脱いで走り、400号棟の側まで転がり降りてくる際に、慌てて足をつまずいて転んでしまったので顔が真っ白になった、本当に臆病な人だ。私達は直ぐに南山に行って見た、その時は十数人の兵隊が邵さんの家の側に立っていて、使用人は皆おろおろした。
直ぐに日本兵が鶏小屋のまでやってきて鶏を要求したので使用人はヴォートリンさんを探して来た。ヴォートリンさんは彼らに食べることができないと言うと、彼らは行ってしまった、ガチョウの鳴声が聞こえたので彼等は来たのだ。
今晩は多くの人が校内に飛び込んで来る、彼らの家は日本兵が寝るために入り込んで来たので家を出たのだ。掛け布団は日本兵が使われたので、これら人々は皆手ぶらで入って来た。皆が安全区内にいたのは日本兵が安全区内に入って来ないと思っていたからであり、非常に驚いた。
私は悲しみが込み上げてきた、南京城が平静を失ってまもなく4ヶ月になるであろう、しかも南京城はたったの3日間で壊された、本当に悲惨だ、明日またどんな事が起こるか分からない!今日また2人の子供が苦しみに耐えて生まれた、これらの月は母子も苦しく、この地で寝ている。
【黄警官】金陵女子文理学院を管轄していた警官。広州路にいたのは歩兵第47連隊の兵士と思われる。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間にある小高い丘のことではないかと思われる。しかし1921年の南京の地図を見るとその場所は「小倉山」となっている。 南山にはもうひとつ、「南山公寓」を略して記述している可能性があるが、別の日の日記に「西山」という記述があるので、南山公寓と特定するのは避けた。
【使用人】原文は工人[gong1ren2](労働者)、学内の肉体労働の雑務をする人。 ヴォートリンの日記と同じ表現をしたほうが混乱がないと思って訳しましたが、ヴォートリンと程瑞芳では学院内での立場が違っていたので、工人と記述していたのかもしれない。
【ヴォートリンさん】原文は「華小姐」。「ヴォートリンさん」と訳した。
【ガチョウ】中国語の「鶏」という字と類似しているので誤記ではないかと思われる。確認が出来ないので「ガチョウ」と訳した。
コメント 2006年11月05日 熊猫
実際に日本軍が水西門から入ったのは午前8時30分。
パナイ号(拡大)十二月六日から、米大使館員と新聞記者たちは、貴重な所持品をトランクに詰めてパナイ号に運び込み、夜はパナイ号に泊まり、昼は南京に上陸して仕事をするという生活になった。
これ以上南京に停泊することが危険になったパナイ号は、十二月十一日夕方、下関港付近を離れ、長江上流へ移動を開始した。
米大使館二等書記官アチソン(GeorgeAtchesonJr.)の懸命な説得にもかかわらず、パナイ号への避難を断って南京にとどまった外国人は二七名で、つぎのようなふたつのグループに分けられる。一つは、新聞記者.カメラマンのグループ五名である。かれらは首都陥落の歴史的瞬間を取材しようと、日本軍の爆弾と砲弾にさらされるのを覚悟して踏みとどまったのである。あと一つのグループは、南京安全区国際委員会や戦傷者救済委員会の二二名。かれらは、自己の生命が脅かされるのも顧みず、多数の難民を救済・保護するために残った人たちである。
(『アジアの中の日本軍』 「南京大虐殺の全貌はなぜ報道されなかったか」笠原十九司 p45)
| 氏名 | 所属団体 | 備 考 |
|---|---|---|
| ダーディン F. Tillman Durdin | ニューヨーク・タイムズ | |
| スティール Archiba1d T. Stee1e | シカゴ・デイリー・ニューズ | |
| スミス L,C. Smith | ロイター通信社 | |
| <マクダニエル C. Yabe McDanie1 | AP(共同通信社) | |
| メンケン Arthur Menken | パラマウント映画ニュース |
| 氏名 | 委員 | 国籍 | 所属 |
|---|---|---|---|
| 1.ジョン・H・D・ラーべ John H. D. Rabe |
安全区 赤十字 |
ドイツ | ジーメンス洋行 |
| 2.エドワルト・スペルリング Eduard Sperling |
安金区 | ドイツ | 上海保険公司 |
| 3.クリスチャン・クレーガー Christian Kroeger |
赤十字 | ドイツ | 礼和洋行 |
| 4.R・ヘンペル R.Hempel |
ドイツ | 北ホテル | |
| 5.A・ツァウティヒ A. Zautig |
ドイツ | キースリング洋行 | |
| 6.R・R・ハッツ R. R. Hatz |
オーストリア | 安全区機械工 | |
| 7.コラ・ポドシポロフ Cola Podshivoloff |
赤十字 | ロシア(自系) | サンドグレン電気店 |
| 8.A・ジアル A. Zia1 |
ロシア(自系) | 安全区機械工 | |
| 9,C・S・トリマー C. S. Trimmer |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院医師 |
| 10.ロバート・O・ウィルソン Robert O. Wilson |
赤十字 | アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院医師 |
| 11.ジェームズ・H・マッカラム James H. MaCallum |
赤十字 | アメリカ | 連合キリスト教伝道団 |
| 12.グレイス・バウアー Grace Bauer |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院看護婦 | |
| 13.アイヴァ・ハインズ Iva Hynds |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院看護婦 | |
| 14.マイナー・S・ベイツ Meiner S. Bates |
安全区 | アメリカ | 金陵大学 |
| 15.チャールズ・H・リッグズ Charles H. Riggs |
安全区 | アメリカ | 金陵大学 |
| 16.ルイス・S・C・スマイス Lewis S. C. Smythe |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 金陵大学 |
| 17.ミニ・ヴォートリン Minnie Vautrin |
赤十字 | アメリカ | 金陵女子文理学院 |
| 18.W・P・ミルズ W.P.Mi11s |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 合衆国長老派教会伝道団 |
| 19.ヒューバート・L・ソーン Hubert L. Sone |
アメリカ | 金陵神学院 | |
| 20.ジョージ・A・フィッチ George A. Fitch |
アメリカ | YMCA | |
| 21.ジョン・G・マギー John G. Magee |
安全区 赤十字 |
アメリカ | アメリカ聖公会伝道団 |
| 22.アーネスト・H・フォスター Ernest H. Forster |
アメリカ | アメリカ聖公会伝道団 | |
| (ポウル・デウィット・トワイネン) (Paul Dewitt Twinem) |
赤十字 | (中国) | 金陵女子文理学院 |
一九三七年十二月十一日午後五時、南京からの最後の避難者を乗せたパナイ号は、イギリス砲艦「スカラブ」「クリケット」の二隻とともに、三?(サンズイに叉)河付近の停泊地を離れ、上流へ向かった。パナイ号の至近に何発も砲弾が落とされるのを見た艦長は、南京付近の船舶に対して、日本軍が無差別の攻撃を開始したことに気付いた。パナイ号にはスタンダード石油会社の三隻のタンカーが従った。その日は南京の上流一八・ニキロメートル地点に錨を下ろした。・パナイ号事件・レディバード号事件発生
パナイ号は一九二七年に上海の江南ドックで建造されたアメリカの砲艦(gunboat)で、長江の警備を担当していた。砲艦といっても写真(次頁)に明らかなように、日本の警備艇に類似している。『N・T』37・12・14によれば、パナイ号の乗船者は七六名で、将校・乗組員五九名、駐南京の米大使館員四名、米民間人七名、英ジャーナリスト一名、イタリア人三名、その他二名となっている。民間人のほとんどが、南京を取材していた新聞記者.カメラマンである。かれらはアチソンの説得に応じてパナイ号に難を避けたのであったが、悲劇は逆にかれらを襲ったのである。かれらの名前は表2のとおりである。
十二月十二日、すなわち日本軍が南京城内を占領する前日、南京の上流約四五キロに停泊していたパナイ号は、日本海軍機に撃沈された。これが日米開戦かと世界を驚かせたパナイ号事件である。
(同上書p50-51)
| 氏名 | 国 | 所属 | 備考 |
|---|---|---|---|
| ジョージ・アチソン・ジュニァ George Atcheson Jr. |
米 | 南京アメリカ大使館二等書記官 | |
| ホール・パクストン J. Ha11 Paxton |
米 | 南京アメリカ大使館付陸軍武官補佐官 | |
| エミール・ギャッシー Emile Gassie |
米 | 南京アメリカ大使館書記官 | |
| フランク・ロバーツ Frank N. Roberts |
米 | 南京アメリカ大使館付陸軍武官 陸軍大尉 | |
| ウェルダム・ジェームズ We1dom James | 米 | UP通信社記者 | |
| ジェームズ・マーシャル James Marshan |
米 | 『コリアーズ』誌記者 | |
| ノーマン・アレー Norman A1ley |
米 | ユニバーサル映画ニュース・カメラマン | |
| ノーマン・スーン Norman T. F. Soong |
米 | ニューヨーク・タイムズ・カメラマン | |
| エリック・メイエル Eric Mayei1 |
米 | フォックス映画ニュース・カメラマン | |
| ゴルデイー D. S. Go1die |
米 | スタンダード石油会社社員 | |
| ロイ・スクワイヤーズ Roy Squires |
米 | 中国木材輸出入会社南京支社支配人 | |
| コーリン・マクドナルド Colin M. McDona1d |
英 | ロンドン・タイムズ記者 | |
| ハーバート・ロス Herbert Ros(伊人) |
伊 | 南京イタリア大使館副領事 | |
| ルイジ・バルジー二 Luigi Barzini(伊人) |
伊 | 『コリア・デラ・セラ』誌記者 | |
| サンドロ・サンドリ(伊人) Sandro Sandri |
伊 | ファシスト党員 『スタンパ』紙記者 |
腹部に機関銃弾二発受け死亡 |
パナイ号が南京駐在の外国人記者の避難所であったことは、すでに述べた。アメリカの警備艇が攻撃されるとは夢想だにしなかったかれらは、重要な所持品を同艦に保管していた。
ダーディンは、日本軍が南京に来る三力月前から市に滞在し、取材活動を行っていた。かれにとっては命よりもたいせつであったこれら包囲戦の取材ノートや資料・写真等を詰めたトランクが、パナイ号とともに濁水に沈められてしまったのである。そのパナイ号はダーディンがニュースを上海へ送信する基地でもあったのだ。
ユニバーサル映画のカメラマン、ノーマン・アレーも、命がけで爆撃を撮影していたそのカメラとフィルムを持ち出すのが精一杯で、他の所持晶はすべて失った。スーンやアレーだけでなく他の記者・カメラマンも同様であったのは、スーンの体験記のパナイ号放棄と脱出場面を思い起こせば容易に想像できよう。
(同上書p73)
ラーベの停戦案を無視して3日たち、今頃になって・・・、でも無駄な犠牲を防ぐためには!
十二月十二日最終戦は近い!
日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の八時に、再び砲撃が始まった。
十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
休戦協定の内容は――この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。
軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。
シュぺアリングが、軍使をつとめようと申し出た。龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅういまかいまかと待っていた。夕方六時近くになってようやく龍(※1)が姿を見せた。龍は言った「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」
だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかつている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!
十八時半撤退命令が出ていたというが・・・
紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南から安全区の通りに逃げてきた中国人市民が寝場所を求めて急いでいるのが見える。(※2)。その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。
この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきたことがわかった。しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、いつしかのんびりとした行進にかわっていた。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。
韓といっしょに家に帰った。砲撃や爆撃に備えた緊急対処整える。必需品の洗面用具が入った小型かばんと、インシュリンや包帯セットなどをつめた大事な薬箱を新しいほうの防空壕に運ばせよう。古いのよりはいくぶん安全だろう。家屋敷を見捨てざるをえない場合に備え、毛皮のコートの中にも非常用の薬と注射器を詰めこむ。
ちょっとの間、私はしみじみした気持ちになった。なにかほかにまだ持っていけるものは? もう一度、部屋の中を歩き回って、見慣れた品々を見つめた。まるでこのがらくたにもきちんと別れを告げなければならない、とでもいうように。幼い孫の写真が数枚あった。これも持っていこう! さあ、これで準備は終わった。こんなときに笑うなどどうかと思うが、つい笑ってしまう。ハハ、やけくそだ!
夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。
二十時中国側防衛軍の撤退作戦は、土壇場の停戦工作を含めて、あまりにも戦況を見失った泥縄であった。軍民の被害を大きくした原因であることは否定できない。
南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになつている。ふたつある門の両方でノツクの音がする。なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。
これ以上聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。防空壕はすでにいつぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持つてきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが、一番安全だと思っているのだ。
榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降つてくる。南の方角は一面は火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のへルメツトをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやつた。二人とも防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことをきくようになった。
十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。
「なんだ、クリシャンじゃないか!いったいどうしたんだ」
「いや、ちょっと様子を見にきただけですよ」
クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、そのほかありとあらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。
「中で、まだ十分使えるバスを二十メキシコドルで買わないかと言ってきた男がいたんですよ。どうしよう、買いますかね?」
「うーん。どうかなあ」
「ま、とにかくその男に、明日また本部にくるように言っておきましたよ」
※中国には銀貨があった。もともと両(テール)だったが、のちにメキシコで鋳造された。それがこのメキシコドル。
真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。
ふしぶしが痛い。四十八時問というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には三十人、石炭庫に三人、使用人用の便所に女の人と子どもが八人、残りの百人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!
夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。
それから、龍はいった。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。ぜひ力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた三万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだに何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状態といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。
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◆★▼ Apeman [>英文では "who reaches for his sidearm" 携帯武器に手をかけたが ドイツ語原文は"S..]
◆★▼ pippo [Apemanさん ドイツ語原文チェックありがとうございます。 1、「銃剣に手をかけた時」ぐらいでどうでしょうか?(..]
◆★▼ Apeman [ピッポさん >ドイツ語原文チェックありがとうございます。 いえ、私は邦訳を持っていないので一日一日を追体験でき..]
◆★▼ pippo [Apemanさん >ドイツ語版では写真は掲載されていませんね。 遅くなりました。日本語版にある写真を掲載しておきま..]
◆★▼ pippo [フィッチの手記を追加しました。]