
ジョン・H・D・ラーべこの写真が撮られた1937年、ラーベは既に55歳でした。ヘルメットを被り、ナチ党員で、世界的コンツェルン、ジーメンス社、といわれると、そそっかしい人はラーベがドイツの軍国主義者かと思うかもしれません。ラーベの日記を読むと、直ぐにわかるのですが、人物印象は全く違います。
1882年ハンブルグ生まれ。1911年にドイツの世界的コンツェルン、ジーメンス社に入社。ナチ党員。日中戦争が深刻化し、首都南京が陥落したときは当地の支社長だった。日本軍占領下の南京で国際安全区委員会の代表となって中国人を救おうと奔走する。また、その時の状況を詳細な日記に記していた。1950年、べルリンにて死去。
九月二十一日
裕福な中国人たちはとうに船で漢口へ避難しはじめていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輸で防空壕が作られた。とはいっても、十九、二十日と、続けて四度の空襲にみまわれるまでは、ごく平穏な毎日が続いた。
アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていた。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。安全な北戴河からわざわざここへ戻ってきたのは、なにも冒険心からなどではない。まず財産を守るため、それからジーメンスの業務のためだ。むろん、社のために命を差し出せなどといわれてもいないし、いうはずもない。第一、私自身、会社や自分の財産のために命をかける気などこれっぼっちもないのだ。だが、伝統あるハンブルク商人である私にとって、どうしても目をそむけることのできない道義的な問題がある。それは中国人の使用人や従業員のことだ。かれらにとって、いや、三十人はいるその家族にとっても、頼みの綱は「ご主人(マスター)」、つまり私しかいないのだ。私が残れば、かれらは最後まで忠実に踏みとどまるだろう。以前、北部の戦争で私はそれを見届けている。逃げれば、会社も家も荒れ果てる。それどころか略奪にあうだろう。それはともかく、たとえどんなにつらいことになろうとも、やはりかれらの信頼を裏切る気にはなれない。こんなときでなければさっさとお払い箱にしたいような役立たずの連中すら、いちずに私に信頼をよせているのをみると思わずほろりとする。
アシスタントの韓湘林が給料の前払いを頼みにきた。妻子を済南へ避難させたいという。韓はきっぱりといった。
「所長がおられる所に私もとどまります。よそへ行かれるなら、私も参ります!」
うちの使用人も大半がやはり北部の出身だが、貧しく、逃げようにも行く所がない。せめて妻子だけは安全な所へと思い、旅費を出そうといったが、かれらはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。むろん、みな故郷へ帰りたい気はある。だが、帰ったところでそこも戦いのさなかなのだというわけで、口々に、ここに、私のそばにいる方がいいという。
こういう人たちを見捨てることができるか? そんなことが許されるだろうか? いや、私はそうは思わない! 一度でもいい、ふるえている中国人の子どもを両手に抱え、何時間も防空壕で過ごしたことのある人なら、私の気持ちが分かるだろう。
(後略)
※熊猫さんのご指摘 により、後続の黒字のとおり修正しました。(10/25)十月十三日
薄曇り。不穏な日だ。だがこのあたりは無事だった。八時に空襲警報。だが、十五分後に解除された。警報のたびに男も女も子どももみな、貧しい人たちが大ぜいわが家のそばを駆け抜け、五台山へと逃げていく。かなり大きな防空壕があるのだ。これだけでも悲惨きわまりないというのに、小さい子どもを抱いた母親たちのおびえようといったら! 見ていられない。きょうはそういう人たちが四回もここを通り過ぎていった。
防空壕をまた広げよう。ドイツ語の話せる沈(セン)さんと馮(フォン)さんが、わが家の近くの支局に転勤してきた。空襲警報が鳴ると二人ともここへ避難してくる。いつも郵便物を配達してくれる二人も常連だ。そのうち泊めてくれといってくるだろうが、場所があるだろうか。私自身はここのところまったく防空壕に出入りしていない。
上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーべが腹の具合が悪いといって帰ってきた。下痢だ。(※)
上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーべが腹の具合が悪いといって帰ってきた。コレラではないことをひたすら願う。神の加護を!神の加護を!神の加護を!
新聞各社の報道は中国機が塘沽の日本人倉庫を空爆したニュースと、依然としてアドルフ・ヒトラーが中国からドイツ顧問を召還した一件を、ベルリンの方は少しも知らない。しかも記事によれば、ドイツ軍官は全員が私人であり、身の振り方は自分で決定してよいことになっている。ロイター通信のローマの報道によれば、イタリア政府は中国から空軍顧問を撤回した報道を否定した。
ラーベというオヤっさんの、その人柄を反芻したために、どうしても引用が長くなってしまいます。皆さん、どうかお許しください。十月十七日
映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半は閉まっている。市内はびっくりするほど落ら着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もうあまりたくさんは残っていない。ドイツ人についていえば、女性が十二人、男性が六十人)不愉快な目にあってはいない。逆だ! 異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意をもってわれわれを見ているのだ!
誰もかれも先を争ってわが家の防空壕に入りたがる! なぜだかわからない! うちのはおそろしく頑丈だと噂が立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい十二人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことがわかった。総勢三十人。すし詰めだ。
いったいどこからこんなに大ぜいの人間がやって来たのかって? なに、簡単さ! うちのボーイにはそれぞれ、妻や子、父、母、祖父、祖母がいるのだ。だれもいなければ、どこからかつれてくるだけのことだ! いやはや、たくましいかぎりだ。それだけではない。近所の一家までかかえこむはめになった。この男は靴屋で、戦争前、私はやつに腹を立てたことがある。「必要経費(手数料。十パーセントは暗黙のうちに認められていた)」だといって、ブーツの勘定に二十パーセントも上乗せしてきたのだ。ところがどうだ、今度突然うちのボーイの親戚だということがわかったというじゃないか。しかたない。みんな入れてやった。断ったりしたら沽券(こけん)にかかわる!
防空壕では、私には事務所の椅子、ほかの人たちには低いベンチがおいてある。すぐそばで爆弾がどかどか落ちるようなときには、むろん私も防空壕に入らなければならない。それに、私みたいなものでも、子どもや女の人たちはそばにいるだけで安心するのだ。北戴河で、できるだけはやく戻ろうと考えたのは間違っていなかった。
不安を感じたことはないといったら、嘘になる。防空壕が激しく揺れ始めたとき、私もひそかにこんな気持ちに襲われた。「どうか爆弾が落ちませんように!」だが、不安なんか吹き飛ばすんだ。他愛ない軽口。いかがわしい冗談。するとみな、にやりとする。これで爆弾への恐怖がいくらかなりとも和らいだ。
防空壕の中では、赤ちゃんを抱いた女の人を優先すること。彼女たちがまんなかで、次にそれより大きい子どもをつれた女の人。最後が男性。男たちの驚きをよそに、私はくりかえしこういってゆずらなかった。。
すぐ近くでたてつづけに爆弾が落ちる。みんな口をぼかんとあけ、ものもいわずに座っている。子どもや女の人には脱脂綿で耳栓をした。ところが、すこしでも静かになると、待ってましたとばかり、ひとり、またひとりと勇士が出ていってあたりを見回す。敵の爆撃機が撃たれて、きれいな弧を描いて燃えながら落ちてこようものなら大変だ。みな大喜びで、拍手大かっさい。
冗談と諧謔精神に満ち溢れた人情家。ジョン・ラーベは、落語でも講談でも主人公になり得る、日本人なら誰でも好いてしまうオヤっさんであったのでした。十月十九日
今日はまた、ずいぶんとていねいなご挨拶じゃないか! 夜中の二時に空襲警報ときた。ようやくブーツをはき終えたとき、爆弾が落ちて、家じゅうが揺れた。ところがかのリーべだけは爆弾などどこ吹く風で、ぐうぐう眠っている。
「リーべさん、二回目のサイレンだよ!」
そのとたん、何度か爆音がした。すると、ようやく返事があった。
「はあー、きこえます」
発電所を再開するためにリーべはとてもよく働いた。第二発電機は全力駆動(五千キロワット)している。いま、第三機の修理中だ。六年前、うちが納めて以来ずっと使っている古いボイラーしか動かしていない。アメリカ製の有名なほうは、はじめからいじらなかった。
今夜、再びジーメンスのサーチライトが輝いた。さて、防空壕の「入坑時」の規則を作らなければ。トランスオーシャン通信社のデブの電信技師が、女の人や子どもをおしのけて真ん中の一番安全な場所を取ってしまうからだ。だから私はそいつをすこしばかりはじの方へ押した。そのはずみに地下水のわき出る穴に落ちて、ズボンの尻を濡らしてしまった。
今朝、防空壕の入り口に、でかでかと貼り紙をしてやった。ドイツ語と中国語と英語の三ヵ国語だ。
あのデブ、これで思い知ったろう !防空壕の仲間へ
この家の防空壕の利用者は、次の規則を守られたし。
婦人と子どもには、安全な場所、すなわち真ん中の席を譲る。男性は、端で立つか座るかして我慢すること。この指示に従わない者は、今後一切使用を禁止する。
南京、一九三七年十月十九日 ジョン・ラーベ
(後略)
おいおい、そうはいってもラーベさんって、単なる駄洒落オヤジじゃあないの?十月二十日
ドイツ大使館のホートさんは鼓楼病院に入院している。先日、狩りの集いがあり、揚子江でサンパン(中国式手漕ぎ船)に乗っていたところ、後ろにいた人の散弾がふくらはぎに命中してしまったのだ。ホートさんはイギリスの軍艦で応急手当をしてもらった。まったく戦争中というのはどんな目にあうかわかったものではない ! よりによってふくらはぎを撃たれるとは ! ところで、ホートさんの傷をたたえて「靴下止め(ガーター)勲章」を授けるというのはどうだろう。よし、きめた !
どうやら、ラーベのオヤっさんは、自問自答を「手紙」でしたようです。十月一九日(後半)
(前略)
なかで、ひとり、この変てこな「ご主人(マスター)」だけは何を考えているのかわからない。彼は黙って帽子をとり、そしてつぶやく。「静かに! 三人も人が死んだんだ!」ある手紙から
ここにいる人たちはみな、自分たちの言うことを「きわめて深刻に」受けとめてもらいたがっています。しかし、こういうのはおよそ私の柄ではありません。実は私には困った才能がありまして、おかまいなしにジョークをとばしてまわりの顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうのです。
むろん、深刻な状況ではないなどというつもりはありません。深刻ですとも、ものすごく。いや、事態はますます厳しくなるに違いありません。でも、これをどうやって乗り切ったらいいのでしょうか? 私は「ユーモアで」と考えています。最後のひとかけらまでユーモアをかき集め、運命、この愚かしい運命に立ち向かおう、と。そういうわけで、私の朝晩の祈りはこうなります。「神よ、私の家族とユーモアをお守りください。そのほかのことは自分で気をつけますから」
ところで、あなたはこう聞きたいのでしょう。何のために私たちがここにいるのか。今どうやって暮らしているのか、と。つまり、こういうことです。人はだれでも、まっとうな人間でいたい、だから私も従業員や家の使用人を家族もろとも見殺しにしたりせず、物心両面から助けたいのだ、と。わかりきったことではないですか !
| 前 | 2006年 10月 |
次 | ||||
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
| 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
| 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
| 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
| 29 | 30 | 31 | ||||