
日本軍による南京包囲作戦が進行している中で、ラーベに伝わる南京の外のニュースはか細くなってきました。
皆さんは日中戦争スタディーズの情報で補ってください。そのエントリーから
・11月20日:大本営設置
・11月22日:中支那方面軍司令官松井石根、南京攻略を意見具申
・11月24日:第一回大本営御前会議
・11月28日: 参謀本部、南京攻撃を決定
・11月29日:第十軍法務部長、嘉興から湖州移動中に二百以上の死体をみる
・12月1日:中支那方面軍の戦闘序列発令/南京攻略の大命
・12月2日:朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍の司令官に
・12月2日:蒋介石、独大使トラウトマンと会談
・12月3日:第101師団、上海共同租界内を示威行軍
・12月3日:第16師団による丹陽城内掃蕩
・12月4日:日本、国際安全区に関して正式回答
その他背景史料豊富です。
(第11師団山砲連隊上等兵玉井清美著『侵略の告発』では、)中年の女性が泥田の中にころがり、下着がむかれ、陰部を泥靴で踏みっけた跡が残つている。この女もつい三・四時間前まで、生きていたのではと思われる。と書いている。
むろん、これらの女性たちが強姦されたあげくに殺害されたという確証はなく、著者もそうは断定していないが、状況から判断すれぼ、強姦行為がなかったとは考えられないだろう。たとえぼ、次のような記述はどうだろうか。本部移動の途中、放火狂のいたずらで、かなた、こなたの部落から火の手があがり、その焼跡には、不思議に母親が焼死し、その傍らには、必らずという程に、二-四歳児が泣きわめく。(同上)著者はこれも強姦されたとは記してない。強姦を目撃したわけでも聞いたわけでもないからだ。だが「不思議に」と書いたあたり、著者の兵士としての勘が働いていることは確かである。著者でなくても、何件もの火災現場で「必らずという程」女性が焼死し、幼児は家の外で「泣きわめ」いていれば、ただの焼死でないことぐらいはだれの目にも推測がつげられる。
(中略)
強姦現場の目撃なら、場所は違うが著者の玉井氏は巡察将校に従って行動したときにそれを見ている。そのとき、著者は伍長に任官していたので週番下士官として随行したと推定されるが、場所は無錫の市内である。下少尉に随行し市中の巡察に出た。街には、大勢の兵達が右往左往し相当荒らしている様子が察せられた。少尉は、時々民家へ踏込んで、今日の巡察の目的は、兵が女にいたずらをしていないかを取締るのが目的であると言う。と、ある民家の入口で何気なく立っている兵が、少尉に敬礼し乍ら、何か落着かざる様子が察せられた。少尉は、二・三米やり過し、玉井あいつ一寸、おかしくないかと言う。ハイ、一寸怪しい気がしますと言うと、少尉は急に立ち帰り、つかつかと、兵が立つ民家に入った。其処には、私達の予想通り、藁の上で、一組の男女がもつれ合い抜き差しならぬ行為が展開されていた。“コラッ何をしとるか”の少尉の大喝に、女の上に腹這っていた兵は、驚いて跳起き、奇妙な格好の不動の姿勢でピリピリ震え、少尉のピンタが、3つ4つとんだ。(同上)(中略)
この書に収録されている著者(玉井氏)宛の手紙の一部分を参考資料として転記しておくことにする。手紙の差出人は、著者が匿名にしているのだが、著者と同じ師団に所属する歩兵第四三連隊(浅間部隊)に配属された元衛生兵である。無錫では、橋の金属製の手すりに、中国人女性を全裸の上、両手両足をしぼりつけ、広げた陰部に敵の使用済みでない新らしい手榴弾を押入した死体が六・七体あった。(「日本軍は強姦集団であった」高崎隆治,『南京大虐殺の研究』p206-209より)
・今日もまた、安全区の非武装化問題で苦労する。十二月四日英文では
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙(※1)は「外国人」による難民区などへいかないようにと、繰り返し書き立てている。この赤新聞(※2)は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。
十二月三日東京の駐日ドイツ大使館から、漢口経由で届いた電報か?
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関の艀(はしけ)でこちらにきたのだが、そのまま漢ロヘとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが! ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。ドイツ大便館南京分室 漢口発 三七年十二月二日 南京着 十二月三日
東京、十二月二日
日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
ザウケン
ローゼンは、ほかの国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。口ーゼンさんは、蒋介石夫人に接触してはどうか、と勧めてくれた。五台山の一部に高射砲台を設置しようとしたらしい。この砲台が、日本軍の占領前には、完全に非武装化しなくてはならない安全区の境界問題として、日本軍の占領後には、「安全区に逃げ込んだ防衛軍兵士は武装蜂起していない」といういいがかりに利用されている。日本軍の占領後というよりも、2006年現在の議論で蒸し返されている。
防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全区の三ヵ所に新たに塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。
ようやく日本側からの意思表示が届いた。安全区設立に関してだ。
十二月二日(※1)Pater Jacquinotフランス人神父ジャキノ(※1)を通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報 一九三七年十二月一日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より(※2)
十一月三十日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・云々」は、ひじょうに満足のいくものだ。
アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と、再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーべ 代表
軍事・外交に関心のある人には必須のいわゆる『トラウトマン工作』である。トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのは、ちょっとしたセンセーシヨンだった。ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。こっそり教えてくれたのだが、大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことにかならずしも賛成ではないらしい。あれは必要なかったと考えているのだ! 今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。
我々は、米と小麦粉が自由に処分できるのに、運ぶための車輌をみつけるのに大変苦労している。中には見張りがいないままに安全区の外に置かれたままのものもある。既にそうとうな量が軍当局によって持ち運び去られていると聞かされた。噂では、我々に与えられた三万袋のうち、わずか一万五千袋しか残されていないという。ゆうさんの検討による。
ラーベは、周囲の混乱状況に顔をしかめてはいるものの、日記では冷静な文章を書き連ねている。こんな人が、ちぐはぐな感情的行動を起こすはずはない。寺内貫太郎とは違う。口ーゼンが大使館の警察官から聞いて教えてくれたとおりだ。馬市長は警察が軍隊とともに町を去るよう命令が出たことに反対している。
午後八時に杭立武さんのお別れ晩餐会。今夜、故宮宝物を一万四千箱も漢口まで運ぶのだ。船に積みきれなかったので、千箱残さなければならなくなった。杭立武さんがいなくなるのはとても残念だ。ひじょうに有能な人で、大いに力になってくれた。
◆★▼ 1937-2007 [>日本軍総司令官の松井石根も上海にいたのか? 松井大将陣中日記の十二月六日の項には、「在無錫軍司令部」という語句が..]
◆★▼ pippo [1937-2007さん(70周年さん) 早速のご教授ありがとうございました。 >おそらくこの日も無錫にいたのではない..]
◆★▼ siebzig [すみません、大変なミスをしておりました。松井石根の12月7日の日記に「此日始て蘇州、上海間鉄道開通するに依り 予は之..]
◆★▼ pippo [そうですか。12月7日までは上海でしたか。松井石根は、12月1日に上海派遣軍司令官を宮様に引き継ぐまでは、中支那方面..]
◆★▼ siebzig [12月14日と15日の日記がひとまとめになっていまして、「十四日 予は湯水鎮に前進の筈なりしが 準備未完了の為め 十..]
◆★▼ pippo [>午後一時発蘇州飛行場より飛行機にて句容飛行場に飛翔し 夫れより自動車にて午後三時湯水鎮軍司令部に安着す」とあります..]
◆★▼ siebzig [中島師団長の日記によれば、12月7日に歩兵第33聯隊の第1大隊が東から、第9聯隊の第1大隊が北から湯水鎮に突入し占領..]
◆★▼ pippo [>中島師団長の日記によれば、12月7日に歩兵第33聯隊の第1大隊が東から、第9聯隊の第1大隊が北から湯水鎮に突入し占..]
◆★▼ pippo [誤訳の訂正をいれました。]
「2006年12月1日本格運営開始。私たちは日中戦争についてどれだけ語ってきただろうか?」
精力的な、私から見ればもちろん若い人たちが始めたらしいブログhttp://blog.goo.ne.jp/1937-2007
十ニ月一日(※)英文では
九時半に、クレーガー、シュペアリング両人を平倉巷で開かれる委員会へ行く。いろいろな役目をわりふって、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米三万袋と小麦粉1万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で(※)。難民用の給食所をつくる予定だ。
三つめの防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入り口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から二万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の十万ドルの第一回目だ。のこりはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめただけだった。この慎重さ、国際委員会が慎重であるということは、南京の住民はもっと慎重なはずだ。家や家具、貯えの全てを捨てて、おいそれと安全区に移ってテント生活者になってたまるか、私ならそう思う。
フィッチ、クレーガー、スマイス、YMCAの王(ワン)、リッグズ、私のメンバーで寧海路五号にある家を見に行く。明日から、ここを委員会の本部にするつもりだ。スマイスは、家のりっぱなことと豪華な調度品、それから一万七千五百ドルもの値打ちのある防空壕にいたく感動してつぶやいた。
「これからは、あなたのことをもっぱらジョン・H・D・ラーベ・ロックフェラーと呼ばせてもらいますよ」
十八時、会議。南京に残っていいる住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、われわれの責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうと言う意見だった。安全区に移るようすすめる文面は、ひじょうに慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
ローゼンがアメリカ人を通じて(※)知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。まちがいない。総統が私を見殺しになさるはずがない!(※)英文では "news via the Americans"
ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗る(※)か決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュルベルク先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。だから、乗るのは、ヒルシェルベルグ先生の奥さんと娘さん(この二人はすでに乗船している)、ローゼン、ヒュルター、シェルフェンベルクの大使館員三人、それから店員二人、すなわちノイマンさんと名前を知らないロシアの女性。それからカフェ・キースリングの会計係だ。(※)英文では、"to board the Hulk"
ヒルシュルベルグ先生が張を漢口に連れていった。かみさんはまだよくならない。発つ前に、私のインシュリンをわけてやった。医者が緊急に必要なので、先生は飛行機で帰るつもりだ。(ジーメンスのアシスタントである)韓とその友人、怡和通レンガ工場の孫を食料大臣に任命した。韓は顔をかがやかせて言った。「こんなに高い役職についたのは、はじめてですよ」周りの中国人に沈黙を強いるきつ過ぎるジョークも多いが、これは心温まるわかり易いジョーク。ラーベおいちゃん、決まったね。
十一月三十日
韓に家族を連れて越してくるようにいった。一家はいま学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で怡和通レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだできあがらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げた煉瓦壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)がひとつあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道がとまりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約1ヶ月分ある。
一晩かけて予備の注射器を煮沸消毒した。器具一式と、インシュリンのアンプル三個を肌身離さず持ち歩いている。張のかみさんはまだ入院している。コックの曹も入院中だが、こちらは快方に向かっている。せっせと薬を飲んでいる。効くと信じているが、理由は簡単、まずいからだ!
ラーベが住民の数を知りたかったのは、食料や住居の確保のためだ。蕪湖から医者のブラウンさんとフランス人の神父さんがやってきた。蕪湖でも安全区を設けるつもりなのでいろいろ知恵を貸してもらいたいという。だがこちらも途方にくれている有様なのだ。
まだ残っている住民の数をもう少し正確につかまなければな。「正確な」情報を教えてくれるといっていた男、すなわちかつての警察庁長王固盤が逮捕されたという噂が、たった今飛び込んできた。自分は軍人ではないから任ではないといって辞任したのだったが。
スマイスから電話。南京市には六万袋、下関には三万四千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまり藁小屋に使う筵だ。この寒空に、なんとかして泊まれる場所を確保しなければならない。
以下は国際委員会が抱えている課題である。
- 資金の調達
- 警察
安全区入り口の検問
境界の警備
警察官の総数とその宿泊施設の整備- 兵士と軍人たち
撤退の指令と視察
すでに始まっている脱走兵の対策
負傷者の看護- 食糧の配給
食料の管理
食料の貯蔵と分配- 輸送と輸送手段
- 避難民の収容施設
見張り
建物の使用と管理
(a)公共の建物(政府の)
(b)学校や伝道団の建物
(c)空き家、藁小屋- 公共施設
水道
電気
電話- 衛生設備と健康管理
仮設便所
ゴミと糞尿の運搬
病院と医療設備次に南京安全区委員会のメンバーリストを記す。
名前 国籍 所属 ジョン・ラーベ(代表) ドイツ ジーメンス洋行 ルイス・S・C・スマイス(事務局長) イギリス 金陵大学 P・H・マンロ=フォール イギリス 亜細亜火油公司 ジョン・マギー アメリカ アメリカ聖公会伝道団 ☆P・R・シールズ イギリス 和記公司 ☆J・M・ハンソン デンマーク 徳古士煤油公司 ☆G・シュルツェ・パンティン ドイツ 興明貿易公司 ☆I・マッケイ イギリス 太古公司 ☆J・V・ピッカーリング アメリカ 美孚煤油公司 エドゥアルト・シュペアリング ドイツ 上海保険公司 M・S・ベイツ アメリカ 金陵大学 W・P・ミルズ アメリカ 長老派教会伝道団 ☆J・リーン イギリス 亜細亜火油公司 C・S・トリマー アメリカ 鼓楼病院 クリスティアン・クレーガー ドイツ カルロヴィッツ・南京(礼和洋行) ジョージ・フィッチ アメリカ 基督教青年会(励志会)
(編注か?)☆印をつけた人は、包囲される前に、南京を去っている。
東京日日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>
百人斬り競争!両少尉、早くも八十人
[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。
無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉
この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉
僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ


11月21日-26日 無錫附近の戦斗に参加
常熟よりクリークを利用して 大発にて進む。敵の迎撃を受け展開。人力で舟を曳行前進する。射撃開始直後 第一分隊砲側に迫撃砲弾炸裂し 砲は破損分隊長山田金治郎伍長,四番砲手山添銀治郎上等兵,五番砲手橋本徳太郎上等兵 戦死。爾後南京入城まで第二分隊の砲一門で戦う。
11月27日-30日 常州附近の戦斗
12月1日-3日 丹陽附近の戦斗
無錫駅を出て 線路沿いに人力搬送で急進する。
十一月二十九日
シュペアリングから電話。王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。
スマイスは、「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。
ローゼンから電話。日本人(※)は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないどろうか。それにしても唐生智がしたような発言(「南京を死守する」云々)は、迷惑千万だ。司令官というものはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。
持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。ヒトラーユーゲントのリーダー、バルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。ドイツ人庶民の多くがヒットラーをなぜ信じたのか、理解するヒントの1つになりそうだ。
総統のかくも偉大なるところ、それは、
われらが総統にして
あまたの民の英雄たること。
また、彼その人。
素直にして堅固、かつ素朴、
彼のなかにわれらが世界の源あり。
その魂ははるか天空へと達しながら、
なお人としてとどまられた。
君やわれとひとしき人として。
これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府のこの上ない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!
十八時。イギリス文化会館で定例会。そのとき、市長が国際委員会の発足を正式に発表した。私はいった。我々はすべての大使館から道義的な理由によって支持されており、アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にすでに電報を二本打った。そして個人的にヒトラー総統およびクリーベル総領事にも打電した、と。「ただ、総統からの回答は期待できないと思います。この種のきわめて微妙な外交問題は、おそらく他の方法で処理されると思われるからです。ですが、その一方で、私には総統が援助を拒否されるはずはないという確信があります。あともう二、三日待っていただきたい。なぜなら、日本が承諾を得ることについて、まだ諦めたわけではないからです」
蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出た。私はカルロヴィッツ社のクレーガーを財務委員として推薦した。これは承認され、クレーガーは快く引き受けてくれた。また、例の家(寧海路五号)に住んでもらえないかと頼んだところ、これも承知してくれた。
ドイツ国旗を掲げているのに、内政部を警備している兵士にトラックが没収されてしまった。唐の代理である龍上校(大佐)に電話して返してもらったときには、夜の十一時になっていた。
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◆★▼ Apeman [>赤新聞 原文は"diese Revolverpresse"で、小学館独和大辞典によると Revolverblat..]
◆★▼ pippo [Apemanさん どうもです。 現代人向きには「悪徳新聞」とかとしたほうがいいのでしょうかね。yellow pape..]
◆★▼ Apeman [>yellow paperというイメージでしょうか? そのあたりがしっくりくる感じですね。「タブロイド紙」と意訳し..]
◆★▼ 1937-2007 [「日中戦争スタディーズ」運営者です。ご紹介ありがとうございました。 「ラーベの日記」企画は開設にあたって大いに参考に..]
◆★▼ pippo [1937-2007 70周年さん こちらこそ宜しくお願いします。]