
「2006年12月1日本格運営開始。私たちは日中戦争についてどれだけ語ってきただろうか?」
精力的な、私から見ればもちろん若い人たちが始めたらしいブログhttp://blog.goo.ne.jp/1937-2007
十ニ月一日(※)英文では
九時半に、クレーガー、シュペアリング両人を平倉巷で開かれる委員会へ行く。いろいろな役目をわりふって、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米三万袋と小麦粉1万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で(※)。難民用の給食所をつくる予定だ。
三つめの防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入り口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から二万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の十万ドルの第一回目だ。のこりはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめただけだった。この慎重さ、国際委員会が慎重であるということは、南京の住民はもっと慎重なはずだ。家や家具、貯えの全てを捨てて、おいそれと安全区に移ってテント生活者になってたまるか、私ならそう思う。
フィッチ、クレーガー、スマイス、YMCAの王(ワン)、リッグズ、私のメンバーで寧海路五号にある家を見に行く。明日から、ここを委員会の本部にするつもりだ。スマイスは、家のりっぱなことと豪華な調度品、それから一万七千五百ドルもの値打ちのある防空壕にいたく感動してつぶやいた。
「これからは、あなたのことをもっぱらジョン・H・D・ラーベ・ロックフェラーと呼ばせてもらいますよ」
十八時、会議。南京に残っていいる住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、われわれの責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうと言う意見だった。安全区に移るようすすめる文面は、ひじょうに慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
ローゼンがアメリカ人を通じて(※)知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。まちがいない。総統が私を見殺しになさるはずがない!(※)英文では "news via the Americans"
ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗る(※)か決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュルベルク先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。だから、乗るのは、ヒルシェルベルグ先生の奥さんと娘さん(この二人はすでに乗船している)、ローゼン、ヒュルター、シェルフェンベルクの大使館員三人、それから店員二人、すなわちノイマンさんと名前を知らないロシアの女性。それからカフェ・キースリングの会計係だ。(※)英文では、"to board the Hulk"
ヒルシュルベルグ先生が張を漢口に連れていった。かみさんはまだよくならない。発つ前に、私のインシュリンをわけてやった。医者が緊急に必要なので、先生は飛行機で帰るつもりだ。(ジーメンスのアシスタントである)韓とその友人、怡和通レンガ工場の孫を食料大臣に任命した。韓は顔をかがやかせて言った。「こんなに高い役職についたのは、はじめてですよ」周りの中国人に沈黙を強いるきつ過ぎるジョークも多いが、これは心温まるわかり易いジョーク。ラーベおいちゃん、決まったね。
十一月三十日
韓に家族を連れて越してくるようにいった。一家はいま学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で怡和通レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだできあがらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げた煉瓦壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)がひとつあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道がとまりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約1ヶ月分ある。
一晩かけて予備の注射器を煮沸消毒した。器具一式と、インシュリンのアンプル三個を肌身離さず持ち歩いている。張のかみさんはまだ入院している。コックの曹も入院中だが、こちらは快方に向かっている。せっせと薬を飲んでいる。効くと信じているが、理由は簡単、まずいからだ!
ラーベが住民の数を知りたかったのは、食料や住居の確保のためだ。蕪湖から医者のブラウンさんとフランス人の神父さんがやってきた。蕪湖でも安全区を設けるつもりなのでいろいろ知恵を貸してもらいたいという。だがこちらも途方にくれている有様なのだ。
まだ残っている住民の数をもう少し正確につかまなければな。「正確な」情報を教えてくれるといっていた男、すなわちかつての警察庁長王固盤が逮捕されたという噂が、たった今飛び込んできた。自分は軍人ではないから任ではないといって辞任したのだったが。
スマイスから電話。南京市には六万袋、下関には三万四千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまり藁小屋に使う筵だ。この寒空に、なんとかして泊まれる場所を確保しなければならない。
以下は国際委員会が抱えている課題である。
- 資金の調達
- 警察
安全区入り口の検問
境界の警備
警察官の総数とその宿泊施設の整備- 兵士と軍人たち
撤退の指令と視察
すでに始まっている脱走兵の対策
負傷者の看護- 食糧の配給
食料の管理
食料の貯蔵と分配- 輸送と輸送手段
- 避難民の収容施設
見張り
建物の使用と管理
(a)公共の建物(政府の)
(b)学校や伝道団の建物
(c)空き家、藁小屋- 公共施設
水道
電気
電話- 衛生設備と健康管理
仮設便所
ゴミと糞尿の運搬
病院と医療設備次に南京安全区委員会のメンバーリストを記す。
名前 国籍 所属 ジョン・ラーベ(代表) ドイツ ジーメンス洋行 ルイス・S・C・スマイス(事務局長) イギリス 金陵大学 P・H・マンロ=フォール イギリス 亜細亜火油公司 ジョン・マギー アメリカ アメリカ聖公会伝道団 ☆P・R・シールズ イギリス 和記公司 ☆J・M・ハンソン デンマーク 徳古士煤油公司 ☆G・シュルツェ・パンティン ドイツ 興明貿易公司 ☆I・マッケイ イギリス 太古公司 ☆J・V・ピッカーリング アメリカ 美孚煤油公司 エドゥアルト・シュペアリング ドイツ 上海保険公司 M・S・ベイツ アメリカ 金陵大学 W・P・ミルズ アメリカ 長老派教会伝道団 ☆J・リーン イギリス 亜細亜火油公司 C・S・トリマー アメリカ 鼓楼病院 クリスティアン・クレーガー ドイツ カルロヴィッツ・南京(礼和洋行) ジョージ・フィッチ アメリカ 基督教青年会(励志会)
(編注か?)☆印をつけた人は、包囲される前に、南京を去っている。
東京日日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>
百人斬り競争!両少尉、早くも八十人
[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。
無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉
この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉
僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ


11月21日-26日 無錫附近の戦斗に参加
常熟よりクリークを利用して 大発にて進む。敵の迎撃を受け展開。人力で舟を曳行前進する。射撃開始直後 第一分隊砲側に迫撃砲弾炸裂し 砲は破損分隊長山田金治郎伍長,四番砲手山添銀治郎上等兵,五番砲手橋本徳太郎上等兵 戦死。爾後南京入城まで第二分隊の砲一門で戦う。
11月27日-30日 常州附近の戦斗
12月1日-3日 丹陽附近の戦斗
無錫駅を出て 線路沿いに人力搬送で急進する。
十一月二十九日
シュペアリングから電話。王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。
スマイスは、「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。
ローゼンから電話。日本人(※)は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないどろうか。それにしても唐生智がしたような発言(「南京を死守する」云々)は、迷惑千万だ。司令官というものはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。
持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。ヒトラーユーゲントのリーダー、バルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。ドイツ人庶民の多くがヒットラーをなぜ信じたのか、理解するヒントの1つになりそうだ。
総統のかくも偉大なるところ、それは、
われらが総統にして
あまたの民の英雄たること。
また、彼その人。
素直にして堅固、かつ素朴、
彼のなかにわれらが世界の源あり。
その魂ははるか天空へと達しながら、
なお人としてとどまられた。
君やわれとひとしき人として。
これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府のこの上ない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!
十八時。イギリス文化会館で定例会。そのとき、市長が国際委員会の発足を正式に発表した。私はいった。我々はすべての大使館から道義的な理由によって支持されており、アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にすでに電報を二本打った。そして個人的にヒトラー総統およびクリーベル総領事にも打電した、と。「ただ、総統からの回答は期待できないと思います。この種のきわめて微妙な外交問題は、おそらく他の方法で処理されると思われるからです。ですが、その一方で、私には総統が援助を拒否されるはずはないという確信があります。あともう二、三日待っていただきたい。なぜなら、日本が承諾を得ることについて、まだ諦めたわけではないからです」
蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出た。私はカルロヴィッツ社のクレーガーを財務委員として推薦した。これは承認され、クレーガーは快く引き受けてくれた。また、例の家(寧海路五号)に住んでもらえないかと頼んだところ、これも承知してくれた。
ドイツ国旗を掲げているのに、内政部を警備している兵士にトラックが没収されてしまった。唐の代理である龍上校(大佐)に電話して返してもらったときには、夜の十一時になっていた。

十一月二十八日不安は高まるが、日本側からの返事待ち。
昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。
「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答えが返ってきた。
次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は「そのときは日本人がすればよい」というものだった。
言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは・・・・・・。さすが、賢明なお考えだ!
神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば!本格的な攻撃が始まったら、どんなに悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。
ローゼンからこんなことも聞いた。総統に電報をうったドイツ人はいったいだれだと、トラウトマン大使が問い合わせてきたという。大使はもうローゼンからの手紙を受け取った。今日の午後、ラジオでは、安全区に関して何もいってなかった。
十五時。スマイスの家で行われる会議のため、シュペアリングが迎えにきた。
この会議で、フィッチを正式に役員に、抗立武を中国側の顧問に任命することになっていた。日本から返事をもらうまでは、これ以上動けないということで意見が一致した。
ミルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。それより穏やかに明渡した方がよいのではないか。できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍にそのことを伝えるべきではなかろうか。だが抗立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。結局日本政府から承認されるまで待とうということになった。
十六時半に散会。あまり成果はなかった。なにもかも中途半端だからだ。十八時にイギリス文化会館で会議。郵便局長の李奇氏は、郵便局が正式に閉鎖されることになったと伝えた。けれどもポストの郵便物は時々回収されるので、手紙を投函することはできるという。リッチー氏は少し興奮しているようだった。彼の部下は大勢いてこれまでよく働いてきたが、そっくりいなくなってしまうのだ。李奇氏=リッチー氏。同じ人。
人々の話では、日本軍は蕪湖より六十キロ離れたところにきていて、三日後にはこちらに着くという。だがそれはおかしい。そんなことは不可能だと思う。「もっとも」は英文には無い。 「今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだがそれがすぐに、(張り紙対策で)解決した。」というjoke。
会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。もっともこれはすぐに解決した。
寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここは表向きだけ住んでいることにするつもりだ。うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。ずらかる?="Which means, he'll decamp!"
二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二十万人住んでいるとくりかえした。ここにとどまるかねと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。「できるだけ長く」
つまり、ずらかるということだな!
◆★▼ Apeman [>ずらかる?="Which means, he'll decamp!" 原文では"ausrucken"(二つ目のu..]
◆★▼ pippo [Apeman さんありがとう御座います。 私はドイツ語はわかりません。ドイツ語版とりよせとは心強い限りです。いろいろ..]
◆★▼ pippo [詳しくは、 http://eu.c.u-tokyo.ac.jp/morii/umlaut.html と、このページの..]
◆★▼ Apeman [>なお、ウムラウトの記法は、『& A u m l ;』(説明の為に半角あけています)です。 ありがとうございます。..]
◆★▼ pippo [おやおや、本文ではOKのようです。ツッコミ欄ではNGでも。 http://latemhk.tdiary.net/2..]
以下は、編者ヴィッケルトによる注記です。日本語訳本には「ゲオルク・ローゼンの身上書より」とあるが、英語版では "From Georg Rosen's Personal File" とういう見出しです。『身上書』ではちょっと違った意味がつけ加わってしまい誤解の元になります。要するにビッケルトがローゼンの経歴を個人ファイルから要約したということです。十一月二十七日
コックの曹はまだよくならない。良い薬を処方してもらったのだが、薬局が軒並み逃げてしまったので、手に入らなかったという。今日、五日も経ってからようやく、使用人仲間は曹のことを私に知らせなければと思いついたらしい。とりあえず、とぼしい買い置きのなかからすこしわけてやった。おまけにこの一週問、曹は火の気のない部屋で寝ている(節約のためだが)。だから石油ストーブを貸した。なぜ石炭ストーブを焚かないのかと聞くと、板金屋が全部しまっているので、室内煙突が買えないとの返事。嘘だと思うが、もうすこし事情を調べてみなければ。
曹はあまり仲間に取り入らなかつた。それでみな彼を見殺しにしたのだ。むろんそんなことがあっていいはずがない。
ローゼンは私のために献身的につくしてくれる。ここに残っているドイツ人のなかで、私がいちばん気がかりらしい。いっしょにジャーディン社の船に乗る気がないのではと心配しているが、その心配はもっともだ。船に乗れるよう、ローゼンはプリドー=ブリュン・イギリス領事発行の証明書を私の手に握らせた。この船はまもなく揚子江上流へ曳航される。かっての外交部長張群将軍の家も、使つても使わなくても構わないからといって世話してくれた。要するに、できるだけのことをしてくれるのだ。
昨日の午後、我々は胸襟を開いて語り合つた。というより、ローゼンが自分の運命について語つたのだ。おじいさんはベートーベンと親しかったたらしい。べートーベンがおじいさん(実際には曾祖父である作曲家、イグナーツ・モシェレスのこと)にあてた手紙を見せてくれた。ローゼンの家系はおよそ一世紀も外交関係の仕事についているという。お父さんは大臣だったが、ユダヤ人のおばあさんがいるため、自分は書記官のままで終わってしまうだろうといっていた。気の毒に!
「休暇より戻るに及ばず」は誤訳です。ゲオルク・ローゼンの個人ファイルより
一九一二年ローゼンは外務省に入省したが、ヒトラーの全権掌握以降は「ユダヤ人と姻戚関係にある」とされ、外交官としての昇進はできなかった。一九三八年、休職を命じられたあと、イギリスヘ亡命、一九四〇年アメリカヘ渡る。戦後、帰国して外務省に入り、一九六〇年、モンテビデオ大使を最後に退官。翌年死去。
ローゼンは如才ないジョン・ラーべとは対照的で、ぶっきらぼうだった。ヒトラーの人種法による差別にひどく苦しめられていた彼は、その心情をラーべに打ち明けたのである。
「気の毒に!」とラーべは日記に書いている。ローゼンがラーべに事実を打ち明けたのは一九三七年十一月二十七日だった。その三日前に漢口の大使館にあててドイツ外務省から人事課長の署名入り電報が打たれていた。そのことを彼はすでに知っていたのだろうか?電報(秘密の暗号による)
大使殿 親展
ローゼンに穏やかに告げられたい。休暇より戻るに及ばず。アーリア系でないため、近日中に休職を命ずるものとする。検査官
夕方
北平路六九号にて、十八時に会合。唐司令長官が出席し、つぎのように言った。防衛戦はいよいよ間近に迫った。その際、部隊の統制が失われる可能性がある。だが力の及ぶ限り、防衛軍は外国人を保護する覚悟である。城門は閉鎖されるが、外国人はその直前まで通行できる見通しである、と。
ローゼン、プリドー=ブリュン・イギリス領事、アチソン・アメリカ大使館書記官の三人は、今日の午後、蒋介石を訪ねた。南京の防衛について、一度、本当のところを聞かせてもらいに行ったのだ。とてもよい考えだ!
国際委員会は、いまだに日本から返事をもらっていない。そのため、アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にもう一度電報をうった。ヒトラー総統とクリーベルにあてた私の電報になにか応答があったかどうかは、むろんわからない。私の考えでは、電報はもうベルリンに届いているはずだ。
明日の十四時に会議を開くことになった。もしも日本から返事がもらえなかったとしても、事前になんらかの行動を起こさなければならないだろう。つまり、少なくともなにかしら準備しなくてはならないということだ。
NOTES 4.This remark by someone on the embassy staff refers to a directive from Hitler. The German embassy in Nanking had telegraphed the Foreign Ministry asking whether, for their own protection, Jews of German nationality who lived outside international concessions ( as for instance in Tientsin or Shanghai ) were permitted to display the Reich flag with swastika. This suggestion had originally come from the Japanese general consul in Tientsin. In an express letter to the Reich Interior Ministry dated 9 September 1937, Legation Councilor Hinrich, an official of the Foreign Ministry, noted that he was aware that "in general there should be only a limited extension of protective measures to Jews living abroad." But then he added that conditions in China were quite different. "In practice, then, we are left with no other means by which to make the property of German nationals of Jewish blood recognizable than by displaying the German flag." Moreover, this was not in any way a "display of the flag in a legal sense." And it was the view of the legal department for overseas organizations-in effect, of the NSDAP-that there was no problem with displaying the flag of the German Reich as a way to make Jewish property recognizable. Herr Hinrich requested a reply by return mail. The deputy state secretary of the Reich Interior Ministry responded that he, too, had no objection; but just to conform with regulations, he suggested that the matter be "submitted to the Fiihrer and Reich Chancellor for decision." The director and state secretary of the Reich Chancery passed on Hitler's answer on 4 October:
The Führer and Reich Chancellor has decided against granting German nationals of the Jewish race permission either to display our national flag because of the warlike confusions in China or to make themselves recognizable by the wearing of armbands of a similar nature.
It is the Führer's view that German nationals of the Jewish race can protect themselves and are adequately marked by displaying white flags or armbands, on which, if necessary their association with the Reich can be indicated in German or some foreign language.This trail of letters shows that officials at the Foreign Ministry and even the Reich Interior Ministry were less rigorous in their treatment of "German nationals of Jewish blood" than was the Führer and Reich Chancellor. A telegram reflecting Hitler's directive was then sent to the embassy in Nanking ( Federal Archives, Berlin, R 43 11/1286 ).
帰国後、ラーべは日記を清書し、資料とあわせて八百ぺージからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた。本書はこの『南京爆撃』から、最も重要と思われる部分を抜粋したものである。なお、はじめの日記からも二、三ヵ所引用してある。編纂に当たって、私はジョン・ラーベという人物のあらゆる面が浮き彫りになるように努めた。AFTERWORD John Rabe's Last Years
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◆★▼ Apeman ["price"にあたる単語はドイツ語では"Hö chstpreize"なので「最高価格」ですね。しかし「最..]
◆★▼ Apeman [ウムラウトの表記に失敗しました。"Hoechstpreize"です。 もう一度やってみよう。ö ]
◆★▼ pippo [Apemanさん ありがとうございます。"H<i>o</i>chstpreize"ですね。で意味は、高値で売りたいの..]