
(「南京の真実」ジョン・ラーベ著(平野響子訳),講談社1997第1刷 p31)十月十三日
薄曇り。不穏な日だ。だがこのあたりは無事だった。八時に空襲警報。だが、十五分後に解除された。警報のたびに男も女も子どももみな、貧しい人たちが大ぜいわが家のそばを駆け抜け、五台山へと逃げていく。かなり大きな防空壕があるのだ。これだけでも悲惨きわまりないというのに、小さい子どもを抱いた母親たちのおびえようといったら!見ていられない。きょうはそういう人たちが四回もここを通り過ぎていった。
防空壕をまた広げよう。ドイツ語の話せる沈(セン)さんと馮(フォン)さんが、わが家の近くの支局に転勤してきた。空襲警報が鳴ると二人ともここへ避難してくる。いつも郵便物を配達してくれる二人も常連だ。そのうち泊めてくれといってくるだろうが、場所があるだろうか。私自身はここのところまったく防空壕に出入りしていない。上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーべが腹の具合が悪いといって帰ってきた。下痢だ。
(「南京事件」笠原十九司、岩波新書p17〜18)宣戦布告なき首都爆撃
南京・一九三七年八月一五日
一九三七年八月一五日の南京は、東支那海に停滞する台風からのびた雨雲が上空低くたれこめ、域外東に聾える名峰紫金山(海抜四八○メートル)をおおう黒雲の動きが急であった。前月七日の蘆溝橋事件と二日前の第二次上海事変(上海戦または上海攻略戦と略称)勃発をきっかけに本格化した日中全面戦争の戦雲が、中国の首都にまで及んできたことを告げるかのような暗雲だった。熱帯高気圧がもたらす高温・高湿度の空気が南京市民を不安で不快な気分にさせていた。
この日の午前、南京を離れる最後の在南京日本大使館員と日本人居留民団員が、下関の埠頭から汽船で長江を渡り、対岸の浦口から津浦(天津-浦口)線に乗って青島に向けて出発した。引き揚げる日本人にたいして、中国民衆から危害をくわえることを懸念した中国国民政府は、特別列車を用意し、憲兵四〇名を護衛につけ、外交部の係官二名を随行させて不祥事の発生をふせいだ(庄司得二『南京日本居留民誌』)。
日本人の一行が丁重に送られて浦口駅を発ってから三時間あまりすぎた午後、二時五〇分ころ、昼食と昼寝をおわって午後の職場にもどったぼかりの南京市民は、にわかに鳴り響く空襲警報のサイレンのうなりと、雨雲におおわれた南京の天上を震憾させて轟きわたる爆撃機の轟音とで、たちまち恐怖と混乱におちいった。喧騒と叫び声が市中をおおうなかで、多くの市民が幼児や年寄りを抱えて戸外へ飛び出し、即席につくられた近くの防空避難壕に駆けこんだ。
低くたれこめた雨雲をぬってつぎつぎと機影をあらわした日本海軍機二〇機は、約五〇〇メートルの低高度から市内各所に爆弾を投下しはじめた。城外南の大校場飛行場(軍用)、域内の民故宮飛行場(民間機用)・大行宮、第一公園、新街口など、軍事施設とその周辺の人口密集地につぎつぎと六〇キロ陸用爆弾が投下され、各所に火柱と硝煙があがった。市の中心の官庁街にある司法院の建物には飛行機から機銃掃射がくわえられ、数人が負傷した。南京市立図書館にも爆弾が投下され、蔵書すべてが被害をうげた。また、中央研究院の生物研究所の図書館が爆撃を受けて出火、蔵書三万冊と生物標本が焼失した(「日本侵華戦争対中国図書館事業破壊」)。
爆撃はおよそ四〇分にわたってつづけられ、軍人と市民に死傷者数十名という犠牲がでた。
北京郊外ではじまった戦闘も、上海に飛び火した戦火も、まだ遠雷のように思っていた南京市民は、この八月一五日からいっきよに日中全面戦争の戦禍にさらされることになつた。そしてこの日が南京事件にいたる南京市民の受難の歴史の幕開けとなった。
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