
・国際赤十字支部を設立しその資格で野戦病院をまわる
十二月十三日国際赤十字の支部を立ち上げたのは、管理者である防衛軍が消滅して放置された野戦病院に対処するためだろう。最初の対処が「視察」であった。中山路(北路)を鉄道部、軍政部、外交部と北から車で廻ったのか?⇒市街地図参照
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。
本部に着くとすぐ、我々はたった十分で国際赤十字の支部を設立し、私も執行委員名簿に加わった。赤十字をつくらねばと何週間も思案していたマギー君が会長になった。
委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。
軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。
(12月13日つづき)(※1)訳本は「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。」だが、渡辺氏の訂正訳によった。
外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。
我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を礫いてしまったが最後、ふっとんでしまう。 上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転がっていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。(※1) 日本軍の伝令(分遣)隊には、ドイツ語を話す軍医がいて、日本軍司令官は二日間はまだやって来ないだろうと告げた。(※2)
我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!北へ向かう大勢の部隊を見たのは新街口近くであったらしい。
しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。
日本軍は北へ向かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の中国兵を武装解除して助けることができた(※2)。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ !ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊減とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。ラーベ達は、中国兵を武装解除さえすれば、捕虜として寛大な扱いがされると信じていた。国際法の常識でそう考えたのであるが。
我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。
本部に入ると入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍にひき渡さなければならない。日本語版の12月13日の日記はまだ続く。しかし14日の日記の項目はない。英語版とドイツ語版原著も同様に14日分は欠項である。この14日分の欠項を、13日の分と14日の分が一緒になって13日となってしまったのだと、私は解釈した。
DOCUMENT 10いかに「国際安全区」と言えども、軍事占領下の武力支配に抗することなどできない!!
14 December i937: Important Notice to the Refugees in the Safety Zone 安全区の避難民諸兄への重要注意
- From now on people should stay off the streets as much as possible. 今からは、できるかぎり街路上に留まらないようにしてください。
- At the most dangerous moment, everyone should get in houses or out of sight. もっとも危険と感じたときは家屋の中に入るか身をひそめてください。
- The Safery Zone is for Refugees. Sorry, the Safety Zone has no power to give protection to soldiers. 安全区は避難民諸兄のためにある。しかし許されよ、安全区は兵士からのあなた方を守る手段を何一つ持ちません。
- If there is any searching or inspection, give full freedom for such search.No opposition at all. 捜索や訊問をうけるような時は、相手のいうがままにして決して抵抗してはなりません。
一二月一三日月曜日・日本軍部隊が、安全区の難民用の食糧を真先に差し押さえにやって来た。「人間が大勢集まるところに食糧あり」。すでに情報を手に入れていたのだろうか。
( 日本軍が午前四時に光華門から進入したそうだ。 )
激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。南の方角だ、と人びとは言っているが、わたしには西の方角からのように聞こえた。城内でもさかんに銃撃がおこなわれた。実際、わたしはぐっすりと眠りにつくこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、だれもが服を着たままだった。
五時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。けさキャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。
近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、わたしたちとしては、キャンパスの中でなくても安全区内にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らにわからせようと努力してきた。
粥場、つまり炊き出し所でけさ初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。一〇時三〇分には粥はすっかりなくなっていた。午後、二回目の給食がある予定だ。
一一時ごろにサール・ベイツがやってきて、交通部の建物が中国軍の命令できのう破壊されたこと、次に破壊される建物は鉄道部であることを知らせてくれた。それを聞いて胸が痛む。そんなことをしても何の益はなく、それは間違ったことであり、日本軍を困らせるよりも中国軍に与える損害のほうが大きいと思うからだ。
軍の病院向けに五万ドルが〔南京〕国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会〔南京の国際赤十字委員会〕が組織された。
午後四時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人がわたしを呼びにきて、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鷲鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。
あれだけの爆撃や砲撃のあとにしては、城内は奇妙なほどに静かだ。中国兵の掠奪、戦闘機による爆撃、大砲による砲撃という三つの危険は去ったものの、四番目の危険がいまなお目の前に立ちはだかっている。わたしたちの運命は勝利軍の手中にあるのだ。今夜はみなとても不安で、どんなことになるのか予想がつかない。
プラマー・ミルズの今夜の報告によると、これまでに接触した日本兵たちは感じがよかったそうだ。しかし、接触した日本兵は、いかにも少数だ。
午後七時三〇分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。
後に、このことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致している。
今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。わたしたちは、透過不可能な地帯に隔てられてまったく孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つことにしよう。
金陵女子文理学院にかんしては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。わたしたちはほとんどいつも、全身に染み込んだ疲労に耐えきれずに、太くて低い坤き声を発している。 ( 今夜は武装を解いた兵士が安全区に大勢いる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない)
(『南京事件の日々』より)
昨夜、我が軍は撤退し朝から砲声すら聞こえない。日本兵は午後2時に水西門より城内に入った。すでにこの日、日本軍部隊は安全区の中に入り、食糧「徴発」を行なおうとしている。さらには、安全区内で住民を家から追い出し寝具を奪い、宿を「調達」している。
私達の黄警官は南山で日本兵が広州路にいるのを見て、彼は警官の制服を脱いで走り、400号棟の側まで転がり降りてくる際に、慌てて足をつまずいて転んでしまったので顔が真っ白になった、本当に臆病な人だ。私達は直ぐに南山に行って見た、その時は十数人の兵隊が邵さんの家の側に立っていて、使用人は皆おろおろした。
直ぐに日本兵が鶏小屋のまでやってきて鶏を要求したので使用人はヴォートリンさんを探して来た。ヴォートリンさんは彼らに食べることができないと言うと、彼らは行ってしまった、ガチョウの鳴声が聞こえたので彼等は来たのだ。
今晩は多くの人が校内に飛び込んで来る、彼らの家は日本兵が寝るために入り込んで来たので家を出たのだ。掛け布団は日本兵が使われたので、これら人々は皆手ぶらで入って来た。皆が安全区内にいたのは日本兵が安全区内に入って来ないと思っていたからであり、非常に驚いた。
私は悲しみが込み上げてきた、南京城が平静を失ってまもなく4ヶ月になるであろう、しかも南京城はたったの3日間で壊された、本当に悲惨だ、明日またどんな事が起こるか分からない!今日また2人の子供が苦しみに耐えて生まれた、これらの月は母子も苦しく、この地で寝ている。
【黄警官】金陵女子文理学院を管轄していた警官。広州路にいたのは歩兵第47連隊の兵士と思われる。
【南山】金陵女子文理学院と広州路の間にある小高い丘のことではないかと思われる。しかし1921年の南京の地図を見るとその場所は「小倉山」となっている。 南山にはもうひとつ、「南山公寓」を略して記述している可能性があるが、別の日の日記に「西山」という記述があるので、南山公寓と特定するのは避けた。
【使用人】原文は工人[gong1ren2](労働者)、学内の肉体労働の雑務をする人。 ヴォートリンの日記と同じ表現をしたほうが混乱がないと思って訳しましたが、ヴォートリンと程瑞芳では学院内での立場が違っていたので、工人と記述していたのかもしれない。
【ヴォートリンさん】原文は「華小姐」。「ヴォートリンさん」と訳した。
【ガチョウ】中国語の「鶏」という字と類似しているので誤記ではないかと思われる。確認が出来ないので「ガチョウ」と訳した。
コメント 2006年11月05日 熊猫
実際に日本軍が水西門から入ったのは午前8時30分。
パナイ号(拡大)十二月六日から、米大使館員と新聞記者たちは、貴重な所持品をトランクに詰めてパナイ号に運び込み、夜はパナイ号に泊まり、昼は南京に上陸して仕事をするという生活になった。
これ以上南京に停泊することが危険になったパナイ号は、十二月十一日夕方、下関港付近を離れ、長江上流へ移動を開始した。
米大使館二等書記官アチソン(GeorgeAtchesonJr.)の懸命な説得にもかかわらず、パナイ号への避難を断って南京にとどまった外国人は二七名で、つぎのようなふたつのグループに分けられる。一つは、新聞記者.カメラマンのグループ五名である。かれらは首都陥落の歴史的瞬間を取材しようと、日本軍の爆弾と砲弾にさらされるのを覚悟して踏みとどまったのである。あと一つのグループは、南京安全区国際委員会や戦傷者救済委員会の二二名。かれらは、自己の生命が脅かされるのも顧みず、多数の難民を救済・保護するために残った人たちである。
(『アジアの中の日本軍』 「南京大虐殺の全貌はなぜ報道されなかったか」笠原十九司 p45)
| 氏名 | 所属団体 | 備 考 |
|---|---|---|
| ダーディン F. Tillman Durdin | ニューヨーク・タイムズ | |
| スティール Archiba1d T. Stee1e | シカゴ・デイリー・ニューズ | |
| スミス L,C. Smith | ロイター通信社 | |
| <マクダニエル C. Yabe McDanie1 | AP(共同通信社) | |
| メンケン Arthur Menken | パラマウント映画ニュース |
| 氏名 | 委員 | 国籍 | 所属 |
|---|---|---|---|
| 1.ジョン・H・D・ラーべ John H. D. Rabe |
安全区 赤十字 |
ドイツ | ジーメンス洋行 |
| 2.エドワルト・スペルリング Eduard Sperling |
安金区 | ドイツ | 上海保険公司 |
| 3.クリスチャン・クレーガー Christian Kroeger |
赤十字 | ドイツ | 礼和洋行 |
| 4.R・ヘンペル R.Hempel |
ドイツ | 北ホテル | |
| 5.A・ツァウティヒ A. Zautig |
ドイツ | キースリング洋行 | |
| 6.R・R・ハッツ R. R. Hatz |
オーストリア | 安全区機械工 | |
| 7.コラ・ポドシポロフ Cola Podshivoloff |
赤十字 | ロシア(自系) | サンドグレン電気店 |
| 8.A・ジアル A. Zia1 |
ロシア(自系) | 安全区機械工 | |
| 9,C・S・トリマー C. S. Trimmer |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院医師 |
| 10.ロバート・O・ウィルソン Robert O. Wilson |
赤十字 | アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院医師 |
| 11.ジェームズ・H・マッカラム James H. MaCallum |
赤十字 | アメリカ | 連合キリスト教伝道団 |
| 12.グレイス・バウアー Grace Bauer |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院看護婦 | |
| 13.アイヴァ・ハインズ Iva Hynds |
アメリカ | 金陵大学付属鼓楼病院看護婦 | |
| 14.マイナー・S・ベイツ Meiner S. Bates |
安全区 | アメリカ | 金陵大学 |
| 15.チャールズ・H・リッグズ Charles H. Riggs |
安全区 | アメリカ | 金陵大学 |
| 16.ルイス・S・C・スマイス Lewis S. C. Smythe |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 金陵大学 |
| 17.ミニ・ヴォートリン Minnie Vautrin |
赤十字 | アメリカ | 金陵女子文理学院 |
| 18.W・P・ミルズ W.P.Mi11s |
安全区 赤十字 |
アメリカ | 合衆国長老派教会伝道団 |
| 19.ヒューバート・L・ソーン Hubert L. Sone |
アメリカ | 金陵神学院 | |
| 20.ジョージ・A・フィッチ George A. Fitch |
アメリカ | YMCA | |
| 21.ジョン・G・マギー John G. Magee |
安全区 赤十字 |
アメリカ | アメリカ聖公会伝道団 |
| 22.アーネスト・H・フォスター Ernest H. Forster |
アメリカ | アメリカ聖公会伝道団 | |
| (ポウル・デウィット・トワイネン) (Paul Dewitt Twinem) |
赤十字 | (中国) | 金陵女子文理学院 |
一九三七年十二月十一日午後五時、南京からの最後の避難者を乗せたパナイ号は、イギリス砲艦「スカラブ」「クリケット」の二隻とともに、三?(サンズイに叉)河付近の停泊地を離れ、上流へ向かった。パナイ号の至近に何発も砲弾が落とされるのを見た艦長は、南京付近の船舶に対して、日本軍が無差別の攻撃を開始したことに気付いた。パナイ号にはスタンダード石油会社の三隻のタンカーが従った。その日は南京の上流一八・ニキロメートル地点に錨を下ろした。・パナイ号事件・レディバード号事件発生
パナイ号は一九二七年に上海の江南ドックで建造されたアメリカの砲艦(gunboat)で、長江の警備を担当していた。砲艦といっても写真(次頁)に明らかなように、日本の警備艇に類似している。『N・T』37・12・14によれば、パナイ号の乗船者は七六名で、将校・乗組員五九名、駐南京の米大使館員四名、米民間人七名、英ジャーナリスト一名、イタリア人三名、その他二名となっている。民間人のほとんどが、南京を取材していた新聞記者.カメラマンである。かれらはアチソンの説得に応じてパナイ号に難を避けたのであったが、悲劇は逆にかれらを襲ったのである。かれらの名前は表2のとおりである。
十二月十二日、すなわち日本軍が南京城内を占領する前日、南京の上流約四五キロに停泊していたパナイ号は、日本海軍機に撃沈された。これが日米開戦かと世界を驚かせたパナイ号事件である。
(同上書p50-51)
| 氏名 | 国 | 所属 | 備考 |
|---|---|---|---|
| ジョージ・アチソン・ジュニァ George Atcheson Jr. |
米 | 南京アメリカ大使館二等書記官 | |
| ホール・パクストン J. Ha11 Paxton |
米 | 南京アメリカ大使館付陸軍武官補佐官 | |
| エミール・ギャッシー Emile Gassie |
米 | 南京アメリカ大使館書記官 | |
| フランク・ロバーツ Frank N. Roberts |
米 | 南京アメリカ大使館付陸軍武官 陸軍大尉 | |
| ウェルダム・ジェームズ We1dom James | 米 | UP通信社記者 | |
| ジェームズ・マーシャル James Marshan |
米 | 『コリアーズ』誌記者 | |
| ノーマン・アレー Norman A1ley |
米 | ユニバーサル映画ニュース・カメラマン | |
| ノーマン・スーン Norman T. F. Soong |
米 | ニューヨーク・タイムズ・カメラマン | |
| エリック・メイエル Eric Mayei1 |
米 | フォックス映画ニュース・カメラマン | |
| ゴルデイー D. S. Go1die |
米 | スタンダード石油会社社員 | |
| ロイ・スクワイヤーズ Roy Squires |
米 | 中国木材輸出入会社南京支社支配人 | |
| コーリン・マクドナルド Colin M. McDona1d |
英 | ロンドン・タイムズ記者 | |
| ハーバート・ロス Herbert Ros(伊人) |
伊 | 南京イタリア大使館副領事 | |
| ルイジ・バルジー二 Luigi Barzini(伊人) |
伊 | 『コリア・デラ・セラ』誌記者 | |
| サンドロ・サンドリ(伊人) Sandro Sandri |
伊 | ファシスト党員 『スタンパ』紙記者 |
腹部に機関銃弾二発受け死亡 |
パナイ号が南京駐在の外国人記者の避難所であったことは、すでに述べた。アメリカの警備艇が攻撃されるとは夢想だにしなかったかれらは、重要な所持品を同艦に保管していた。
ダーディンは、日本軍が南京に来る三力月前から市に滞在し、取材活動を行っていた。かれにとっては命よりもたいせつであったこれら包囲戦の取材ノートや資料・写真等を詰めたトランクが、パナイ号とともに濁水に沈められてしまったのである。そのパナイ号はダーディンがニュースを上海へ送信する基地でもあったのだ。
ユニバーサル映画のカメラマン、ノーマン・アレーも、命がけで爆撃を撮影していたそのカメラとフィルムを持ち出すのが精一杯で、他の所持晶はすべて失った。スーンやアレーだけでなく他の記者・カメラマンも同様であったのは、スーンの体験記のパナイ号放棄と脱出場面を思い起こせば容易に想像できよう。
(同上書p73)
ラーベの停戦案を無視して3日たち、今頃になって・・・、でも無駄な犠牲を防ぐためには!
十二月十二日最終戦は近い!
日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の八時に、再び砲撃が始まった。
十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
休戦協定の内容は――この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。
軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。
シュぺアリングが、軍使をつとめようと申し出た。龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅういまかいまかと待っていた。夕方六時近くになってようやく龍(※1)が姿を見せた。龍は言った「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」
だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかつている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!
十八時半撤退命令が出ていたというが・・・
紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南から安全区の通りに逃げてきた中国人市民が寝場所を求めて急いでいるのが見える。(※2)。その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。
この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきたことがわかった。しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、いつしかのんびりとした行進にかわっていた。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。
韓といっしょに家に帰った。砲撃や爆撃に備えた緊急対処整える。必需品の洗面用具が入った小型かばんと、インシュリンや包帯セットなどをつめた大事な薬箱を新しいほうの防空壕に運ばせよう。古いのよりはいくぶん安全だろう。家屋敷を見捨てざるをえない場合に備え、毛皮のコートの中にも非常用の薬と注射器を詰めこむ。
ちょっとの間、私はしみじみした気持ちになった。なにかほかにまだ持っていけるものは? もう一度、部屋の中を歩き回って、見慣れた品々を見つめた。まるでこのがらくたにもきちんと別れを告げなければならない、とでもいうように。幼い孫の写真が数枚あった。これも持っていこう! さあ、これで準備は終わった。こんなときに笑うなどどうかと思うが、つい笑ってしまう。ハハ、やけくそだ!
夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。
二十時中国側防衛軍の撤退作戦は、土壇場の停戦工作を含めて、あまりにも戦況を見失った泥縄であった。軍民の被害を大きくした原因であることは否定できない。
南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになつている。ふたつある門の両方でノツクの音がする。なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。
これ以上聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。防空壕はすでにいつぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持つてきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが、一番安全だと思っているのだ。
榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降つてくる。南の方角は一面は火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のへルメツトをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやつた。二人とも防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことをきくようになった。
十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。
「なんだ、クリシャンじゃないか!いったいどうしたんだ」
「いや、ちょっと様子を見にきただけですよ」
クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、そのほかありとあらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。
「中で、まだ十分使えるバスを二十メキシコドルで買わないかと言ってきた男がいたんですよ。どうしよう、買いますかね?」
「うーん。どうかなあ」
「ま、とにかくその男に、明日また本部にくるように言っておきましたよ」
※中国には銀貨があった。もともと両(テール)だったが、のちにメキシコで鋳造された。それがこのメキシコドル。
真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。
ふしぶしが痛い。四十八時問というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には三十人、石炭庫に三人、使用人用の便所に女の人と子どもが八人、残りの百人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!
夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。
それから、龍はいった。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。ぜひ力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた三万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだに何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状態といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。
十二月十一日・カナリアの「ペーター」=Peter
八時
水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ペーター」のお気に召したらしい。さっきから声を限りに合奏している。からす(ラーベ)よりカナリアのほうが神経が太いようだ!
爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区(セーフティ・ゾーン)」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。日本軍が安全区は認めないけど攻撃は避けていた、とすればこれは逸れ弾か? それに紫金山方向から五台山を狙うと、ラーベの家は弾道の真下になる。
九時
ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後だ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。されにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者十三人。(※1)軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。鼓楼病院の前に-----ということは安全区側だ-----砦が築かれることになった。だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。山西路広場(バイエルン広場)を通りかかったとき、広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。目の前で次々とガラスや扉が壊されている。なぜそんなことをするのだろう? だれに聞いても、わからない、という!
けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。
十八時
記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイ号で発ったのだ。
スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、「こそ泥」を捕まえ、その処分について聞いてきたという。この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることになろうとは・・・・・。私もそこまでは考えていなかった。われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。
午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃を受けるだろう。それなのに韓はまだ家をでていこうとはしない。
・・・・南京入場(攻略)法に就て方面軍にては勧降状とか統制入場とか平時的気分濃厚なる為軍司令軍殿下〔朝香宮鳩彦中将〕の御気に入らず。・・・・・(12月9日の飯沼守〔上海派遣軍参謀長〕の日記)好戦的な皇室殿下。タテマエかお題目に過ぎない「和平開城」。
ラーベの日記は、
十二月十日(※1)英文では取り決めは4項目ではなく3項目です。"aforementioned"=「前項の」があるので、4項目に補正したのでしょう。
不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。
金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。「患者のけがの大半は狂言なのですよ。病院に入っているほうが安全ですからね」。重傷者を安全区に連れてきたいという。本来ならこれは協定違反だ。だが、日本軍はなにもいわないのではないかという希望的観測のもとに、金先生に鼓楼病院のトリマー氏を訪ねるように言った。彼は委員会の医学班のリーダーだ。先生は、中国人の医者をあと八十人ほど集められます、と請け負った。この人たちのことは全然しらなかった。
医者の数は多ければ多いほどいいのだから、もしそれが本当で、ここに来てもらえるならこんなにありがたいことはない。ここ二日間で、千人もけが人が出ているのだから。
マギー牧師は、ここに赤十字の欧州部を作ろうとしている。資金はあるのだが(黄上校から二万三千ドルうけとった)、いっこう進展しない。赤十字からの返事がないのだ。同意がないと、話を進めにくいらしい!残念だ!私ならさっさとやってしまうんだが。良いことをするのだから、ためらうことはないのに。同意なんか、あとからもらえばいいのだから。
それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるのだろう。一同、固唾をのんで待っている。なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。
安全区の道路は、非難する人たちでごったがえしている。道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。それから----軍人もだ。龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。
- 唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。
- 龍上校は五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちにあらされないよう責任を持つ。
- 軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、見つけ次第兵士を追い出す。
- また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、実行させる権限をもつ。 (※1)
『報道規制』とは誤訳
- General Tang unconditionally recognizes the southwest border of our Zone.
- Lung will see to it that construction of a soup kitchen on Wutaishan Hill will no longer be disrupted by soldiers,
- Three delegates from military headquarters will join three members of our committee for an inspection of the refugee Zone. Any soldier they meet will be ejected from the Zone. Each of the aforementioned three representatives of General Tang must have the authority to give this order and see to it that it is executed.
下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。それを聞いた龍はやめさせると約束した。私は軍事パスを受け取り、下関に通じる門を通れるようにしてもらった。 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。日本語版は
このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!
ここにまだ滞在している欧州人戦争記者たちが、真実を隠さず報道できないとは、全く恥ずべきことだ! あの連中が安全区から軍隊を立ち退かせるという約束をいつも果さないということは、顕わにしなくてはならない。(私がなにもかもぶちまけてやる!)
ああ、なんということだろう! たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。だが、それとは別に極秘電報がきた。そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。それによると、三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだとのこと。しかも蒋介石は「そのような申し出には応じられない」といったという。しかし、われわれはぜったいに思い違いなどしていない。いまここでそれをもう一度確認した。龍と林は電報を打つときに居合わせたが、二人とも、たしかに唐将軍は同意したと口をそろえている。そう簡単にひきさがらないぞ! われわれは蒋介石にもう一度電報を打った。同時に私はドイツ大使トラウトマンにも電報を打って、支援を頼んだ。(※2)英訳本の見出しは、「10:30 P.M.」
正午
朝からひっきりなしの攻撃だ。窓ガラスがガタガタいいっぱなしだ。紫金山では家が燃えている。城壁の外の町も燃え続けている。安全区にいる人たちは安心しているのか、あまり爆撃機を気にしていない。
日本のラジオが、南京は二十四時間以内に陥落するだろうと伝えている。中国軍はすでにいいかげん士気を阻喪している。南京一のホテル、首都飯店も軍隊に占領されてしまった。兵士はバーでよっぱらい、クラブの安楽椅子でくつろいでいる。ま、兵隊だってたまには楽しみたいのだ。
今夜のうちに南京が陥落してもすこしも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。
深夜二時半(※)
服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまざしい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤あかと照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、ふたたび床についた、というより、うとうとした。こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。

国と国、軍と軍が、停戦する自己能力がないのなら、市民の発想で!
十二月九日(英訳版):"We are still busy transporting rice from outside the city."
いまだに米を運ぶ作業で忙しい。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。
さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。これは訳者による妄想加筆なので削除しました。⇒参照
午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。作戦上火をつけたのだ。町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。照準が狂っていたのか、幸か不幸か、それらは命中しなかった。とにかく日本は同盟国なのだから。今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったとヒトラー総統に電報を打つといってやった。大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。
そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。ところが、なんと唐は承知したのだ。そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。
〔編者註〕
そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれてアメリカの砲艦パナイに赴いた。彼らは二通の電報を打った。一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。
アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベは次のように記している。「国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの日本軍当局による確約を望んでいる。もしこれが得られれば、委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する」---これらの電報には署名がある「代表 ジョン・ラーベ」
燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終る直前、夜の七時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区じゅうに響いている。(※)明かりが消され、暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。兵器と爆弾を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と兵器を差し出した。(※)英文では

リンクをつけて下さってお礼を申し上げます。
あの赤紙も福島市内で婦人会の方々が配っていたものです。その後、配布元が分かったので了解を取り付けて有ります。
私も84歳になり、余生を戦争体験の語り継ぎに尽くしております。私の関係しているホームページ「朝風」も折があったらご覧になって下さい。
ご健闘を祈っております、再見。


十二月八日おやっさん臨時市長がんばれ!
昨日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。のこりの家族が四十マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けてくれていたので迎えにいく時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここにきているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。
二年ほど前、トラウトマン大使が北載河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしているのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪(ひょうたん)から駒が出た。といったからって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまでやらざるをえなくなったいま、私は事実上の「市長代理」のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ!
何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちがさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日がくれていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。
外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせただのポーズだ、面子を失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが私はそうは思わない。南京防衛軍をひきいる唐が、無分別にも兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないかと不安でしかたがない。
両替屋を開くことにした。小銭が足りなくなる。政府の役人に友人が二人いるので、助けてくれるだろう。
われわれはみなおたがいに絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく掲げた安全区の旗をまたもやぜんぶ持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡塁のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、なにもかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。こんな汚い手をつかわれるとは・・・・。予想もしていなかった。すでに十一月二十二日に、ここは国民政府から正式に認められているというのに。一九三七年十二月八日夕方、中国の新聞のある報告より
一週間前、すなわち一九三七年十二月一日、市長の馬氏は、南京安全区国際委員会に対して、安全区の管理責任を負うようにと要求した。
苦力(クーリー:低賃金労働者)とトラック運転手若干名を除き、委員およびその関係者は、任務を自発的にかつ無償で果たしている。
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◆★▼ 熊猫 [【使用人】というのは、ヴォートリンの日記と同じ表現をしたほうが混乱がないと思って訳しましたが、ヴォートリンと程瑞芳で..]
◆★▼ pippo [熊猫さん 翻訳文の引用ご承認ありがとうございます。お示しの件、さっそく直しておきました。]
◆★▼ pippo [私の誤記訂正です。 ラーベの日記はじめの方 ×二人⇒○三人 「委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。」]
◆★▼ pippo [12・21追記しました ■ [ラーベの日記][国際委員会]安全区外国人の行動 http://latemhk.tdi..]