
十二月十五日関口鉱造少尉:原文では「関口大尉」。実際には砲艦勢多次席(副艦長)大尉。艦長に上級司令官への報告のため城内偵察を命じられた、と後年の手記でいっている。
朝の十時、関口大尉来訪。大尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
十一時には日本大使館官員の福田氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。これらの三つの施設の機能については、韓氏も私もよく知っているので、復旧させるための技術者と労働者を得ることができるのは疑いない(渡辺さんによる誤訳訂正)。交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏と会う。この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。つづいて、外交官の福田篤泰氏。英文では "Mr. Fukuda, attache of the Japanese embassy" 。福田氏は戦後国会議員自民党の国会議員となった人物だが、「通訳として大いに役に立つだろう。」というラーベの第一印象、人物評はおもしろい。
昨日、十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。この日ラーベが折衝した人物南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃をうけております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。
我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。
捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。
敬具
ジョンラーベ、代表
議事録司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、日本軍特務部長の原田将軍がやってきた。ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
一九三七年十二月十五日 正午
通訳:福田氏
出席者
ジョンラーベ氏:代表
スマイス博士:事務局長
シュペアリング氏
- 南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
- 安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。
- 避難した住民はすみやかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
- 武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件はわが軍に一任するよう希望する。
- 中国警察による安全区の巡回を認める。ただし、完全に武装解除すること。警棒の携帯も認めない。
- 委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用してもよいが、われわれ日本軍にとっても必要である。したがって米を買う許可を求める(地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。
- 電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーべ氏とともにこれらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。
- 明日より町を整備する予定であり、百人から二百人の作業員を必要とする。それにつき、委員会に援助を要請する。賃金は支払う。
残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。「日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。」これは、福田篤泰氏の話か?
スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、作業員を集めるのは困難になるといっておいた。福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。この惨めな気持ちはたえられない。人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。
日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者二人。イタリア人新聞記者のサンドリと梅平号の船長カールソンのふたりだ。アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷をおった。スクワイヤーズも肩をやられた。ガシーは足、アンドリューズ少尉は重傷で、ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。『日本海軍』がラーベの傍に存在した。関口氏ではない人間も。海軍陸戦隊には上海と同じように南京の治安配備に付く意図があり、ラーベと接触していたとしても不思議はない。

そうこうするうちに、われわれのなかからもけが人が出た。クレーガーが両手をやけどしたのだ。ガソリンの缶のすぐそばで火を使ったりするからだ。いくらもうほとんど入っていないからといって、うかつすぎる。彼は私からたっぷり油を絞られた。経営しているホテル(福昌飯店)が日本軍にめちゃめちゃにされたといってヘンペル氏がかけこんできた。カフェ・キースリングも、あらかたやられたらしい。
一ニ月一五日 水曜日
たしか、きょうは一二月一五日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるかを覚えているのは容易でない。
昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。けさソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。
それからというもの、女性や子どもには制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的に年齢の高い女性にたいしては、できれば自宅にいるようつねづねお願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと三〇〇〇人以上の人がいると思う。
いくつかの日本兵グループがやってきたが、何も問題を起こさなかったし、中に入れてくれと強要する者もいなかった。今夜はサールとリッグズ氏が南山公寓に泊まり、ルイスは、フランシス陳といっしょに門衛室で寝ることになっている。わたしは下の実験学校にいることにする。二人の警官に平服でパトロールをしてもらい、また、夜警員には、夜通し寝ないで巡回してもらっている。
七時に男女避難民の一団を金陵大学に連れて行った。ここでは男性は受け入れていない。ただし、中央棟の教職員食堂には年寄りの男性を詰め込んでいる。前記グループのある女性は、四人家族のなかでひとり生き残ったことを話してくれた。
きのうときょう日本軍は広い範囲にわたって掠奪をおこない、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。
武装解除された一〇〇〇人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、たぶん、いまごろはすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。
南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。 ( まさしく門戸開放政策だ!)
ラーベ氏とルイスが司令官と接触している。この司令官は到着したばかりだが、印象はそれほど悪くない。彼らは、たぶんあすには事態が改善されると考えている。
きょう四人の記者が日本の駆逐艦〔アメリカ砲艦の誤り〕で上海へ発った。外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送ることができない。あいかわらず銃声がときおり聞こえる。
昨晩ヴォートリンと私は兵隊が来るのが恐ろしくて寝たのは12時だったが、幸いにも来なかった。今朝はやって来る難民が多く、ヴォートリンはたぶん表門の入り口で世話をして、やって来た兵隊を遮る、兵隊は表門の入り口の告示を見ると行ってしまった。安全区内の全ての家に行き、お金と食べ物と姑娘をあさり、しかも姑娘を残して彼らを追い払うので、この人たちは皆ここへ逃げ、人民もあえて商売をしない。
今日は入って来た兵士が出て行くのを見たら、兵士は南山の家に行き、門を打ち破り、西洋人が置いた物を食べ、家屋の中はトマトと別の小さい物があって、ちょうどよい具合にMr.Riggsが来たので、彼を呼んで彼らに追いつき、彼らを追い払った。ここにあった物だけでなく、国際委員会の酒と煙草さえ持ち去った。
国際委員会は今度はメンツを失った。以前は彼らは我軍の略奪を心配し、会議をした時は、日本軍がとても良いと言ったが、今は間違いだと判断している、安全区でさえ全て承認していない。日本軍のひどさを知り、彼らも少し恐れている。
日本兵も安全区内に住んで、少人数の日本兵も入って来て、多くの突撃隊が入って来て、全てが騒ぎ、これはどこの一国の兵か?皆このようだ!南門より入って来た兵は少なく、今は難民の袖には日の丸がある。
一日に何度か兵士が入って来るから、西洋人のヴォートリンさんは、本当に忙しく手が回らない。あれらの男の西洋人は外で忙しいので、彼女は彼らに手伝いに来てもらうことを承知しない。
【西人】西洋人と訳した。程瑞芳は西洋人のことを西人と記述している。
【Mr.Riggs】ヴォートリンは華小姐と漢字で記述しているが、リッグスは英語で記述している。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間に小高い丘があり、その場所を南山と呼んでいたのではないかと思います。おそらくは金陵女子文理学院内部の呼称ではないかと思います。
【日本兵も安全区内に住んで】歩兵第七連隊のことでしょう。
12月14日実はこの手紙、南京事件否定派が「ラーベの感謝状」だと歪曲して呼ぶ有名な書簡だ。すでに訳文があるのでそれを引用する。
私達は、英語と日本語それぞれの手紙を立案して、日本の指揮官にじかに手渡すつもりだ。次はこの手紙の訳文だ:
『南京安全区档案』 第1号文書(Z1)これは感謝状ではなく、れっきとして要請状だ!
南京安全区国際委員会
寧海路5号
1937年12月14日
南京日本軍司令官殿(=閣下)
拝啓
貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。
国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面 、住民に食を与えるために米と小麦を貯蔵し、地域内の民警の管理に当たっております。
以下のことを委員会の手でおこなうことを要請します。昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。そのうち若干名は当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表達は貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、我々はこれらの兵士達を全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。現在、彼らの望み通りに、これらの人びとを平穏な市民生活に戻してやることをどうか許可されるようお願いします。
- 安全区の入口各所に日本軍衛兵各一名を配備されたい。
- ピストルのみを携行する地区内民警によって地区内を警備することを許可されたい。
- 地区内において米の販売と無料食堂の営業を続行することを許可されたい。
- a われわれは市内の他の場所に米の倉庫を幾つかもっているので、貯蔵所を確保するためにトラックを自由に通 行させて頂きたい。
- 一般市民が帰宅することができるまで、現在の住宅上の配慮を続けることを許されたい。(たとえ、帰宅できるようになったとしても、多数の帰るところもない難民の保護をすることになろう。)
- 電話・電灯・水道の便をできるだけ早く復旧するよう貴下と協力する機会を与えられたい。
さらに、われわれは貴下にジョン・マギー師(米人)を委員長とする国際赤十字南京委員会をご紹介します。この国際赤十字会は、外交部・鉄道部・国防部内の旧野戦病院を管理しており、これらの場所にいた男子を昨日、全員武装解除し、これらの建物が病院としてのみ使用されるように留意いたします。負傷者全員を収容できるならば、中国人負傷者を全員外交部の建物に移したらと思います。
当市の一般市民の保護については、いかなる方法でも喜んで協力に応じます。
敬具(=謹んで致す崇高なる敬意)
南京国際委員会
委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)
南京安全区国際委員会
寧海路5号 電話 31961-32346-31641
(『日中戦争史資料9』p120)
元駐南京日本領事館秘書の宋(音訳)先生が翻訳の仕事を引き受けた。60歳の宋先生は私達の下にある紅卍字会のメンバーだ。私達は6人ほどの日本将校を探したが、やっと情報をくれた。日本陸軍の谷寿夫将軍は明日か明後日にならないと到着しないと連絡があったと。ラーベにしてみれば、この手紙は司令官に直接手渡すことに意味がある。それが安全区公認の瞬間となるからだ。
12月14日やはりこれは、侵入2日目の光景なのだろう。日本語版「南京の真実」では、12月13日の光景になっていて、畝本正巳氏は、城内に踏み込んだ最初の日は戦々恐々で商店の掠奪などしない、と批判しているがもっともである。2日目の光景としては、他の日記の記述とも符合している。
町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。
日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。
我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。ここはフォースターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に命中していた。近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。連行の目撃。《掃討戦》という名目での殺戮。
二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。最高法院は、中山北路沿いの安全区際北端、外交部は少し南でほぼその向い。
元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。
外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。
日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。ラーベの家は最高法院の南。おおよそ直線で2キロぐらいか。昨日と違って、きょうは車ではなく歩き回ったようだ。そうした内容からいっても、これは13日の描写ではない。
被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。いったいどんなビラだろうか?
絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部へ戻った。あちこちで人々は飢えに苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が食べる物もなく苦しんでいる。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が七人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を撃たれた十歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。昨日、赤十字病院として指定したばかりの外交部の野戦病院が、手の届かないものになってしまった。
《ニューヨーク・タイムズ》記者のダーディン氏は車で上海に行くつもりだという。なんとしても称賛に値する。しかし私は彼が順調に通行できるとは信じられなかった。それでも私は、彼に一通の電報を上海まで託した。電文は次の通りだ:
上海のシーメンス洋行(中国)、当電文の署名者と現地の事務所の職員全員は12月14日晩9時まで全く無事です。ラーベの妻(天津、馬場道の136号)とベルリンの施莱格爾さんにも知らせて下さい。ラーベ。たった今わたしに、ダーディン氏はすでに戻って、上海への旅は成就できなかったというニュースが届いた。残念なり!
一二月一四日火曜日ヴォートリンは、勝ち誇った軍隊が掠奪などするわけがない、と信じている。
午前七時三〇分。昨夜、戸外は平穏だったが、人びとの心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。
ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう。
下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかっただろう。
戦争による苦難は等しく負うべきだというのであれば、宣戦を主張する人たちはみな自ら進んで戦線に赴くべきだと思った。女性は、その意志さえあれば軍の病院で奉仕できるし、衣服や慰安品を負傷兵に提供できるだろうし、女子学生でさえも、装備を供給することによって軍隊を支えるさまざまな仕事をつうじて多分に貢献できるだろう。敗戦と絶望の中にいるであろう中国に青年たちのために、なんとか希望を見出そうとする、ミニーの優しい気持ちが伝わってくる。
男子の中学生や大学生は、軍隊、赤十字、社会奉仕団体などで奉仕することができるだろう。戦争が終わったあとでは、これらいずれのグループにも、身体障害をこうむった兵士を援助するという大事な仕事があるのは言うまでもなく、戦死した兵士たちの妻子の世話をするというやり甲斐のある仕事もある。
戦争は国家の犯罪であり、全人類の心の奥にある創造的精神にたいする罪であると考える人びとは、無辜の被害者、たとえば、家を焼かれたり掠奪をこうむった人びとや、爆撃や砲撃によって負傷した人びとの社会復帰に力を貸すことができるであろう。
貧しい人びとにとってきょうの天気は神の恵みだ。一〇月のように暖かくて心地よい。丘で眠ることを余儀なくされる人もいるが、それもあまり苦痛にはならない。
昨夜、日本兵によって無理やりに家から追い出された人の話や、さらには、けさ日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。苗さんの家にはアメリカ国旗が掲げられ、大使館の公告が掲示されていたにもかかわらず、日本兵が入り込んだ。どんな物が持ち去られたのかはわからない。苗一家は老邵の家の外で燃料の草を敷布団にして一夜を明かした。老邵とその一家はすでに引っ越していた。ひどい目にあわされた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。果たして、日本軍の将兵は抑制のきく常識ある人たちなのだろうか? ミニーの関心はそこに向く。
四時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。彼らが会った将校たちのなかには、きわめて丁重な者もいれば、きわめて無愛想で不作法な者もいた。
ジョン・マギーは、国際赤十字病院を設立する件で終日外出していた。丁重で礼儀正しい者もいれば、どうしようもない者もいると、彼も同じようなことを言っている。彼らは中国兵にたいしては情け容赦がなく、アメリカ人にはあまり関心がない。
四時三〇分、プラマー・ミルズがわたしに、長老派教会員たちの家を見回りたいから、水西門まで同行してもらいたいと言ってきた。わたしの役目は見張り番である。それらの家は、窓ガラスが数枚壊れていたほかは、まったく別状がなかった。日本兵が入り込んだ形跡はあるものの、掠奪されてはいなかった。プラマーが敷地の中に入り、門衛と話をしている間ずっと、わたしは車の中にいた。ヒルクレスト学校付近、ここは地図上では何処なのだろうか?
帰ってくる途中、ヒルクレスト学校付近の路上で死体を一体見た。凄まじい砲撃が市街に加えられていたわりには、あたりに横たわっている死体の数はきわめて少なかった。
ヒルクレスト学校を少し過ぎたところでソーン氏を見かけ、彼を車に乗せた。ついさっき車が盗まれたというのだ。家の前に車を放置したまま家の中に入っていたほんの数分間の出来事だそうだ。車にはアメリカ国旗が掲げられ、鍵がかけられていた。
貧しい人びとの家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしていたのだ。
金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が八人ぐらいいた。彼らが立ち去るまでわたしは校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師伝を彼らから奪い返すことができた。わたしがそこへ行かなかったら、日本兵は彼を案内役として連れ去ったであろう。この日から、ミニーは校門に立ち内部の女性たちを守る毎日となる。彼女は、見るからに日本兵が怖気づいてしまうような大柄な女性だったのだろうか?
学院の使い走りの魏はけさ使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。
校門に立っていると、何人かの兵士が、わたしがつけていた国際委員会の徽章に目をやったが、その中の一人が時刻を尋ねてきた。昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。
今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。東にある地区へ移動しているようだ。
ニューヨーク・タイムズ特派員のダーディンは何とかして上海に行こうとしたが、句容まで行ったところで引き返してきた。南京までの途中には何千何万という兵士がいたそうだ。これは、ラーベの日記中国語版の12月14日分最期の記事と同じ。
きょうは避難民は粥を二度食べることができ、わたしたちは感謝している。米が貯蔵されている建物に日本兵が入り込んでいるので、きょうは粥が食べられないのではないかと心配していた。安全区の中にいたヴォートリンの視野、暴風はまだ吹いていない。
わたしは、中国兵が一昨夜逃走するさいにキャンパスに投げ捨てて行った軍服を埋めることにした。ところが、大工の仕事場に出かけてみると、庭師たちのほうがわたしよりも上手であった。彼らは、すでに軍服を焼却し、手摺弾は池に投げ込んでしまっていた。陳さんは、捨てられていた銃を隠した。
今夜は平穏無事でありますように。
今日は更に多くの人が来た、皆が安全区内に逃げて来るのは、日本兵が昼間から彼らの家の中に入りお金を奪い、強姦をするからだ。街では刺し殺された人が多い、安全区内はみなそのようだ、外は更に多く思い切って出て行く人はいない、大半の青年男子は刺し殺された。同じ職場にいてもヴォートリンよりも筆致が厳しいのは、逃げてきた難民からの生々しい体験談を、中国人である程女史はいっぱい聞いてしまうからであろうか。
今日は500号棟の3階もいっぱいになった。昼ごろ7人の兵隊が300号棟の後の竹の垣根を飛び越え入って来たが、ヴォートリンさんがいないので、どこだろうと行くしかない。ちょうど粥を売る場に、彼らが難民を見たので、難民は非常に驚いた。節度のある部隊でホッとした。しかし・・・
勇気ある数人の使用人が、彼らを連れて500号棟と100号棟を案内し、私も彼らと回った。彼が見た難民は何もなかった、彼は1人の青年男子の様子を見て気にかけたので、その兵隊は走って数人の兵隊を叫んで来た。刀を向け彼が服を脱ぐことを要求したので私が言うと彼は脱いだので無事に行ってしまった。
中庭の芝生にあるアメリカ国旗を見つけて、彼は使用人に対して、巻く必要はないと言ったので使用人はうなずくしかない。これらの兵は隊列をくみ、外で一声あげ皆行ってしまった。幸い400号棟には行かなかった、誰もいないので彼はお金を奪うことが出来る。
今朝、鼓楼病院に手紙を届けに行った魏さんが、今晩帰って来ないので、日本軍に連れて行かれたのではないかと心配だ。街では沢山の人が連れて行かれ生死不明だ。「街では刺し殺された人が多い」
(金陵女子文理学院には)今4〜5千人いる。
・国際赤十字支部を設立しその資格で野戦病院をまわる
十二月十三日国際赤十字の支部を立ち上げたのは、管理者である防衛軍が消滅して放置された野戦病院に対処するためだろう。最初の対処が「視察」であった。中山路(北路)を鉄道部、軍政部、外交部と北から車で廻ったのか?⇒市街地図参照
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。
本部に着くとすぐ、我々はたった十分で国際赤十字の支部を設立し、私も執行委員名簿に加わった。赤十字をつくらねばと何週間も思案していたマギー君が会長になった。
委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。
軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。
(12月13日つづき)(※1)訳本は「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。」だが、渡辺氏の訂正訳によった。
外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。
我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を礫いてしまったが最後、ふっとんでしまう。 上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転がっていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。(※1) 日本軍の伝令(分遣)隊には、ドイツ語を話す軍医がいて、日本軍司令官は二日間はまだやって来ないだろうと告げた。(※2)
我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!北へ向かう大勢の部隊を見たのは新街口近くであったらしい。
しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。
日本軍は北へ向かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の中国兵を武装解除して助けることができた(※2)。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ !ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊減とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。ラーベ達は、中国兵を武装解除さえすれば、捕虜として寛大な扱いがされると信じていた。国際法の常識でそう考えたのであるが。
我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。
本部に入ると入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍にひき渡さなければならない。日本語版の12月13日の日記はまだ続く。しかし14日の日記の項目はない。英語版とドイツ語版原著も同様に14日分は欠項である。この14日分の欠項を、13日の分と14日の分が一緒になって13日となってしまったのだと、私は解釈した。
DOCUMENT 10いかに「国際安全区」と言えども、軍事占領下の武力支配に抗することなどできない!!
14 December i937: Important Notice to the Refugees in the Safety Zone 安全区の避難民諸兄への重要注意
- From now on people should stay off the streets as much as possible. 今からは、できるかぎり街路上に留まらないようにしてください。
- At the most dangerous moment, everyone should get in houses or out of sight. もっとも危険と感じたときは家屋の中に入るか身をひそめてください。
- The Safery Zone is for Refugees. Sorry, the Safety Zone has no power to give protection to soldiers. 安全区は避難民諸兄のためにある。しかし許されよ、安全区は兵士からのあなた方を守る手段を何一つ持ちません。
- If there is any searching or inspection, give full freedom for such search.No opposition at all. 捜索や訊問をうけるような時は、相手のいうがままにして決して抵抗してはなりません。
一二月一三日月曜日・日本軍部隊が、安全区の難民用の食糧を真先に差し押さえにやって来た。「人間が大勢集まるところに食糧あり」。すでに情報を手に入れていたのだろうか。
( 日本軍が午前四時に光華門から進入したそうだ。 )
激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。南の方角だ、と人びとは言っているが、わたしには西の方角からのように聞こえた。城内でもさかんに銃撃がおこなわれた。実際、わたしはぐっすりと眠りにつくこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、だれもが服を着たままだった。
五時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。けさキャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。
近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、わたしたちとしては、キャンパスの中でなくても安全区内にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らにわからせようと努力してきた。
粥場、つまり炊き出し所でけさ初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。一〇時三〇分には粥はすっかりなくなっていた。午後、二回目の給食がある予定だ。
一一時ごろにサール・ベイツがやってきて、交通部の建物が中国軍の命令できのう破壊されたこと、次に破壊される建物は鉄道部であることを知らせてくれた。それを聞いて胸が痛む。そんなことをしても何の益はなく、それは間違ったことであり、日本軍を困らせるよりも中国軍に与える損害のほうが大きいと思うからだ。
軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。
午後四時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人がわたしを呼びにきて、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鷲鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。
あれだけの爆撃や砲撃のあとにしては、城内は奇妙なほどに静かだ。中国兵の掠奪、戦闘機による爆撃、大砲による砲撃という三つの危険は去ったものの、四番目の危険がいまなお目の前に立ちはだかっている。わたしたちの運命は勝利軍の手中にあるのだ。今夜はみなとても不安で、どんなことになるのか予想がつかない。
プラマー・ミルズの今夜の報告によると、これまでに接触した日本兵たちは感じがよかったそうだ。しかし、接触した日本兵は、いかにも少数だ。
午後七時三〇分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。
後に、このことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致している。
今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。わたしたちは、透過不可能な地帯に隔てられてまったく孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つことにしよう。
金陵女子文理学院にかんしては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。わたしたちはほとんどいつも、全身に染み込んだ疲労に耐えきれずに、太くて低い坤き声を発している。 ( 今夜は武装を解いた兵士が安全区に大勢いる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない)
(『南京事件の日々』より)
昨夜、我が軍は撤退し朝から砲声すら聞こえない。日本兵は午後2時に水西門より城内に入った。すでにこの日、日本軍部隊は安全区の中に入り、食糧「徴発」を行なおうとしている。さらには、安全区内で住民を家から追い出し寝具を奪い、宿を「調達」している。
私達の黄警官は南山で日本兵が広州路にいるのを見て、彼は警官の制服を脱いで走り、400号棟の側まで転がり降りてくる際に、慌てて足をつまずいて転んでしまったので顔が真っ白になった、本当に臆病な人だ。私達は直ぐに南山に行って見た、その時は十数人の兵隊が邵さんの家の側に立っていて、使用人は皆おろおろした。
直ぐに日本兵が鶏小屋のまでやってきて鶏を要求したので使用人はヴォートリンさんを探して来た。ヴォートリンさんは彼らに食べることができないと言うと、彼らは行ってしまった、ガチョウの鳴声が聞こえたので彼等は来たのだ。
今晩は多くの人が校内に飛び込んで来る、彼らの家は日本兵が寝るために入り込んで来たので家を出たのだ。掛け布団は日本兵が使われたので、これら人々は皆手ぶらで入って来た。皆が安全区内にいたのは日本兵が安全区内に入って来ないと思っていたからであり、非常に驚いた。
私は悲しみが込み上げてきた、南京城が平静を失ってまもなく4ヶ月になるであろう、しかも南京城はたったの3日間で壊された、本当に悲惨だ、明日またどんな事が起こるか分からない!今日また2人の子供が苦しみに耐えて生まれた、これらの月は母子も苦しく、この地で寝ている。
【黄警官】金陵女子文理学院を管轄していた警官。広州路にいたのは歩兵第47連隊の兵士と思われる。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間にある小高い丘のことではないかと思われる。しかし1921年の南京の地図を見るとその場所は「小倉山」となっている。 南山にはもうひとつ、「南山公寓」を略して記述している可能性があるが、別の日の日記に「西山」という記述があるので、南山公寓と特定するのは避けた。
【使用人】原文は工人[gong1ren2](労働者)、学内の肉体労働の雑務をする人。 ヴォートリンの日記と同じ表現をしたほうが混乱がないと思って訳しましたが、ヴォートリンと程瑞芳では学院内での立場が違っていたので、工人と記述していたのかもしれない。
【ヴォートリンさん】原文は「華小姐」。「ヴォートリンさん」と訳した。
【ガチョウ】中国語の「鶏」という字と類似しているので誤記ではないかと思われる。確認が出来ないので「ガチョウ」と訳した。
コメント 2006年11月05日 熊猫
実際に日本軍が水西門から入ったのは午前8時30分。
パナイ号(拡大)十二月六日から、米大使館員と新聞記者たちは、貴重な所持品をトランクに詰めてパナイ号に運び込み、夜はパナイ号に泊まり、昼は南京に上陸して仕事をするという生活になった。
これ以上南京に停泊することが危険になったパナイ号は、十二月十一日夕方、下関港付近を離れ、長江上流へ移動を開始した。
米大使館二等書記官アチソン(GeorgeAtchesonJr.)の懸命な説得にもかかわらず、パナイ号への避難を断って南京にとどまった外国人は二七名で、つぎのようなふたつのグループに分けられる。一つは、新聞記者.カメラマンのグループ五名である。かれらは首都陥落の歴史的瞬間を取材しようと、日本軍の爆弾と砲弾にさらされるのを覚悟して踏みとどまったのである。あと一つのグループは、南京安全区国際委員会や戦傷者救済委員会の二二名。かれらは、自己の生命が脅かされるのも顧みず、多数の難民を救済・保護するために残った人たちである。
(『アジアの中の日本軍』 「南京大虐殺の全貌はなぜ報道されなかったか」笠原十九司 p45)
| 氏名 | 所属団体 | 備 考 |
|---|---|---|
| ダーディン F. Tillman Durdin | ニューヨーク・タイムズ | |
| スティール Archiba1d T. Stee1e | シカゴ・デイリー・ニューズ | |
| スミス L,C. Smith | ロイター通信社 | |
| <マクダニエル C. Yabe McDanie1 | AP(共同通信社) | |
| メンケン Arthur Menken | パラマウント映画ニュース |
| 氏名 | 委員 | 国籍 | 所属 |
|---|---|---|---|
| 1.ジョン・H・D・ラーべ John H. D. Rabe |
安全区 赤十字 |
ドイツ | ジーメンス洋行 |
| 2.エドワルト・スペルリング Eduard Sperling |
安金区 | ドイツ | 上海保険公司 |
| 3.クリスチャン・クレーガー Christian Kroeger |
赤十字 | ドイツ | 礼和洋行 |
| 4.R・ヘンペル R.Hempel |
ドイツ | 北ホテル | |
| 5.A・ツァウティヒ A. Zautig |
ドイツ | キースリング洋行 | |
| 6.R・R・ハッツ R. R. Hatz |
オーストリア | 安全区機械工 | |
| 7.コラ・ポドシポロフ Cola Podshivoloff |
赤十字 | ロシア(自系) | サンドグレン電気店 |
| 8.A・ジアル A. Zia1 |
ロシア(自系) | 安全区機械工 | |
| 9,C・S・トリマー C. S. Trimmer |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院医師 |
| 10.ロバート・O・ウィルソン Robert O. Wilson |
赤十字 | アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院医師 |
| 11.ジェームズ・H・マッカラム James H. MaCallum |
赤十字 | アメリカ | 連合キリスト教伝道団 |
| 12.グレイス・バウアー Grace Bauer |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院看護婦 | |
| 13.アイヴァ・ハインズ Iva Hynds |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院看護婦 | |
| 14.マイナー・S・ベイツ Meiner S. Bates |
安全区 | アメリカ | 金陵大学 |
| 15.チャールズ・H・リッグズ Charles H. Riggs |
安全区 | アメリカ | 金陵大学 |
| 16.ルイス・S・C・スマイス Lewis S. C. Smythe |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 金陵大学 |
| 17.ミニ・ヴォートリン Minnie Vautrin |
赤十字 | アメリカ | 金陵女子文理学院 |
| 18.W・P・ミルズ W.P.Mi11s |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 合衆国長老派教会伝道団 |
| 19.ヒューバート・L・ソーン Hubert L. Sone |
アメリカ | 金陵神学院 | |
| 20.ジョージ・A・フィッチ George A. Fitch |
アメリカ | YMCA | |
| 21.ジョン・G・マギー John G. Magee |
安全区 赤十字 |
アメリカ | アメリカ聖公会伝道団 |
| 22.アーネスト・H・フォスター Ernest H. Forster |
アメリカ | アメリカ聖公会伝道団 | |
| (ポウル・デウィット・トワイネン) (Paul Dewitt Twinem) |
赤十字 | (中国) | 金陵女子文理学院 |
一九三七年十二月十一日午後五時、南京からの最後の避難者を乗せたパナイ号は、イギリス砲艦「スカラブ」「クリケット」の二隻とともに、三?(サンズイに叉)河付近の停泊地を離れ、上流へ向かった。パナイ号の至近に何発も砲弾が落とされるのを見た艦長は、南京付近の船舶に対して、日本軍が無差別の攻撃を開始したことに気付いた。パナイ号にはスタンダード石油会社の三隻のタンカーが従った。その日は南京の上流一八・ニキロメートル地点に錨を下ろした。・パナイ号事件・レディバード号事件発生
パナイ号は一九二七年に上海の江南ドックで建造されたアメリカの砲艦(gunboat)で、長江の警備を担当していた。砲艦といっても写真(次頁)に明らかなように、日本の警備艇に類似している。『N・T』37・12・14によれば、パナイ号の乗船者は七六名で、将校・乗組員五九名、駐南京の米大使館員四名、米民間人七名、英ジャーナリスト一名、イタリア人三名、その他二名となっている。民間人のほとんどが、南京を取材していた新聞記者.カメラマンである。かれらはアチソンの説得に応じてパナイ号に難を避けたのであったが、悲劇は逆にかれらを襲ったのである。かれらの名前は表2のとおりである。
十二月十二日、すなわち日本軍が南京城内を占領する前日、南京の上流約四五キロに停泊していたパナイ号は、日本海軍機に撃沈された。これが日米開戦かと世界を驚かせたパナイ号事件である。
(同上書p50-51)
| 氏名 | 国 | 所属 | 備考 |
|---|---|---|---|
| ジョージ・アチソン・ジュニァ George Atcheson Jr. |
米 | 南京アメリカ大使館二等書記官 | |
| ホール・パクストン J. Ha11 Paxton |
米 | 南京アメリカ大使館付陸軍武官補佐官 | |
| エミール・ギャッシー Emile Gassie |
米 | 南京アメリカ大使館書記官 | |
| フランク・ロバーツ Frank N. Roberts |
米 | 南京アメリカ大使館付陸軍武官 陸軍大尉 | |
| ウェルダム・ジェームズ We1dom James | 米 | UP通信社記者 | |
| ジェームズ・マーシャル James Marshan |
米 | 『コリアーズ』誌記者 | |
| ノーマン・アレー Norman A1ley |
米 | ユニバーサル映画ニュース・カメラマン | |
| ノーマン・スーン Norman T. F. Soong |
米 | ニューヨーク・タイムズ・カメラマン | |
| エリック・メイエル Eric Mayei1 |
米 | フォックス映画ニュース・カメラマン | |
| ゴルデイー D. S. Go1die |
米 | スタンダード石油会社社員 | |
| ロイ・スクワイヤーズ Roy Squires |
米 | 中国木材輸出入会社南京支社支配人 | |
| コーリン・マクドナルド Colin M. McDona1d |
英 | ロンドン・タイムズ記者 | |
| ハーバート・ロス Herbert Ros(伊人) |
伊 | 南京イタリア大使館副領事 | |
| ルイジ・バルジー二 Luigi Barzini(伊人) |
伊 | 『コリア・デラ・セラ』誌記者 | |
| サンドロ・サンドリ(伊人) Sandro Sandri |
伊 | ファシスト党員 『スタンパ』紙記者 |
腹部に機関銃弾二発受け死亡 |
パナイ号が南京駐在の外国人記者の避難所であったことは、すでに述べた。アメリカの警備艇が攻撃されるとは夢想だにしなかったかれらは、重要な所持品を同艦に保管していた。
ダーディンは、日本軍が南京に来る三力月前から市に滞在し、取材活動を行っていた。かれにとっては命よりもたいせつであったこれら包囲戦の取材ノートや資料・写真等を詰めたトランクが、パナイ号とともに濁水に沈められてしまったのである。そのパナイ号はダーディンがニュースを上海へ送信する基地でもあったのだ。
ユニバーサル映画のカメラマン、ノーマン・アレーも、命がけで爆撃を撮影していたそのカメラとフィルムを持ち出すのが精一杯で、他の所持晶はすべて失った。スーンやアレーだけでなく他の記者・カメラマンも同様であったのは、スーンの体験記のパナイ号放棄と脱出場面を思い起こせば容易に想像できよう。
(同上書p73)
ラーベの停戦案を無視して3日たち、今頃になって・・・、でも無駄な犠牲を防ぐためには!
十二月十二日最終戦は近い!
日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の八時に、再び砲撃が始まった。
十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
休戦協定の内容は――この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。
軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。
シュぺアリングが、軍使をつとめようと申し出た。龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅういまかいまかと待っていた。夕方六時近くになってようやく龍(※1)が姿を見せた。龍は言った「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」
だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかつている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!
十八時半撤退命令が出ていたというが・・・
紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南から安全区の通りに逃げてきた中国人市民が寝場所を求めて急いでいるのが見える。(※2)。その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。
この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきたことがわかった。しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、いつしかのんびりとした行進にかわっていた。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。
韓といっしょに家に帰った。砲撃や爆撃に備えた緊急対処整える。必需品の洗面用具が入った小型かばんと、インシュリンや包帯セットなどをつめた大事な薬箱を新しいほうの防空壕に運ばせよう。古いのよりはいくぶん安全だろう。家屋敷を見捨てざるをえない場合に備え、毛皮のコートの中にも非常用の薬と注射器を詰めこむ。
ちょっとの間、私はしみじみした気持ちになった。なにかほかにまだ持っていけるものは? もう一度、部屋の中を歩き回って、見慣れた品々を見つめた。まるでこのがらくたにもきちんと別れを告げなければならない、とでもいうように。幼い孫の写真が数枚あった。これも持っていこう! さあ、これで準備は終わった。こんなときに笑うなどどうかと思うが、つい笑ってしまう。ハハ、やけくそだ!
夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。
二十時中国側防衛軍の撤退作戦は、土壇場の停戦工作を含めて、あまりにも戦況を見失った泥縄であった。軍民の被害を大きくした原因であることは否定できない。
南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになつている。ふたつある門の両方でノツクの音がする。なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。
これ以上聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。防空壕はすでにいつぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持つてきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが、一番安全だと思っているのだ。
榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降つてくる。南の方角は一面は火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のへルメツトをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやつた。二人とも防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことをきくようになった。
十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。
「なんだ、クリシャンじゃないか!いったいどうしたんだ」
「いや、ちょっと様子を見にきただけですよ」
クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、そのほかありとあらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。
「中で、まだ十分使えるバスを二十メキシコドルで買わないかと言ってきた男がいたんですよ。どうしよう、買いますかね?」
「うーん。どうかなあ」
「ま、とにかくその男に、明日また本部にくるように言っておきましたよ」
※中国には銀貨があった。もともと両(テール)だったが、のちにメキシコで鋳造された。それがこのメキシコドル。
真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。
ふしぶしが痛い。四十八時問というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には三十人、石炭庫に三人、使用人用の便所に女の人と子どもが八人、残りの百人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!
夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。
それから、龍はいった。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。ぜひ力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた三万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだに何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状態といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。
十二月十一日・カナリアの「ペーター」=Peter
八時
水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ペーター」のお気に召したらしい。さっきから声を限りに合奏している。からす(ラーベ)よりカナリアのほうが神経が太いようだ!
爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区(セーフティ・ゾーン)」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。日本軍が安全区は認めないけど攻撃は避けていた、とすればこれは逸れ弾か? それに紫金山方向から五台山を狙うと、ラーベの家は弾道の真下になる。
九時
ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後だ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。されにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者十三人。(※1)軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。鼓楼病院の前に-----ということは安全区側だ-----砦が築かれることになった。だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。山西路広場(バイエルン広場)を通りかかったとき、広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。目の前で次々とガラスや扉が壊されている。なぜそんなことをするのだろう? だれに聞いても、わからない、という!
けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。
十八時
記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイ号で発ったのだ。
スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、「こそ泥」を捕まえ、その処分について聞いてきたという。この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることになろうとは・・・・・。私もそこまでは考えていなかった。われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。
午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃を受けるだろう。それなのに韓はまだ家をでていこうとはしない。
・・・・南京入場(攻略)法に就て方面軍にては勧降状とか統制入場とか平時的気分濃厚なる為軍司令軍殿下〔朝香宮鳩彦中将〕の御気に入らず。・・・・・(12月9日の飯沼守〔上海派遣軍参謀長〕の日記)好戦的な皇室殿下。タテマエかお題目に過ぎない「和平開城」。
ラーベの日記は、
十二月十日(※1)英文では取り決めは4項目ではなく3項目です。"aforementioned"=「前項の」があるので、4項目に補正したのでしょう。
不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。
金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。「患者のけがの大半は狂言なのですよ。病院に入っているほうが安全ですからね」。重傷者を安全区に連れてきたいという。本来ならこれは協定違反だ。だが、日本軍はなにもいわないのではないかという希望的観測のもとに、金先生に鼓楼病院のトリマー氏を訪ねるように言った。彼は委員会の医学班のリーダーだ。先生は、中国人の医者をあと八十人ほど集められます、と請け負った。この人たちのことは全然しらなかった。
医者の数は多ければ多いほどいいのだから、もしそれが本当で、ここに来てもらえるならこんなにありがたいことはない。ここ二日間で、千人もけが人が出ているのだから。
マギー牧師は、ここに赤十字の欧州部を作ろうとしている。資金はあるのだが(黄上校から二万三千ドルうけとった)、いっこう進展しない。赤十字からの返事がないのだ。同意がないと、話を進めにくいらしい!残念だ!私ならさっさとやってしまうんだが。良いことをするのだから、ためらうことはないのに。同意なんか、あとからもらえばいいのだから。
それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるのだろう。一同、固唾をのんで待っている。なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。
安全区の道路は、非難する人たちでごったがえしている。道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。それから----軍人もだ。龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。
- 唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。
- 龍上校は五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちにあらされないよう責任を持つ。
- 軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、見つけ次第兵士を追い出す。
- また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、実行させる権限をもつ。 (※1)
『報道規制』とは誤訳
- General Tang unconditionally recognizes the southwest border of our Zone.
- Lung will see to it that construction of a soup kitchen on Wutaishan Hill will no longer be disrupted by soldiers,
- Three delegates from military headquarters will join three members of our committee for an inspection of the refugee Zone. Any soldier they meet will be ejected from the Zone. Each of the aforementioned three representatives of General Tang must have the authority to give this order and see to it that it is executed.
下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。それを聞いた龍はやめさせると約束した。私は軍事パスを受け取り、下関に通じる門を通れるようにしてもらった。 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。日本語版は
このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!
ここにまだ滞在している欧州人戦争記者たちが、真実を隠さず報道できないとは、全く恥ずべきことだ! あの連中が安全区から軍隊を立ち退かせるという約束をいつも果さないということは、顕わにしなくてはならない。(私がなにもかもぶちまけてやる!)
ああ、なんということだろう! たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。だが、それとは別に極秘電報がきた。そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。それによると、三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだとのこと。しかも蒋介石は「そのような申し出には応じられない」といったという。しかし、われわれはぜったいに思い違いなどしていない。いまここでそれをもう一度確認した。龍と林は電報を打つときに居合わせたが、二人とも、たしかに唐将軍は同意したと口をそろえている。そう簡単にひきさがらないぞ! われわれは蒋介石にもう一度電報を打った。同時に私はドイツ大使トラウトマンにも電報を打って、支援を頼んだ。(※2)英訳本の見出しは、「10:30 P.M.」
正午
朝からひっきりなしの攻撃だ。窓ガラスがガタガタいいっぱなしだ。紫金山では家が燃えている。城壁の外の町も燃え続けている。安全区にいる人たちは安心しているのか、あまり爆撃機を気にしていない。
日本のラジオが、南京は二十四時間以内に陥落するだろうと伝えている。中国軍はすでにいいかげん士気を阻喪している。南京一のホテル、首都飯店も軍隊に占領されてしまった。兵士はバーでよっぱらい、クラブの安楽椅子でくつろいでいる。ま、兵隊だってたまには楽しみたいのだ。
今夜のうちに南京が陥落してもすこしも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。
深夜二時半(※)
服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまざしい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤あかと照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、ふたたび床についた、というより、うとうとした。こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。
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◆★▼ pippo [うっかりしてました。 文書の『写し』です。 現代に生きる私たちは、パソコンからのプリントでもコピーでも、「写し」を..]
◆★▼ pippo [誤訳指摘 >なお、(日本語版p116)「十二月十三日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。」は誤訳です。正..]